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2015年4月

2015年4月27日 (月)

沢田研二 「許されない愛」

from『JULIEⅡ』、1971

Julie2

1. 霧笛
2. 港の日々
3. 俺たちは船乗りだ
4. 男の友情
5. 美しい予感
6. 揺れるこころ
7. 純白の夜明け
8. 二人の生活
9. 愛に死す
10. 許されない愛
11. 嘆きの人生
12. 船出の朝

-------------------------

加瀬さん。
大きな時間が巡る世界で新たな無限のエネルギーを手にされ、早速大活躍されていることと思います。

先日、僕はこれまでどのくらい加瀬さんの作曲作品を記事に書いてきたんだろう、と思って数えてみたら、書いたばかりの「SHE SAID・・・・・・」の記事まで、全部で31曲もありました。
それでも。
何人かのジュリーファンの先輩が、ジュリー関連の加瀬さんの曲を整理してくださっていて、それを拝見すると、まだまだ書いていない名曲がたくさんたくさん残っているんです。

その中のひとつ・・・加瀬さんが作ってくれた、僕がこの世で一番好きなアルバム『JULIEⅡ』からのシングル・カットに して、ソロ歌手・ジュリー初の大ヒット曲「許されない愛」。
これまで何度か「書こう」と思い立ったことはあるんですけど、何となく先延ばしにしてきました。書いちゃうのが勿体無い気もしていましたし、僕などが「伝授!」な~んてやるのは、100年早い曲のような気もしましたしね。
まさか、こんな気持ちで書く時が来るなんて、夢にも思っていませんでしたよ・・・。

でも、いつもの僕のスタイルで、楽しいジュリー・ナンバー大名曲の考察記事として書こう、と思っているんです。

いつもお世話になっているジュリーファンの先輩が教えてくださいました。加瀬さんは、「僕は人が喜んで、愉しんで、感動してくれることが一番嬉しい」と仰っていた、と。
何と素敵な言葉でしょう。
及ばぬまでも、見倣わなければなりませんね。

今、加瀬さんのことを思い出すと、その笑顔にどれほど暖かな力が漲っていたのか、改めて分かるような気がします。
加瀬さんの旅立ちを聞いてからというもの毎日のように、2010年のジュリーwithザ・ワイルドワンズ・八王子公演での「FRIENDSHIP」が終わった後の加瀬さんの笑顔が脳裏に甦ってきます。
あの日あの曲でジュリーが歌詞を見失って、「あわや」というところを、ステージ上の全員が力を合わせて切り抜けました。
曲が終わって皆がいったん退場の直前に、ジュリーがお客さんに向かって最後の念押しの土下座をした時、加瀬さんがギターを抱えたままジュリーに歩み寄って、膝をついて「ポンポン!」とジュリーの肩を優しく叩いていましたね。あの時の加瀬さんの笑顔ばかりを僕は思い出しているのです。

加瀬さんの笑顔の記憶に力づけられて、僕はこれから「許されない愛」の記事を書かせて頂こうと思います。

☆    ☆    ☆

「ブラス・ロック」と人の言う。
トランペット、トロンボーン、サックス・・・豪快な金管楽器のアンサンブルが、ロック・バンドと競演する、説得力抜群のアレンジ・コンセプト。ビートルズなら「ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」「レディ・マドンナ」「サボイ・トラッフル」。ストーンズなら、「ビッチ」「ロックス・オフ」「ドゥ・ドゥ・ドゥ・・・」。
こうして挙げていくと、とてつもなく好きな曲ばかり。

そうかぁ、僕は「ブラス・ロック」というだけでもう、その曲のことを愛せるのかもなぁ・・・。
ブラスバンドをやっていたせいか、さして音楽知識の無かった中学生の頃から、「あ、この音はトランペットだ」くらいには耳が効いていたので、自然に聴き込みが深くなっていたのかもしれません。

今日のお題は、日本の歌謡界に「ブラス・ロック」で殴りこんだ(?)ジュリーの大ヒット曲。

ザ・ワイルド・ワンズとザ・タイガース。それぞれのバンドで既に大成功を収めていた加瀬さんとジュリーだけど、額を突き合わせ肌を合わせて(いや、変な意味ではありませんよ!)以降の2人のサクセス・ストーリー・・・その原点とも言える曲ではないでしょうか。
「許されない愛」、僭越ながら伝授です!

Forbiddenlove15

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「許されない愛」には個人的に色々語りたいところが本当にたくさんあるんですけど、あまりに長くなってもナンですので、この記事ではおもに「ブラス・ロック」のアレンジと、ジュリーのヴォーカルに焦点を絞って考察してみたいと思います。

でも最初に、演奏とミックスについて少しだけ。
『JULIEⅡ』収録曲の演奏は、どの曲のどの楽器も最高に素晴らしいトラックばかりですが、「許されない愛」のバンド・サウンドについて敢えて特筆するならば、やはりリード・ギターとオルガン。この組み合わせはどうしてもドアーズを想起しちゃいますね。
アルバムへの加瀬さんの提供曲は2曲共にドアーズを彷彿とさせるものがありますが、「純白の夜明け」がコード進行やメロディーに強くそれを感じるのに対し、「許されない愛」では演奏、アレンジなのです。
正に「咆哮」の音ですよ。

またミックスについては、1’49”からの伴奏部で、先日「涙まみれFIRE FIGHTER」のエンディングについて書かせて頂いた「レコーディングされた複数の演奏トラックへの後がけのエフェクト(フランジャー)」が導入され曲の臨場感を高めています。
40年以上もリリース時期を異にした2曲いずれもが「激情」「喪失感」を狙ってまったく同じミックス手法を採り入れている・・・とても興味深いことですね。

さて。
70年代初期、日本の歌謡曲にオーケストラの伴奏付きは当たり前、常識だったのだそうです。
あくまでオーケストラとしてのストリングスやブラス隊が曲を豪華に装飾し、歌手をもり立てる・・・そんな手法が全盛の時代にあって、突如「ロック・バンドとの競演」を前提としたホーン・セクションを擁した激しい曲がお茶の間のド肝を抜き一躍大ヒット。
歌うのはあのザ・タイガースのジュリー・・・とくれば、なんとも痛快な話ではありませんか。

しかし、ですよ。
もし単独のシングルとして「許されない愛」という曲が制作・リリースされていた場合、このアレンジ・アプローチは果たしてあり得たでしょうか。
僕は個人的に「許されない愛」のアレンジ、ひいてはジュリー・ヴォーカル最大の意義を、「アルバムからのシングル・カット」であることに見出しています。

アルバム『JULIEⅡ』の収録曲を見ていくと、各曲の特性やコンセプト・ストーリーに合わせ、「この曲はこのアレンジ」というふうに、オーケストラの役割、手管も様々。それぞれ的確に割り当てられています。
優しいストリングスをメインとするもの、おどけたような木管楽器が囃し立てるもの・・・本当にバラエティに富んでいる中、そうした手管のひとつとして「許されない愛」のブラス・アレンジも生まれています。これ、最初は「シングルで売る」ためのアレンジとしては考えられていなかったと思うんですよ。
禁断の愛を自ら断ち切ろうとする激情を歌った、良い意味で「負」の激しさを持つ「許されない愛」には、あくまでアルバム収録曲のバランス上、豪快なホーン・セクションと、濡れた音色のギター、オルガンとの濃密な競演が求められたのではないでしょうか。

その後になって、アルバムの中から、最も「ジュリー」を押しだせる曲としてシングルに選ばれたに違いない「許されない愛」。大ヒットはあくまでオマケ(いや、ソロ歌手・ジュリーの潜在能力が最初にセールスに結びついた必然の結果、とも言えますが)、嬉しい誤算?だったのかもしれません。
しかし、「ジュリーならシングルはこの曲だよ!」という手応えがスタッフの総意として自然に纏まっていったのだとすれば、作曲者である加瀬さんの功績ははかりしれないものがあります。

これまで何度か書いていますが、僕の少年時代のジュリーの鮮明な記憶は「勝手にしやがれ」から。それ以前では「危険なふたり」を「なんとなく覚えてる」という感じです。先輩方にとっては信じられないことでしょうが、「時の過ぎゆくままに」すら何の記憶も持っておりませんで・・・そんな僕は当然「許されない愛」という曲をまったく知りませんでした。
2005年(だったと思う)にジュリーのポリドール期の作品が一気にリマスター発売され、勤務先でたまたま手にした『ROYAL SYTAIGHT FLUSH』全3枚の試視盤との出逢いが、ジュリーファンとしての僕の第1歩目となったわけですが、当時「ロック」に強い拘りのあった僕は『ROYAL SYTAIGHT FLUSH』の「Ⅱ」と「Ⅲ」ばかりを聴きまくり、「Ⅰ」は後回しにしてしまいました。「たぶん歌謡曲時代だから」という、たったそれだけの完全に誤った思い込みでね・・・。
そのまま「アルバム」の大人買い期へと突入。そんな中、数十年来の音楽仲間であるYOKO君が『A面コレクション』を所有しているライトなジュリーファンであった、という事実が発覚し(今はヘヴィーです笑)、彼に借りた『A面コレクション』で僕は初めて「許されない愛」を知ることになります。

その時は特に強烈な印象は残らなかったんですよ。
いや、言い訳になりますけど、『A面コレクション』のボリュームと言うか密度って、冷静に考えるとちょっと凄過ぎるじゃないですか。一気に聴くと、圧倒されて1曲1曲への聴き込みができないと言うか・・・。
あと、やっぱりその時点でこの曲を「単独のシングル曲」と思い込んでいたことがまず僕の失敗でした。
もちろん良い曲だとは認識できましたが、「時代」或いは「背景」というものを知らずに『A面コレクション』を聴くと、「あなただけでいい」「死んでもいい」といった続く収録楽曲とイメージが混同して(もちろんそれは、「許されない愛」のヒットを受けて「ジュリーのシングル」にそうしたコンセプトが継続して与えられていった、という史実を学ぶことでもあるんですけど)、埋もれてしまっていたのかな。

それがある夜、アルバム『JULIEⅡ』の素晴らしさに突然目覚めたその時から、「許されない愛」の聴こえ方は、まるで変わってしまったのです。
もちろんアルバム通して聴くのが最高なんですけど、「許されない愛」を単発で(『ROYAL~』や『Aコレ』で)聴いても、何かドキドキ、ワクワクするようになってきました。大好きな曲になった、ということですね。
そうなると、アレンジやヴォーカルについても、細かいところまで耳がどんどんのめり込んでいきます。

この曲のホーンセクションについては、とにかくトランペットがただただ凄いな、と。
僕は映画『スウィング・ガールズ』を観たことがきっかけで、30代後半でいきなり「金管楽器をやってみよう」と思い立ちトランペットを購入、入門書を読みながら独学で勉強したんですけど、メロディー音域の広い曲、音符の粒が詰まっている曲、「#」の多いキーの曲については結局自由に吹きこなせるまでには上達しませんでした。
中でも特に難しかったのが、音域の広い曲です。

「許されない愛」のトランペットにはとてつもなく高い音を出すパートがひとつあって・・・それだけでもう「うひゃあ!」と聴き惚れてしまいます。
金管楽器には(基本3本のピストンを使った)いくつかの固定フォームがあり、唇の形を変えることにより同じフォームで違う音を出します。例えば「ド」と「ソ」は同じフォーム。また、普通の「ド」の音と高い「ド」の音、さらにもう1オクターブ高い「ド」の音もすべて同じフォームです。僕の感覚で大まかに言うと、低い音は「ぼ~♪」、高い音は「ぴゅ~♪」という唇の形で音を出します。これが、極端に高い音や極端に低い音になると、そうそううまくは出せないんですよね・・・。

『スウィング・ガールズ』でも、トランペット担当の女子高生(演じているのは、後に『ちりとてちん』で大ブレイクされた貫地谷しほりさん)が、「シング・シング・シング」(『act ボリス・ヴィアン』収録の「墓に唾をかけろ」の間奏で登場する有名なビッグ・バンド・ジャズ・ナンバー)の最高音がなかなか出せず苦闘する、という重要なシーンがあります。彼女は結局その練習時に、トランペットの中に住みついていたネズミ(笑)の突然の出現にビックリ仰天したはずみで偶然、曲の最高音に適う唇の形をマスター。これは、ユーモラスというだけにはとどまらない本当に素晴らしい脚本で、実際、唇を「ぴゅ~」の形にしながら「・・・・!」といった感じで身体をビクッとのけぞらせるようにすると、凄く高い音が出る唇の形になるんですね。
問題は、それを自在に操って演奏できるようになるかどうか、ということで・・・「許されない愛」の高音トランペット・パートを聴くと、当たり前ですがプロは凄い。
また、「技」の点ですと

だけどもしも ここにあなたが
   Gm    B♭        Cm       D7

いたなら駆け寄り すぐに抱く  だ ろ
      Gm            E♭    F     E♭ F   D7

あなたを連れ去り 逃げて行き  たい ♪
      Gm            E♭     F    E♭ F  Gm

このサビ部、ジュリー入魂のヴォーカルを追いかけるようにしてブラスが噛んできますよね。
パッ!と叩き斬るフレーズの連続にゾクゾクしますが、「いたなら♪」と「駆け寄り♪」の間のフレーズでの運指と音の複合技が特に素晴らしいです。途中「トゥルル♪」みたいな感じで鳴っている箇所があるでしょ? これが素人にはキレイに出せないんだなぁ・・・。

こうして加瀬さんの名曲に施された「ブラス・ロック」アレンジは、後のジュリー・ナンバーはもとより多くの歌手によるフォロワー的な日本歌謡ヒット曲へと様々な形で継承されていきます。
ただ、「受け継がれる」ということで言えば、”「許されない愛」が元祖!”なのは、ジュリーのヴォーカルこそが正にそうだったのではないか、と思うのです。
もちろんジュリーはタイガース時代から、「美しき愛の掟」などでこうしたヴォーカル・スタイルを既に魅せてくれていましたが、若い男性ソロ歌手が、情熱的な「激情」「溺愛」を狂おしく歌う・・・僕は70年代前半の歌謡曲の流れというのはタイムリーで体験していないのでこれが正しい感覚なのか分かりませんけど、例えば74年リリースの西城秀樹さんの名曲「傷だらけのローラ」(73年の「危険なふたり」と共に、小学生低学年だった僕が「なんとなく覚えてる」ほどインパクトのあった当時の大ヒット曲のひとつです)なんて、ジュリーの「許されない愛」が無かったら、果たしてあんなヴォーカル・スタイルになり得たでしょうか。
他にも僕の知らない 「許されない愛」から派生した男性歌手のヒット曲・・・まだまだありそうな気がします。

いずれにせよ、ジュリーの「許されない愛」がその後の男性歌手に与えた影響は、決してルックス(髪型とかね)だけでなく、「歌」もそうであったことは間違いないでしょう。
先述のサビ部以外でも、(サビに比べれば)やや抑え気味に歌っているようなAメロの

忘れられないけど   忘れようあな たを
Gm          F  Gm  F  Gm          F  Cm       

       めぐり逢う時が   二人遅すぎた ♪
Gm  Cm             Gm   E♭maj7    D

この「遅すぎた♪」の語尾の余韻なんてね・・・「生身の声」と表現するしかありません。

僕はこれまで何度も
「『JULIEⅡ』のヴォーカルは、ある意味”歌わされている”状況がかえってジュリーの無垢に伸びあがる声、その才を引き出し、”歌の神”の存在にはまだ誰ひとり気づいていない」
などと書いてきました。
そのこと自体は『JULIEⅡ』の特性をある部分言い当ててはいる、と自負していますが、実際の状況としては僕の考えは邪推で、アルバム制作時ジュリーに「オマエは、”歌で演ずる”ということをやった方がいい」と言っていたのが、池田道彦さんだったそうです(2008年のラジオ『ジュリー三昧』より)。この時点で池田さんは”歌の神”の存在に気がついていたわけで、そうなるとやっぱり加瀬さんもとっくに気づいていたんじゃないか、と思えますよね。

『JULIEⅡ』には、ジュリーが(池田さんの言葉を受けてのことでしょうか)ちょっと工夫をして、「演ずる」ことを盛り込んだヴォーカルが3曲あると僕は思います。
「官能」をハスキーなファルセット・ヴォーカルで表現した「純白の夜明け」。
自嘲の笑い声、泣き崩れた言葉すら自然に「歌」の一部となった「嘆きの人生」。
そしてこの「許されない愛」。
どんなヴォーカルかと問われれば、「歌詞の通り、メロディーの通り、演奏の通り、アレンジの通り」のヴォーカルである、と。歌われているすべての言葉、鳴っているすべての音を全部取り込んでいる、神がかり的なヴォーカルではないでしょうか。
”歌の神”に「気づいてない」のはひょっとしたら、ジュリー本人だけだったのかもしれないなぁ・・・。


それでは、オマケです!
まずは、71年末の『セブンティーン』の記事です。ソロ歌手としての偉大な一歩を踏み出した当時のジュリーを知る上で、貴重な資料ですね。


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続いては、今や伝説、71年末の日生リサイタルのパンフレットから3つほど。

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このパンフレットは本当に充実の内容で、まだまだページは続きますが・・・まぁそちらはまた別のお題の機会にとっておきましょう。

22日の朝刊スポーツ紙では、加瀬さんの訃報を1面で伝えるものもあり、改めて加瀬さんの偉大さが世間に知らしめられました。報道の中でワイルド・ワンズの「想い出の渚」を始めとする「加瀬邦彦の代表曲」が列記され、当然ジュリー・ナンバー「危険なふたり」「TOKIO」も連ねられていましたが、今日のお題曲「許されない愛」をそこに見つけることはできませんでした。
でも、僕より少し上の世代の方々は、たとえジュリーファンでなくてもこの曲を覚えていらっしゃるはず。
作曲者が加瀬さんであることは、どのくらい知られているのかなぁ・・・。

ジュリーの「許されない愛」・・・間違いなく、加瀬邦彦作曲作品で1、2を争う大名曲です!

☆    ☆    ☆

そうそう。
加瀬さん、僕は先週の23日に、ポール・マッカートニーの東京ドーム公演に行ってきましたよ。
直前に加瀬さんのことがあったから複雑な気持ちを抱えたまま参加したけど、とても素晴らしい時間でした。
4回目の参加となるポールの来日公演で、僕は今回初めてのアリーナ席だったんです。しかも望外に前方の席で・・・少しだけ高い位置の特等席でご覧になっていた加瀬さんからは、狂喜乱舞する僕の頭がチラチラと見えていたかもしれませんね・・・。

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2015年4月22日 (水)

沢田研二 「SHE SAID・・・・・・」

from『G. S. I LOVE YOU』、1980

Gsiloveyou

1. HEY!MR. MONKEY
2. NOISE
3. 彼女はデリケート
4. 午前3時のエレベーター
5. MAYBE TONIGHT
6. CAFE ビアンカ
7. おまえがパラダイス
8. I'M IN BLUE
9. I'LL BE ON MY WAY
10. SHE SAID・・・・・・
11. THE VANITY FACTORY
12. G. S. I LOVE YOU

-----------------------

何と言うことでしょう。
昨夜午後10時に飛び込んできた、加瀬邦彦さんの悲報・・・僕はその時ちょうど、今回のこの最高にハッピーな、加瀬さん作曲のジュリー・ナンバーお題の記事本文の下書きを終えたところでした。
信じられない・・・。
それが正直な気持ちです。

お題曲の作曲者の訃報を受けたからには、本来なら記事の内容を書き改めるべきですが、今はそれができません。
昨日まで数日かけて楽しく下書きしていた記事を、ひとまず加瀬さん作曲ジュリー・ナンバーの名曲のひとつ「SHE SAID・・・・・・」の一考察として、今回のところは更新させて頂きます。

以下、つい昨日仕上げたばかりの記事本文です。
まったく加筆修正もせぬままupすることをお許し下さい。

☆    ☆    ☆

絶賛開催中、短い文量で矢継ぎ早の更新を目指す”ジュリーの隠れた名曲で憑き物落とし”シリーズ。
もちろん「隠れた」というのは「世間的に」という意味で、ジュリーファンにとって揺るぎない大名曲の数々をお届けする、という主旨で張り切っております。

前回採り上げた「悲しい戦い」では、歌詞の内容からちょっと今年の新譜『こっちの水苦いぞ』考察記事執筆直後の重い余韻を残した感じもありましたが、今回からはガラリと気持ちも切り替えて、とにかく最高に楽しいロック・ポップスの名曲や、穏やかに心に沁みる癒し系のバラードなど、奇跡の歌手・ジュリーここまで48年の歴史から様々な時代を行き来しつつお題を探していきますよ~。

で、今日はアルバム『G. S. I LOVE YOU』から「これぞ80年のGS回帰ジュリー!」 とも言うべき加瀬さん作曲の名曲「SHE SAID・・・・・・」を採り上げるわけですが、前回記事のお題予告ヒントで
”「悲しき戦い」のサビとそっくりなメロディーがこれまたサビで登場する曲です”
と書いたら、何と僕の思いつかなかった候補曲がズラズラと・・・いやぁみなさま凄い。決して「よくありがちなパターン」ということもないのに、ジュリー・ナンバーのメロディーの整理がついていらっしゃるんですね。

得意げにヒントなど出してしまい、恥ずかしい次第で・・・まぁ一応書いておきますと

It's true 大の男でも
D   Em     G    A

煙にまかれたい そんな夜もあるさ ♪
C                 A      B♭             A7

このサビ部のメロディーが、「悲しい戦い」のそれにそっくりなんですね。
本当に偶然の一致かと思いますが、僕などはタイムリーなファンのみなさまとはこの2曲を聴く順番が逆で、「悲しい戦い」を初めて聴いた時に「あれっ?」とね。

ということで、今日のお題は「SHE SAID・・・・・・」。
これは、いつもコメントをくださったり日頃からやりとりさせて頂いている先輩方にも特に人気の高い曲、と僕なりに認識している曲です。
「ジュリーらしさ」満開のハッピーなナンバーであると同時に、80年の暮れという時代・・・「これから古き良きロック&ポップスの再評価の時が来るぞ!」という予感バリバリの時代の空気の中でリリースされたアルバム『G. S. I LOVE YOU』にあって、その予感とリンクする1曲。

後追いファンながら、「当時のジュリーとジュリーをとりまく時代が求めていた名曲」と捉えていますよ。
僭越ながら、伝授!

Shesaid


今回の参考スコアは、ご存知『ス・ト・リ・ッ・パ・-/沢田研二楽譜集』。ちなみに「SHE SAID・・・・・・」は「I'll BE ON MY WAY」と同ページで、右見開きページ掲載の2枚の写真がこちら。

Shesaid1

Shesaid2


『G. S. I LOVE YOU』は、「GS回帰」のコンセプトを持ちつつ、加瀬さんや木崎賢治さんによる「もっと過激に!」のサジェスチョンのもと、海の向こうのネオ・モッズ・ムーヴメントにも乗っかり、伊藤銀次さんのビートルズ、ローリング・ストーンズを始めとする幾多の60年代洋楽ロック・バンドのエッセンスを盛り込んだアレンジ、若きオールウェイズの冒険心溢れる演奏、そしてそれらすべてを「歌」に昇華させたロック・ヴォーカリスト・ジュリーの完全覚醒・・・正に世紀の大名盤ですね。

特筆すべきは、当時まだブレイク前だった新たな才能・佐野元春さんの3曲が抜擢されていること。
ただ、「佐野さんの3曲」の存在感をも凌ぐ究極のプロフェッショナル・ライターの存在を忘れてはなりません。「加瀬さんの3曲」の素晴らしさを抜きにこのアルバムを語ることはできないでしょう。
シングル・カットとなった「おまえがパラダイス」。
アルバム全体の”過激”というキーワードを自ら率いるかのような、「NOISE」。
そして、「GS回帰と言うなら、これこそが80年代のGSナンバーだ」と言わんばかりに「回帰」と「進取」を完璧に両立させ提示したのが「SHE SAID・・・・・・」。
加瀬さんによるこのアルバムへの提供3曲は最高にキレていて、なおかつジュリーの「陽」を存分に引き出す痛快な作品ばかりです。
そりゃあ、アレンジの銀次さんもあれこれと魔法を仕掛けたくなるはずですよ・・・。

70~80年代のジュリーと言えば、レコーディング音源の「バンド一発録り」伝説があることを先輩方に教えて頂いていますが、アルバム『G. S. I LOVE YOU』についてはその例に当てはまらないようです。
銀次さんのレコーディング秘話を読みながらひとつひとつの演奏トラックを検証していくと、 これ相当に凝りまくった、手数をかけた録音作業ですよ。レコーディングが進む過程でどんどん「過激な」アイデアが誕生し、後から後からトラックを重ねています。

例えば銀次さんはブログで「リズム録り」という言葉を使っていらっしゃいますが、これがおそらく最初期段階の、いわゆる「ベーシック・トラック」を指すものと思われます。「SHE SAID・・・・・・」で言えばドラムス、ベース、左サイドにミックスされたバッキング・ギター、右サイドミックスのピアノがそれに当たるでしょう(ビッグバンド・ジャズなどの慣例から、ギター、ピアノも「リズム・セクション」に分類される場合がある、ということを僕は10年ほど前に映画『スウィング・ガールズ』DVDの特典映像で初めて知りました)。まずこの4トラックを一発で録り、それを土台として様々なアレンジ・アイデアによる各楽器の装飾トラックを追加、という流れのレコーデ ィング進行だったと考えて良いんじゃないかな。

で、ここからは推測ですが、かなり早い段階で「SHE SAID・・・・・・」と「THE VANITY FACTORY」2曲のベーシック・トラックが、アルバム収録順のアイデアを見越して既に1つの塊として繋げられていたのではないでしょうか。
そして、ジュリーのヴォーカルと佐野さんのコーラスは、この2曲一気に録られたんじゃないかなぁ、と。
「THE VANITY FACTORY」の初っ端の雄叫び1発なんて、「前の曲から続いてるよ」という感じがしませんか? そう考えれば、佐野さんが自らの提供曲ではない「SHE SAID・・・・・・」でコーラスを担当しているのも必然として頷けます。

で、その段階(ヴォーカル&コーラス録りの時)では、2曲の繋がり方が今僕らが音源として聴いているものとは違ったんじゃないか、とも思うんですよ。
エンディングの「OK、boy」からの「シー・セッド♪(→リピート・ディレイ)」のバックに、まだアウトロのリフレイン演奏が鳴っていたんじゃないかなぁ。最後の「シー・セッド♪」が、伴奏音に合わせて歌っているように僕には聴こえるんです。
それが最終的なミックス段階で、「アウトロを途中でちょん切ってしまう」という「過激な」アイデアが生まれ、完成を見た・・・まぁあくまで推測ですけどね。

さて僕は「SHE SAID・・・・・・」を先程「ジュリーらしい曲」だと書きましたが、「ジュリーらしさ」とはイコール「加瀬さんならでは」の曲作り、と言い換えることもできそう。そしてそんな加瀬さんの「陽」は、この曲の三浦徳子さんの作詞にも反映されています。
(加瀬さんの作曲作業は「曲先」が多かったことを最近になって知りました。僕は60年代に頭角を現したロック&ポップス界のGS出身作曲家は基本「詞先」と認識していましたが、加瀬さんはそうではないようです。そのあたりについてはいずれ「恋は邪魔もの」のお題で参考資料と共に語りたいと考えていますが、加瀬さんの作曲が基本曲先の作業だったとすると、僕が以前書いた「白い部屋」の考察などは、根本から成り立たなくなるんだよなぁ・・・)

物語の状況としては、これはいわゆる「ゆきずりの女(ひと)」パターンなのでしょうか。

何処かのBarで拾った 偶然の出逢いでも
D        A        G     A   D  A      G        A

おまえのその哀しげな 瞳は捨てちゃおけない ♪
D       A         G     A   D  A             G       A 

バーで出逢った女性の悲しげな瞳に惹かれる主人公。酔って「私なんて生きていたって・・・」と投げやりな彼女に「生きていたら良いことあるよ。例えばほら、こうして俺に口説かれてるだろ?」的な二枚目限定手管を駆使して首尾よくいただいてしまう、という歌?
ちょっとその解釈は、御都合主義な男性視点過ぎて身も蓋も無いですか(汗)。

実はビートルズに「シー・セッド・シー・セッド」という大名曲がありまして(先輩方の多くはタイガースのカバーでご存知かな?聞くところによれば、ピーのドラムスが相当凄かったとか)、その詞(ジョン・レノン)でも「死ぬってどういうことか、私は知ってる」という女性が登場。「シー・セッド・シー・セッド」の場合はちょっと哲学的な内容とは言え、三浦さんはこの曲から「SHE SAID」のタイトル、歌詞をインスパイアされたんじゃないかなぁ。「60年代ロックへの回帰」というアルバム・コンセプトは三浦さんにも伝えられていたと思いますから。

ビートルズの「シー・セッド・シー・セッド」は60年代中盤のサイケデリック・ムーヴメントを代表するような曲ですが、「SHE SAID・・・・・・」はサイケよりももっと以前、60年代前半のビート系のイメージ。
これは銀次さんのアレンジとオールウェイズの演奏によるところが大きいかもしれない・・・例えばイントロの「コー ド・リフ」は「ブラウン・シュガー」などの70年代ストーンズよりむしろ60年代ストーンズっぽいんです(「ひとりぼっちの世界」など)。だからモッズ色がより濃くなるんですね。
このコード・リフが、イントロでは一瞬の「オープニング」に徹して、他楽器が噛んだ瞬間にかき消えてしまうというアレンジが最高に渋い!
リフがそのまま曲全体のフィル・インになっている感覚です(後から重ねられた演奏でしょう)。
そしてそのリフと同じ音階は、1番歌メロの2回し目から楽器をピアノに代えてようやく登場。つまり歌メロ1回し目で鳴っているのは、タイトなドラムスとブイブイ言わすベースの2トラックのみ。
これは完全にネオ・モッズの手法ですよ。作曲者の加瀬さんも「おお!」と唸ったんじゃないかな。
銀次さん、冴えまくりです。

最後になりますが、僕がこの曲で最もシビレている箇所は、ブレイク部です。

She said 煙草の火を貸して
Bm                   F#m       

No!girl Kissが先さ No!No!No!No!・・・♪
Em                          E7           A7

ジュリーのヴォーカルの艶ももちろんですが、建さんのベースがしみじみイイんですよね~。建さんにしては珍しくピックで弾いたような音に聴こえるんだけど、実際はやっぱり指弾きなんだろうなぁ。



それでは、オマケです!
今日は『ヤング』の81年1月号からジュリー関連のページを抜粋。この号は表紙もジュリーです。


810101

『ヤング』は毎年1月号に「新春スターかくし芸大会」のレポートが掲載されていたようですね。その記事を楽しみにしていたジュリーファンも多かったでしょう。

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810104

810103

さらに、前年の香港公演(有名な映像が残されていますよね)の記事。「ナウい」が懐かしい・・・。

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また、『ヤング』では毎号、「今週の表紙」という簡単な文章が奥付に掲載されています。

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そして最後の広告ページがこれです。

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ということで。
アルバム『G. S. I LOVE YOU』収録曲の考察記事も、これで残すところあと1曲まで来ました。

拙ブログでは2009年『Pleasure Pleasure』以降のジュリーの新譜はすべてリリース後すぐに収録全曲の記事を書いていますが、それ以前のアルバムについては、まだ「考察記事の全曲網羅」を果たせている作品はありません。
どのアルバムで最初にそれを為せるのか、自分でも楽しみにしているところですが、まず「残り1曲」のリーチをかけた1枚が『G. S. I LOVE YOU』というのは、我ながら王道の線かな、と思います。

ただ、残された1曲「午前3時のエレベーター」・・・これは以前先輩から頂いたコメントで「かまやつさんの作曲には、スパイダーズの既存曲の原型あり」と教わっていて、実は僕はまだその曲のタイトルすら知らない状況なのです。
どなたかご伝授を~!


☆    ☆    ☆

本当にすみません。
こんな時にこんな記事になってしまって・・・。
言葉すら発せないほどのショックを受けている方々が、加瀬さんの周りにどれほどいらっしゃるのかと思うと・・・。

僕は昨夜から、2010年のジュリワン八王子公演での加瀬さんの笑顔ばかりを思い出します。
まだ信じられないです。

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2015年4月18日 (土)

沢田研二 「悲しい戦い」

from『JEWEL JULIE -追憶-』、1974

Jeweljulie

1. お前は魔法使い
2. 書きかけのメロディー
3. 親父のように
4. ママとドキドキ
5. 四月の雪
6. ジュリアン
7. 衣裳
8. ヘイ・デイヴ
9. 悲しい戦い
10. バイ・バイ・バイ
11. 追憶

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音楽劇『お嬢さんお手上げだ 明治編』は、大阪公演の真っ最中。
関西のみなさまにおかれましては、先月からじっと我慢、お待ちかねだったことでしょう。東京公演にも負けず連日大盛況のようですね。
そんな中拙ブログでは、今日からまた自由お題のジュリー・ナンバーの記事をお届けしてまいります。改めて、よろしくお願い申し上げます!

2012年以降の『PRAY FOR EAST JAPAN』をコンセプトとしたジュリーの新譜・・・発売直後に収録全曲の考察記事を書くという大それた作業は、もちろんファンとして本懐ではあるのだけれど、いざ終わると毎年身体からヘナヘナと力が抜けて、過去色々な時代のジュリー・ナンバーを遡ることで癒されたい、という気持ちが沸いてきます。
『3月8日の雲』全曲を書き終えた直後に「四月の雪」をお題に採り上げた2012年などは、今考えるとその最初の例だったわけですね・・・。

で。
あの2012年の衝撃的な新譜の後に自分はこんな記事を書いていたのか、と懐かしかったこともあり、アルバム『JEWEL JULIE -追憶-』を通して聴きましたよ。
やっぱり大名盤、素晴らしい!
ジュリーの声、井上バンドの演奏、名曲の数々・・・しみじみと落ち着きます。癒されます。

思えば2012年の全国ツアー、『3月8日の雲~カガヤケイノチ』びわ湖公演を最前列で体感する幸運に恵まれた僕は、その時新曲全4曲の直後に歌われた(この年はまだ、間に休憩がはさまれていましたが)バラード4曲「約束の地」「君をのせて」「我が窮状」「時の過ぎゆくままに」の繋がりを「まるで”憑き物落とし”のようだった」とレポートに書いたことがあります。
どうしても身体を固くして、顔をこわばらせて聴いてしまっていた新曲・・・その緊張をジュリーが柔らかに、確実に癒してくれたような気がしたものでした。
以来、新譜タイトルを引っさげた全国ツアーで「今年の”憑き物落とし”はどの曲だろう?」というのも毎年ツアー初日前の大きな楽しみとなっています。
『PRAY』ツアーでは「溢れる涙」、『三年想いよ』ツアーでは何と「F.A.P.P」がそれを担い、ジュリーとその名曲達の奥深さ、懐の深さを体感してきました。
今年はどの曲が選ばれるのかな・・・。

まぁ、さすがに今から全国ツアーのセットリスト予想を書くのはあまりに気が早過ぎますが、新譜の記事が終わったら、僕が勝手に「癒されたい」と身体が求める過去のジュリー・ナンバーの中から、一般的にはまったく有名ではないけれど、ジュリーファンにとっては大切な宝物、至高の名曲・・・いわゆる「隠れた名曲」をたくさん採り上げて書いていこう、と以前から決めていました。
そして、季節はずれの「四月の雪」がきっかけで先日通して聴いた名盤『JEWEL JULIE -追憶-』・・・よし、今年の”憑き物落とし”の記事お題はまずこのアルバムの中から選ぼう!と思いました。

しかしながら、いくら「若きジュリーの声に癒されたい」と言っても、あれほどの新譜を聴き、拙いながらも全曲の記事を書き終えた直後です。完全に脱力してゴロ~ンとジュリーの声に身を預けるまでには気持ちの整理がついていない・・・。

ならば、このアルバムから今回採り上げるべき曲は、これ以外無いでしょう。

2012年からのジュリーの新譜を体感してきた今聴くと、そのメッセージがまるで現在のジュリーと完全にシンクロしているかのように思える激しいロック・ナンバーが、この名盤に収録されています。
サリー作詞、大野さん作曲・・・いやぁ、今では夢のような贅沢な組み合わせですねぇ・・・。
「悲しい戦い」、伝授です!


あ、今回からしばらく、記事本文は短こうございます(←あ~あ宣言しちゃった・・・大丈夫かな?)。
新譜の記事が凄まじい大長文ばかりで、最後までお読みくださったみなさまはほとほと疲れ果てたでしょうから(汗)、このシリーズではなるべく文章は短めに、できる限りたくさんの曲を採り上げられたら・・・と考えているのです。
ということで、サクサク進めていきましょう。

最初に、世に多き後追いジュリーファンを代表しまして、ヒヨッコならではの素朴な疑問から。
この曲のタイトル、「悲しい戦い」で合ってるんですよね? というのは・・・我が家にあるCDの帯が

Jewel_2

ね?
「悲しき戦い」と記されています。

僕は、帯ってよく見る方なんですよ。
例えばブログに記事を書く時、収録アルバムの全曲を明記してるじゃないですか。裏ジャケットに曲目クレジットが載っていないアルバムなんかは、帯を見て書き写すこともしばしば。
まぁ、今ではもうほとんどのアルバムの収録曲についてはスラスラとタイトルが出てきますが、今回も何気なく帯を見て一瞬「ん?」と思ったりしました。
単なる誤植ですよね?

では本題。
楽曲だけならまるで『PRAY FOR EAST JAPAN』がコンセプトの最近の曲、と考えてもおかしくないほどのメッセージ・ソングでもあるこのロック・ナンバー。
実は僕は2012年の『3月8日の雲~カガヤケイノチ』ツアー前のセットリスト予想シリーズで、「怒りの捨て場」(『JULIE Ⅳ-今 僕は倖せです-』収録)を書くかこの曲を書くかで迷ったことがありました。
結局、ジュリーの自作詞という点に重きを置いて「怒りの捨て場」を選んだのですが、歌詞のニュアンス、権力への警鐘はむしろこの「悲しい戦い」の方が現在のジュリーのスタンスに近いのではないでしょうか。
ジュリー作詞作品ではないにも関わらず、です。
不思議なことですね・・・40年以上前にサリーが書いた詞が、今のジュリーのメッセージ性の強い自作詞とシンクロしている、というのは。


この詞で、まだ20代のサリーは何に怒って、何と戦おうとしているのでしょうか。

我慢をするのはこれ以上やめよう
E7                  D7            E7      D7  A7

となりの仲間の手をつかもう
E7                 D7            E7     D7  A7

いままでみたいにあいつらにまかすな
E7                     D7              E7       D7  A7

戦えることを見せてやろう
E7             D7             E7     D7  A7

子供の時遊んだところは
F#m       E

何もかもつぶされてしまったよ ♪
F#m      D                     B


無機質な思惑で変わり果てゆく少年時代の原風景。
「僕の想い出の場所を汚すな!」というメッセージなのでしょうか。あの原発事故直後、西田敏行さんが発した「俺たちの故郷を汚したのは誰だ!」という怒りの声を思い出しました。

いかなる「戦い」をも拒否する、という志の男が敢えて挑まなければならない戦い・・・だから「悲しい」戦いだとサリーは言っているのでしょう。
そう考えると、今年のジュリーの新曲「泣きべそなブラッド・ムーン」での「優しさじゃ違うから
心ない言葉には怒ろう」や、「笑ってられないな もう限界」などの歌詞部までもが、改めて腑に落ちるようではありませんか・・・。


一方、音の面でももちろんこれは重要な1曲。『JEWEL JULIE -追憶-』にこの曲が収録された一番の意義は、やはり井上バンドの演奏に表れています。速水さんの加入でギター表現の幅を拡げロック性を高めたバンドが、正に乗りに乗っている時期ですよね。

もちろんその音作りには幾多の洋楽ロックのエッセンスの吸収があるわけですが、ここは井上バンド独特のスタイルに注目すべきです。長調のニュアンスと短調のニュアンスを1曲の中で自在に混在させる、という独自のアレンジ・アプローチが確立を見たという点で、「悲しい戦い」は名演中の名演です。
これは当時井上バンドが『太陽にほえろ!』のサントラで大活躍していたことと密接に繋がっています。このアルバムは当然サリー在籍時で、『太陽にほえろ!』で言うと「テキサス刑事のテーマ」の頃ということになりますか(テキサス刑事殉職後に登場したスコッチ刑事のテーマ曲以降、同番組での井上バンドの新たな挿入曲はベースの音がガラリと変わります)。
音だけで、しかもドラマの動きに合わせて緊張と緩和とを目まぐるしく変化させるアクション・インストゥルメンタル制作の井上バンドのキャリアは、ジュリーのアルバムでもこうして生かされているのですね。

右サイドにミックスされたリード・ギターは、速水さんの演奏ですよね。
0’12”あたりのトリルで判別できます。以前、「トリル演奏は速水さんの十八番」と先輩から頂いたコメントで教わったことがありますから。
となると左サイドのギターが堯之さん、ということになります。ジュリーも含めたメンバー全員が熱心に聴いていたであろうローリング・ストーンズ「ブラウン・シュガー」の例を出すまでもなく、イントロで休符から入る複音のギター・リフというのは最高にスリリング。
堯之さんが凄いのは、同じリフ・フレーズに安易に固執せず、ヴァースごとにフレージングを替え、まるで「歌」パートのようなギター・アレンジで全体を纏め上げてしまうところ。「技」以上に「曲」をストイックに突き詰めるギタリストなんだなぁ、と感じます。

それにしても、ジュリーのヴォーカルの心地良さげなこと・・・「ロックバンド」で歌を歌える、という充実感に満ちていますね。
「悲しい戦い」では最後にタイガースばりのコール&レスポンスもあるけど、当時この曲のLIVEでは、お客さんも巻きこんだりしていたのかな?


最後に蛇足になりますが・・・遅ればせながら例の『フライデー』の件について触れておきましょう。
『東京新聞』の3面にド~ン!と大きな広告が載っているのを見まして・・・僕は、最初激怒したんです。
「これから先のジュリーを考えれば、こんなしょうもない浅知恵な記事は百害あって一利無し!」とまくしたて、カミさんに「まぁまぁ」と窘められました。

で、いつもお邪魔しているブログさんなど世のジュリーファンのみなさまの反応を拝見しますと・・・ありゃりゃ、かなり好意的で、楽しんでいらっしゃる。
みなさまの感想によりますと、掲載内容自体は見出しに反して悪意の無いユーモラスなものだったらしく、みなさまの言葉が弾み、ポカポカと暖かい。
あぁ、こんなジュリーファンの和やかで暖かい雰囲気は久々じゃないかな、と感じました。まぁジュリー本人にとっては迷惑極まりない話だとは思いますし、個人的には本を購入する気持ちにまではなれないのですが、今「悲しい戦い」を始めているジュリーを見守るファンにとって、今回のようなちょっと「クスッ」としてしまう出来事が起こったのは良かったんじゃないかなぁ、と思い直し、自分の傲慢を反省しております。
僕はまだまだ修行中の身なのですな~。


それでは、オマケです!
今日から始まった”ジュリーの隠れた名曲で憑き物落とし”シリーズでは、文量短めを心がける分、このオマケ・コーナーを充実させていきますよ~。

まずは、福岡の先輩からお預かりしている資料から、『ヤング』74年9月号掲載のLIVEレポート。

740902

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『JEWEL JULIE -追憶-』収録曲中心のセットリスト・・・生で体感されている先輩方が本当に羨ましい!
ジュリー作詞・作曲の「公園で」、速水さん作詞・作曲の「あいつは遊び女」・・・とても気になるなぁ。

続きまして、岐阜研人会所有のお宝資料から。
74年と言えば『炎の肖像』ですが・・・これはいかにも女性誌らしい記事で、ちょっとビックリしました。


Img656

Img657

Img658

ジュリーは、エレクトした?
に絶句です(笑)。
男性誌ではこういう言い方には絶対ならない・・・新鮮でした。さすがは『女性セブン』!


それでは次回更新では、「先輩方の人気がかなり高い曲」と僕なりに認識している、ハッピーなロック・ポップ・ナンバーを採り上げたいと思っています。
さぁどの曲でしょうか。
ヒントは、今日のお題「悲しい戦い」の

雨の日にも光が見えてた
F#m         E

すき通ってたこの河の水は
F#m            D              B

にごって何も見えない ♪
C             D          E

このサビのメロディーの一部まるまるそっくりなメロディーが、やっぱりサビで登場する曲。
キーもコード進行も作曲者も違うんだけど、一瞬だけホントにそっくりなのよ。

先輩方なら簡単に「あぁ、あれね」と分かるかな?
もしも
「う・・・確かに似たメロの曲ある!うわ~喉まで出かかってるのに特定できない!」
と地団駄を踏んでしまった方がいらっしゃいましたら・・・まぁそのまま数日間お待ちください。(←ドS)

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2015年4月14日 (火)

沢田研二 「涙まみれFIRE FIGHTER」

from『こっちの水苦いぞ』、2015

Kottinomizunigaizo

1. こっちの水苦いぞ
2. 限 界 臨 界
3. 泣きべそなブラッド・ムーン
4. 涙まみれFIRE FIGHTER

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4月に入って暖かくなったと思っていたら、翌週にはいきなり寒くなりまして・・・8日、首都圏では満開の桜の中、季節はずれの雪が降りました。

150408_082201

前回記事で添付した写真と同じ場所、同じ時間帯に撮影した4月8日の桜です。
朝8時半くらいで、雪も結構強めに降っていたのですが、この写真だとよく分かりませんね・・・残念。

東京ではさすがに積雪とまではいきませんでしたが、北関東では普通に積もったところもあったとか。
こうなるとジュリーファンならば誰しも「四月の雪」が聴きたくなるところで、その恩恵と言いますかオマケでしょう・・・当日は僕が2012年に書いた「四月の雪」の記事に多数の検索ヒットを頂いた模様。久々に自分でその記事を読み返してみると・・・すっかり忘れていましたが、2012年の4月3日にもごく少量ながら「四月の雪」が降っていたようです。
記事を書いたのは、『3月8日の雲』全4曲の考察記事が終わった直後でした。文章からは、あの時の疲労困憊の記憶と共に、若きジュリーの歌声に癒されホッとしている様子が、我が事ながら窺えました。

それは良いとして、まぁ何と恥ずかしい記事でしょう。
考察の甘さ、ジュリー知識の不足はいかんともし難い・・・この記事に限らず、昔書いた記事は今読み返すと本当に穴があったら入りたくなるものばかりです。
そして、そんな状況は今も変わっていません。
今、こうして全力で取り組んで書いている『こっちの水苦いぞ』それぞれの収録曲の記事も、時が経てば自分では恥ずかしさばかりが残ることになるはずです。前回の「泣きべそなブラッド・ムーン」の考察なんて、今もう既に恥ずかしいですからね・・・(泣)。

ただ、そこで頼りになるのが、記事にコメントをくださっているみなさまのお言葉の数々です。

今年のジュリーの新譜『こっちの水苦いぞ』からの考察記事も、いよいよラスト1曲。
ここまで3曲の記事を書いてきて初めて、遅まきながらこのヒヨッコにもこの作品の真のコンセプト、ジュリーの思いというものが見えてきたように思います。しかしそれは、自力で辿り着いたのではありません。
以前から書いているように、僕のブログは「伝授」などと大風呂敷を拡げてはいますがその実は、記事を読んでくださった先輩方がコメントやメールをくださったりして、そこから僕自身が逆伝授を賜っている、というスタイル。それを今回の新譜ほど痛切に感じたことはありませんよ・・・。

ここまで書いてきた新譜の記事で、僕はまず1曲目「こっちの水苦いぞ」執筆の時点では、ジュリーの詞の「ロック性」に拘っています。結果、「反体制」ロックとしての”アングリー・ヤング・マン”を66才のジュリーの中に見出し、ジュリーに便乗するかのように為政者や経済人という「一握り人」を批判することに終始しました。
これは「ロック」をふりかざすことで僕自身の浅慮をオブラートしたとも言え、今読み返すと「もっと他に書きようはなかったのかな」と思う部分が多々あります。

2曲目「限界臨界」でもそんな感情と手法は持続し、「被災者の方々の目線に立つ」とはうわべだけ(と今は思えます)の自分を晒して、やはり今の日本を動かしている人々を批判しました。
そのこと
自体には悔いも諂いもありませんが、やはりジュリーの志には遠く及ばず、問題提起も軽々しかったのではないか、と反省点が多いです。

そんな流れの中で考察に取り組んだ3曲目「泣きべそなブラッド・ムーン」。そこで僕は、1曲目、2曲目と同じような考え方では到底この曲を語れない、という困惑に直面したのでした。「大好きな曲なのに、何故だ?」と戸惑ったまま、記事を書き終えることになって・・・。
そんな僕の「手探り感」をフォローしてくださる先輩方のコメントやメールを拝見し、ようやく「自分はジュリーの本質を見失っていた」と気づきました。

そう思って1曲目、2曲目の記事に頂いたみなさまのコメントについても改めて読み返すと、やっぱりそこに僕の「前のめり」気味の考察に疑問を投げかけてくださるお言葉を多く見つけたのでした。
もう・・・ひたすらお恥ずかしい。
ジュリーは今の日本を、世界を憂いている、為政者への怒りを限界ギリギリで感じている・・・それは確かなことですが、その気持ちは徹底的に「3・11」と共にあり、犠牲になってしまわれた人々、今もその苦しみの中にある人々と共にあり・・・決して「世間に意見している」のではないんですよね・・・。

ジュリーの歌は、ただただ被災地のためにあります。
新譜の中で抜きん出て好きな「泣きべそなブラッド・ムーン」。これほど好きなのに何処か釈然としない、スッキリしない思いを抱えつつ書いた記事に、ジュリーの志を真剣に思うみなさまからの助けを頂きました。
「”君にも”の”君”はこの曲を聴いている僕自身のこと」なんて浮かれた考えを持っていたのは、もしかすると自分だけだったんじゃないか・・・本当に恥ずかしいことですが、でもそんなことを書いてしまったおかげで、僕のあの記事は「君”は誰?キャンペーンの応募窓口」状態となり(ありがとうございます!)、多くのみなさまの様々な解釈をコメントやメールで頂くことに。
それぞれの解釈に深く頷きながら、ジュリーはなんて凄いんだろう、ジュリーを考えるファンはなんて凄いんだろう、とまたまた思い知らされました。

そして今、改めて今年の新譜『こっちの水苦いぞ』の素晴らしさが腑におちた気がしています。
「被災地のために」(言葉にするとありきたりなようですが、ジュリーの本気から発せられる「被災地のために」はとてつもなく重く、真に言葉の通りなのだ、と感じます)の気持ちで立ち向かわなければ絶対に書けない歌詞を擁した曲が、新譜の最後に残っていた・・・僕は随分回り道をしてしまったけれど、この痛烈な悲しみ、悔しさを歌った4曲目「涙まみれFIRE FIGHTER」に、今は心静かな自然体で対峙することができます。

ジュリーと、その素晴らしきリスナーである先輩方に感謝しつつ・・・『こっちの水苦いぞ』からの考察記事もいよいよこれでラスト1曲となります。
「涙まみれFIRE FIGHTER」、僭越ながら伝授!



2012年から続いている『PRAY FOR EAST JAPAN』をコンセプトとした一連の作品で、何故ジュリーが自作詞だけでなく「鉄人バンドのメンバー1曲ずつの作曲」というスタイルを通しているのか(厳密に言うと、4曲入りマキシシングル形式としては2010年リリースの『涙色の空』以降このスタイル)・・・その答を僕は今、「涙まみれFIRE FIGHTER」に見たように思っています。

鉄人バンドとすれば、文字通り「真剣に」向き合わなければ作れないようなテーマを与えられて、しかもそうして作った曲に詞をつけて歌うのが、あのジュリーですからね。いくら普段からのバンド・メンバー、気心は知れているとは言っても、そのプレッシャーたるや僕らファンには計り知れないほど大きいものがあるでしょう。
下山さんなどは「いまだに緊張する」と語っているほど(しょあ様の下山さんLIVEレポートより)。
しかし、鉄人バンドの4人にこそそれができる、いや、このコンセプトで新譜制作に取り組む以上、ジュリーにはもう「作曲は僕のメンバーで」という選択肢しか持ち得ないのではないでしょうか。

そこで、「涙まみれFIRE FIGHTER」です。

いかにもギタリストの作曲作品らしい斬新な転調を擁する曲ではありますが、採譜作業自体は今回の4曲の中で一番すんなりと終わりました。

Firefighter

徹底された短調のメロディーと進行。
ひとつひとつのコードを拾っていると、柴山さんが曲を作った時の気持ちがビリビリと伝わってくるように感じられます。こんな採譜作業は本当に稀です。

このコード進行には、「悲しみ」と「悔しさ」がひたすらに貫かれています。
ジュリーの痛切な歌詞が載る以前から、これはそういう曲だったということ。柴山さんは4年目の今年、重い悲しみの感情を以て、被災地への祈りとしたのですね。

例えば・・・いかにもギタリストらしい、単音フレーズを押し出してからのサビへの移行は、嬰ト短調からロ短調への転調です。これは、普通ならば平行移調のロ長調へと進むであろう箇所が、ドミナント・コードの「F#」を経由してロ短調に移行しているという理屈です。
短調から短調へ・・・これこそ柴山さんの徹底した悲しみの表現。今回の新譜の中で、ジュリーの歌詞とメンバー作曲の気持ちのベクトルが近いのは、間違いなく柴山さんのこの曲でしょう。

さらに言うと、荒々しい転調進行があれども、楽曲全体としての調和、平穏を重んじられている曲でもあります。感情剥き出し、小細工無し、なのです。
もしかすると鉄人バンドの中で柴山さんは、ジュリーと同じくらい「頑固親父」の気質を持ち続けているのかもしれません。
62才にしてその頑固さを貫きつつ、あの温和なキャラクター。ですから皆に愛されるのでしょう。
ジュリーにもね。

今回の新譜で、リリース前の僕の情けない楽曲予想と実際の曲とが最もかけ離れ打ちのめされたのが、この曲でした。それはジュリーの歌詞のこともそうだけど、柴山さんについて僕はまだまだ深いリスペクトが及んでいなかったな、と恥じることでもありました。
「心をこめた歌」というものがあるなら、「心を込めた曲作り」も当然あるわけです。それを今回、僕は柴山さんのコード進行から学んだように思います。

では、ジュリーの作詞についてはどうでしょうか。
多くのみなさまと同じく、この曲を聴いてまず脳裏に浮かんだのは、あの震災の時、テレビ画面で伝えられていた気仙沼の大火災でした。
(今は、原発事故現場のことのようにも思えます)
目をそむけたくなるような光景に、テレビの前の僕らは言葉もなく呆然とするしかなかったのですが、そんな僕らの計り知れないほどの「呆然」・・・「ただ泣くしかなかった」人達・・・実際にその光景を目の前で見ていた人達にジュリーは着目しました。
そしてジュリーは、本来そんな人達を護るべき仕事をしている消防隊員の視点から、彼等を襲った「悲痛」などという言葉では表せないほどの地獄の光景を、この曲「涙まみれFIRE FIGHTER」で歌っています。

遠巻きに 見ているだけの
Bm            

紅蓮の火 音を立て燃え
G

海水の 焼ける鼻を射る匂い
Em                          D    F#

なんという詞を書くのか、ジュリー。
生々しく目に浮かぶ業火。そして海水の焦げる匂いすら、その声と共に耳に突き刺さってくる・・・。

普通の人の感性では、いや詩人の感性をもってしても、ここまでは到底踏み込めない、というところまでジュリーは踏み込んでいます。何故なら、「貴方、そこにいたわけでもないのに!」という被災者の方々からの反発をも覚悟しないと書けない詞だと思いますから・・・。
結果「涙まみれFIRE FIGHTER」は、あの「恨まないよ」や「Deep Love」を凌ぐほどの猛烈な「痛み」を聴き手に感じさせる曲となり、新譜発売から1ヶ月経った今もなお、「最後の1曲は辛すぎて聴けない」と仰るジュリーファンも少なくないようです。
そんな痛烈な曲が2015年新譜のラストに収録た意味とは、非・被災者である僕のような者・・・「風化させない」と口では言いつつも、 日々の生活の中で次第に実感を薄れさせてしまっている多くの日本人に、「誇大でない現実」を突きつけるためではないでしょうか。

今思えば、新譜リリース前のこの曲についての自分の予想は本当に酷いものでした。
楽曲のタイトルが分かった時、この曲が被災地の消防隊員のことを歌ったものだ、とは誰しも想像できたでしょうが、その上で僕の予想はかなり軽々しいもので・・・作詞のジュリー、作曲の柴山さんをナメていた、と言われても仕方ありません。
僕は「FIRE FIGHTER」という語感から、さらに作曲者が柴山さんということも併せ、「痛烈な歌詞ではあるだろうけど曲想は明るいハード・ロックで、あの日から4年過ぎて消防隊員として成長した若者へのエールを込めた曲では」と予想していました。
いえ、それ自体が軽々しい、というのではありません。自分の想像力が欠けていたことを恥じるのです。

柴山さんが作ったのはギリギリとしたマイナー・コードの重いバラード。そして載せられたジュリーの詞は・・・そう、『PRAY FOR EAST JAPAN』の過去3作で、ジュリーは徹底して「誇大でない現実」をそのまま描写する作詞を通しています。夢物語や理想を歌っているわけではないのだ、と何度も思い知らされてきたのに・・・。
そんな僕の甘さこそが「襲い来る風化」と重なりはしないか、と思うと情けないです。

無力感 震え止まらず 悔しさが眼に焼き付いて
Bm                            G

消えぬまま 町の四年が過ぎ去り
Em                             D        F#

襲い来る風化とともに 北国の短い夏よ
Bm                            G

押し寄せる 寂寥だけが今でも
Em                             D    F#

被災地の視点に立てば、「風化」とは襲い来る人災なのだ・・・この歌詞部には多くのファンがショ ックを受けたのではないでしょうか。この「人災」の「人」の中に僕自身を見出すことはとても容易いのです。

歌詞の内容を予想した際にまず考えたのは、ジュリーが新聞記事か何かを読んでインスピレーションを受け作詞した曲なのではないかなぁ、ということでした。
近作では、「Uncle Donald」「Deep Love」「櫻舗道」あたりがそうだったのでは、と考えられますから。

先に書いた通り僕が勝手に想像したのは、あの日被災した少年が4年の歳月で成長して消防隊員となり、ジュリーがその志にエールを送る、という構図。「涙まみれ」と「FIGHTER」というフレーズの組み合わせから、年若い男子を連想したのですが、この出発点から僕は間違っていたなぁ、と今は考えています。
確かに一般的に「FIGHTER」と言えばそれは「男」でしょうし、「涙まみれFIRE FIGHTER」の主人公も年齢は分かりませんが男性ではあるでしょう。
しかし僕はそこに、陳腐な「勇ましさを称える感覚」を持って考えていました。柴山さんの作曲作品で楽曲タイトルが「FIGHTER」と来れば、豪快な明るいロックで決まりだ、という安易な思い込みもありました。
普段から被災地の視点に立つ考え方をしていれば、まず「FIGHTER」とはどんな人だろう、どんなことに立ち向かう人だろう、と想像することはできたはずです。

新譜を聴いている最中に僕をハッと我に返らせた新聞記事がありましたので、ご紹介したいと思います。


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3月25日付『東京新聞』より
企画連載『全電源喪失の記憶』第40回

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15041402

そしてこちらは本日4月14日付の『全電源喪失の記憶』第49回。
更新の当日でしたが急遽追加添付させて頂きました。


僕はこれまで「過酷な被災現場」と言うと、そこで物事に立ち向かっている人はすべて男性であるかのように、無意識に想像していたと思います。
何と貧困な想像力・・・。
志半ばで現場を後にする女性が流した悔し涙。
過酷な現場で心挫けそうになった若い女性、その女性を励まし立ち直らせたのもまた女性。
彼女達のような「FIGHTER」の存在を、僕らは頭に叩きこまねばなりません。忘れてはなりません。

こうしたことをもっと早くに認識していれば、僕が「涙まみれFIRE FIGHTER」というタイトルから思い浮かべるものも、ずいぶん違ってきていたのでしょう。

風に煽られ 魔物は走る
G#m   

右往左往するしかなく 拷問のようだった
C#m                         E                    D#7

ジュリーの猛烈な「痛み」のヴォーカル(「拷問」の発音が凄過ぎます)に、走る魔物を俯瞰するかのような凛としたコーラスが絡む・・・「美しい」などと言ってしまって良いのだろうか、と聴き手に頭を抱えさせる不条理も、この曲の完成度の高さ故としなければなりません。
レコーディング作品がここまで「生身」であることに、改めて戦慄を覚えます。

収録曲順の効果も大きいでしょう。今回の新譜は前半2曲と後半2曲がそれぞれひとつの塊であり、その上での4楽章形式の作品のように思えます。
後半の2曲には「重い短調のバラード」という以外に特殊な共通点もあります。「泣きべそなブラッド・ムーン」には最後のサビ直前に半音上がりの転調があり、最終的には嬰ト短調で演奏を終えます。これがそのまま「涙まみれFIRE FIGHTER」のキーとなっているのです。
1枚のCDで作品をリリースする際、普通なら似通った曲想、ましてや同じキーの曲であれば収録位置を離すものです。しかしジュリーの「4曲入りマキシシングル」形式は2012年から既に独自のスタイルとして確立されていて、最早そんな一般論は当てはまりません。

さて、詞も曲も全編が悲愴な情景描写に覆い尽くされているかのようなこの曲にも、柴山さんが提示した僅かな「明るさ」・・・とまでは言えないまでも、過酷な悲しみや苦しみに「立ち向かう者」の意志の尊さを思わせるメロディーが、たった1箇所だけですが登場します。
そしてジュリーは、正にそのメロディー部にこの歌詞のタイトル・フレーズを載せました。

涙まみれ FIRE FIGHTER
  G#m              E7

この「E7」への移行部だけが、ブルースからインスパイアされたような長調のニュアンスのメロディーとなっています。普通セブンス・コードというのはいかにもロックな尖った効果を持つものですが、この曲のこの箇所だけは、不思議に優しいんですよね・・・。
「FIGHTER~♪」と歌うジュリーの声、或いはメロディーに惹かれる、と仰る方は、この厳しい内容のバラードにかすかな光を与えたジュリーと柴山さんの志を感じとれているのかもしれません。僕はそんなふうに「涙まみれFIRE FIGHTER」の楽曲構成を理解していますよ。
いかがでしょうか?


ところで、柴山さんの良い意味での「頑固さ」は、自身の作曲だけでなく、そのギター演奏にもハッキリと見てとることができます。
いつものように鉄人バンドの演奏トラックをすべて書き出し、そのあたりの考察も進めていきましょう。

・エレキギター(左サイド)
・エレキギター(右サイド1)
・エレキギター(右サイド2)
・アコースティック・ギター
・キーボード(ピアノ)
・キーボード(ベース)
・ドラムス

この曲については最初に聴いた時から、右サイドのエレキ2本が柴山さん、左サイドのエレキとアコギが下山さん、とLIVEステージの立ち位置通りの演奏トラックとして耳にスッと馴染みました。

そこでまず特筆すべきは、アレンジ的には2本に分けなくても演奏可能な右サイドのエレキを、柴山さんが敢えて別トラックに区分してきた、という点です。
そのまま同じ音で続けて演奏できるところ、音色を変えて(ミックスも、ややセンター寄りの配置へと移動するなど微妙な変化があるようです)レコーディングされているんですよね。
LIVEでは1本で演奏することにはなるとは言え、これなどは正に柴山さんの、自作曲作品ならではの拘りのレコーディングではないでしょうか。「リードはこの音!」という部分と、ジュリーのヴォーカルをバックアップする部分をストイックに分別しているのだと思います。

リード・ギターの音色は2012年の「Deep Love」に近いですが、こちらはさらに武骨で、ディレイとサスティンがそのまま悲しみの表現となっています。
全国ツアーのステージでの柴山さんはきっと、表情を思い切り崩して渾身の演奏となるでしょう。

下山さんはエレキ、アコギとも黒子に徹しています。
エレキはAメロで登場するブレイクのフレーズ(1番最初に登場するのは0’25”からの箇所)で、フレットをスライドさせて緊張感を高める演奏が印象に残ります。
そしてアコギのストローク。『3月8日の雲』以降の作品ではアコギ使用の比重が高かった下山さんですが、今回はアコギをガッシャンガッシャンと弾きまくるのは(「こっちの水苦いぞ」の一瞬のコーダ部アルペジオを除いて)この4曲目「涙まみれFIRE FIGHTER」ただ1曲。この曲で下山さんがアコギを選んだ、というのもまた、柴山さんが曲に込めた感情を汲んでのことではないでしょうか。
それだけに僕はツアーでのこの曲で下山さんがアコギを持つことを期待していますが、正直可能性は五分五分でしょうか。エレキにも、目立たないながら重要なバッキング・パートが多いですからね。

泰輝さんのキーボードはこの曲も2トラックです。
1曲目「こっちの水苦いぞ」(オルガン、ストリングス、ベースの3トラック)以外はすべて2トラックのレコーディングで、LIVEでの”神の両手”を想像しやすい演奏となっていますが、この曲の場合はちょっと異色な「沈黙の美学」とも言うべきアレンジが特徴。自分は決して目立たず、ヴォーカルや他の演奏楽器(特にギター)をいかに聴かせるか、という演奏なのです。

まずピアノ・・・みなさま、この曲のイントロを初めて聴いた時、柴山さんのリード・ ギターがまるで深い悲しみに「震えている」ように感じませんでしたか?
これは泰輝さんのピアノが「レ#ド#シソ#、レ#ド#シソ#」のメロディーをリード・ギターとユニゾンさせている効果だと思います。まるで泰輝さんのピアノが生身のエフェクターとなっているような・・・。
1番と2番の間の伴奏部では柴山さんのギターが別のフレーズを弾き、泰輝さんのピアノはイントロと同じ音階を弾きます。ここでようやく「ピアノ」の存在に気づくリスナーも多いのかもしれません。

さらにベース。
これほどヘヴィーなバラードを作曲した柴山さんです。きっと柴山さんから泰輝さんに重厚な低音のリクエストがあったのでしょう。「こっちの水苦いぞ」のようないわゆる「擬似ベーシスト」的なトラックではありませんが、サビで重々しいロングトーンを奏で、「悲しみ」「悔しさ」を歌う曲想の土台となっています。
このベース・トラックは、LIVEではきっとビリビリと場内を震わせるように迫ってくる音響を伴って再現されるはずで、ジュリー渾身のヴォーカル、柴山さんの狂おしいギターを際立たせ、お客さんを圧倒的な悲しみに静まりかえらせることとなるでしょう。

GRACE姉さんのドラムスは、淡々としつつも重厚なエイト・ビート(それでも常に”跳ねる”感覚を持ち続けた演奏でもあります)。
素晴らしいのは3’04”からの最後のサビで、決してテクニックだけに走らず、「歌」が必要としているフィルを次々に繰り出します。
ここではドラムスと共にアコギも重要な見せ場。下山さんとGRACE姉さんのLIVEでの再現に期待します!

本当に素晴らしい鉄人バンドの演奏(ジュリーの歌詞に見合う、という時点でもう、ジュリーの新曲の演奏は彼等でなければあり得ない、というレベルにまで来ています)ですが・・・「LIVEで聴くのが楽しみ」と言うにはあまりに「重い」バラード、「涙まみれFIRE FIGHTER」。
僕らファンはツアー前に、この曲を生で聴く覚悟を持つことが求められるでしょう。
ただ、その「重さ」の中で、ジュリーのストレートなメッセージを演奏で体現できる4人があっての「歌」なのだ、と今はCD音源でしっかり噛みしめておきたいです。

最後にもうひとつ。
これは厳密には「演奏」のことではないんですけど・・・この曲のアウトロのギター・ソロ部で、エンディングに向かい次第に強くなっていく轟音のようなエフェクトに、みなさまお気づきかと思います。
これは「フランジャー」と言って、ギターでオーヴァードライヴとかけ合わせると「ジェット・サウンド」と呼ばれる効果が得られるエフェクター(「UNCLE DONALD」CD音源のエンディング間際のギターの音色として採り入れられています)が使われています。

ただしこの「涙まみれFIRE FIGHTER」の場合は、ギター演奏の際にフランジャーがかけられているのではなく、既にレコーディングされたトラックへの「後がけ」。つまり、ミックス作業の段階で表現された仕上げの「アレンジ」であると言えるでしょう。
しかもそれは、ギター・トラックのみならず複数の演奏トラックに施されているのです。

まるで「襲い来る風化」が被災地を覆いつくし飲み込んでしまうかような、戦慄のエンディング。
「本気」なのはジュリーと鉄人バンドだけでなく、新譜制作に関わったエンジニア・スタッフ全員が、「誇大でない現実」を歌うこの曲に真っ直ぐに立ち向かっているのですね。
現代の音響設備を考えますと、このエフェクトはLIVEでも再現される可能性があります。全国ツアーでの大きな注目ポイントのひとつだと僕は考えていますよ!


ということで・・・今年も3月11日にリリースされたジュリーの新譜全4曲の考察記事を書き終えました。
みなさまには、毎年恒例の大長文におつきあい頂くことになり本当に恐縮です。

例年以上に試行錯誤がありましたが、最低限、「自分の正直な思いを書く」という課題だけはクリアできました。そのせいで、恥も晒してしまいましたが・・・。
あとは、考察の至らなさを7月からのツアーでどう補えるか。ジュリーの生の歌声を聴いて考えが変わったり、閃いたりすることがあるのかどうか。
やはり、楽しみです。音楽なのですからね。
ジュリーは今年も素晴らしい音楽を届けてくれた、と言うべきだと思っています。


巷では、音楽劇『お嬢さんお手上げだ 明治編』の東京公演も終わって・・・と思いきや、急遽6月の追加公演が決定したようで、インフォも届きました。
追加の会場は渋谷のさくらホール・・・僕は昨年ピー先生と二十二世紀バンドの初日公演で初めて訪れた所ですが、とても素敵なホールでしたよ。

あ、インフォと一緒に全国ツアーの方の渋谷公演、落選ハガキも頂きました。僕は3日、4日と申し込んでいましたが、4日が川越公演に振替となったようです。3日は無事当選したのかなぁ。心配です。
渋谷公会堂改築前の大楽である4日に参加できなくなったことは残念ですが、振替の川越公演は10月後半。スケジュール・バランス的にはむしろ良かったのかなぁ、と前向きに考えているところです。

それでは次回からは、自由お題にて様々な時代のジュリー・ナンバーを採り上げ、なるべく短めの文量で(本当かよ)コンスタントに更新していこうと思います。
とりあえず次のお題は決めました。
純粋に楽曲としてなら、『PRAY FOR EAST JAPAN』がコンセプトの最近のジュリーの新曲群に今加えられたとしても違和感が無い、という70年代ジュリーの志の高いロック・ナンバーです。
さてどの曲でしょうか。お楽しみに!

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2015年4月 6日 (月)

沢田研二 「泣きべそなブラッド・ムーン」

from『こっちの水苦いぞ』、2015

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1. こっちの水苦いぞ
2. 限 界 臨 界
3. 泣きべそなブラッド・ムーン
4. 涙まみれFIRE FIGHTER

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週末は少し天気が崩れてしまいましたが、先週関東では、すっかり桜が満開となりました。
毎朝電車を降りて会社まで歩く際、ちょっと迂回すると桜のきれいな公園を通り抜けることができ、最近はそのルートでの通勤が日課です。

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ふと、以前ブログでネット記事をご紹介したことのある『バリケートに分断された桜並木』の、あの富岡町の桜のその後が気になり、検索してみました。
最初にヒットしたのは
こちら
あぁ、地元の方々も国も頑張っているんだ、と一瞬胸躍りましたが、続けてヒットしたのが
こちら
「悔しさ」の続く4年目。
僕ら非・被災者は「遠い地のこと」とこの桜から決して心離さず、「来年こそは」の思いを地元の方々と共に持つことが大切です。自分にできることを少しでも探し実践しながら、応援を続けていかなければ・・・。
(追記:この記事の更新翌日、aiju様がブログで紹介してくださった記事がこちらです)


一方、先月にいち早く桜は満開となっていたという僕の故郷、鹿児島では。
先日、1曲目「こっちの水苦いぞ」の考察記事の中で僕は、「川内原発再稼働までにはあと3つの段階が残されている」と書きましたが、そのうちのひとつ「使用前検査」が去る3月30日に開始されました。
これもやはり全国的には大きなニュースにならず・・・このまま残された段階それぞれがこんな感じでひっそりと進み、ある日突然「再稼働決定」が全国に突きつけられることになるのでしょうか。
九電は既に川内原発について、「7月発電開始」「8月営業運転開始」を発表しているのです。

北の被災地、南の故郷・・・桜に思いを馳せる4月。
こちら首都圏では、『お嬢さんお手上げだ 明治編』東京公演も始まりました。いよいよ春がやってきて、ジュリーファンのみなさまそれぞれ新たな気持ちの切り替えに向かっていらっしゃることと思います。

そんな中、このブログでは引き続きジュリーの新譜『こっちの水苦いぞ』の楽曲考察記事を書いていきますが・・・ここまで前半2曲、重い話ばかりの記事を書いてしまって、ごめんなさいね。
読んでくださるみなさまも、暗い気持ちになってしまったり、呆れたり退いたりしていらっしゃっるのではないかなぁ、とさすがに僕も不安でした。
でも、今日採り上げる3曲目「泣きべそなブラッド・ムーン」は、考察のアプローチをガラリと切り替えるにはふさわしいお題です。

と言うのも・・・。
先週、「さぁ3曲目」と意気込んで下書きにかかろうとして、いきなり困りました。うまく説明できないんですけど、これほど「眉間に皺寄せて語りまくる」ことが似合わない曲も無いのでは?と思ったんですよ。
言葉を重ねれば重ねるほど、ジュリーの思いとは「全然違う」「安っぽくなってしまう」と感じられて、実は最初の2、3日は途方に暮れながらの考察期間でした。
新譜前半の2曲は「自分の考えを正直に書く」ということで何とか乗り切りましたが、「泣きべそなブラッド・ムーン」ではその書き方が通用しそうにありません。

何故だろう。
こんなに優しい曲をジュリーが届けてくれたのに。

もちろんこれは「優しい曲」ではあるけれど、「明るい曲」とまでは言えない・・・いやむしろ深い悲しみを湛えたバラードと言っても良いでしょう。
それでも今回の新譜の中で、多くのジュリーファンがこの曲に心洗われ、救われたように感じていらっしゃるのでは、と想像しています。それほど癒やす力、優しい力に満ち溢れた曲。
額に皺寄せるような重い考察ばかりに終始して、みなさまの感動を台無しにするわけにはいきません。

昨年10月8日の『三年想いよ』南相馬公演には、普段から交流のある先輩方、いつも拝見させて頂いているブログさんなど、僕の知っている先輩方数名が無事参加されました。お話を伺ったり、感想を読ませて頂いたりして、「本当に素晴らしいステージだったんだろうなぁ」とは分かったけど、まだ足りない、もっと知りたい、とも思えて、いつもお世話になっている先輩には「じっくりと詳しいお話を聞かせてください」と昨年お願いしていたんですが、なかなか時間がとれず未だ果たせないまま今年も3月11日を迎え、他でもないジュリーの歌で「10月8日」を思うことができました。
あの日が皆既月食だったこと・・・「自然への畏怖」に敏感なジュリーは、その運命をどう感じたでしょう。

そう考えていてふと、遠くから南相馬公演の無事の成功をひたすらに祈っていた気持ちを思い出しながら書いたらどうかな、と思いました。
ジュリーがあの日を思い出して作った曲なんだ、LIVEには参加できなかったけど、僕も昨年の10月8日に気持ちを戻したつもりで書いてみよう・・・。

僕は現時点ではこの「泣きべそなブラッド・ムーン」が新譜の中で一番好きです。抜きん出ています。
ただ、いくら大好きな曲でも、それこそこの曲ばかりは、僕などより何百倍も、何千倍も深い感動を持って聴いている方々がいらっしゃることは明らか。それは言うまでもなく、昨年10月8日、『三年想いよ』南相馬公演に実際に参加されていたみなさまです。
ジュリーが昨年11月のあのフォーラムで語った「日々の嫌なことはすべて忘れられる」ほどのステージとは、そのひと月前の南相馬公演を思い出しての言葉だったのではないでしょうか。
どれほど素晴らしいステージだったか・・・。幸い、親しくさせて頂いている先輩方や、いつも拝見させて頂いているブログさんの感想など聞いたり拝見したりして、何とか想像力を振り絞って(生の体感とはまるで比較にならないにしても)、頭に浮かべることはできます。

ジュリーファンはいつも、自分が参加できない会場で公演がある日は、心をその地に向け思いを馳せているものですが・・・昨年の10月8日は本当に、全国のお留守番組すべてのジュリーファンの思いが南相馬の地に向けられ、凄まじいほどの目に見えないエネルギーが会場をとりまいていたのではないかと思います。
まさかジュリーがその日のことをハッキリと曲にして、不参加だった僕らにも改めて届けてくれるとは。

実は・・・これは僕が読んだり聞いたりした範疇に限ってのことなんですけど、「泣きべそなブラッド・ムーン」について、南相馬公演に実際に参加していた人、そうでない人との間で、くっきりとその感想が分かれている歌詞部があります。
サビで歌われる「君」が
誰を指すのか、というね。
南相馬に参加されたファンは、「この”君”って誰のことなんだろう?」とあれこれお考えの様子。
対してあの日遠くから会場へと思いを馳せていたお留守番組のファンは(僕も含みます)、まるで疑いもせず「これは私のことだ!」と考えているようなのです。
ジュリー自身が、「素晴らしかった」「来て良かった」「被災地に受け入れてもらえた」と感動したに違いないあの日のすべてを、その場にいなかった人(ファン問わず)ひとりひとりに「こうだったんだよ」と伝えたい、分かち合いたい、と歌ってくれているんだ・・・そんな確信ですね。
これは逆に、あの10月8日にジュリーの歌を生で聴いていた人には浮かびにくい発想なのかもしれません。一度、その場で手渡されているわけですからね。

ですから僕のように南相馬に参加できなかったファンとしては、この歌詞で2度繰り返される「君にも♪」の、最初の「君」が自分以外の不特定多数、2つ目が自分のこと、と勝手に思い込みながら聴いています。

でも・・・じゃあ「泣きべそなブラッド・ムーン」が楽しい曲かというと、当然そんなことはありません。

ジュリーが南相馬でLIVEをやる、と知った時から僕らは心がざわつきましたし、公演が大成功に終わり、素晴らしいステージ、素晴らしいお客さんだったと分かっても、それで万歳、とは済ませられません。
やっぱり、自分の目でその素晴らしさを確かめていないからそうなのでしょう。

そして、僕などはジュリーについては心配性ですから(ファンはみなさんそうなのかな?)、この曲の穏やかで優しいジュリーの歌詞中にも、所々に切実な悲しみや怒り、そしてやっぱりジュリーの「自責」のような感情をどうしても感じてしまうのです。中でも「鬱憤」「後悔」「懺悔」というフレーズの連呼は特に気がかりで・・・。

今日は考察本題自体は優しく穏やかな内容に、と思っていますが・・・その前に、僕のそんな暗~い感想の一部を、ほんの少しだけ先に書いてしまいましょう。

お正月LIVE『昭和90年のVOICE∞』のジュリーには、笑顔がまったく無かった、というわけではないけれど、とても少なかった・・・これまでとは違いましたよね。
MCが短くなったことについて、僕も最初は昨年のフォーラムのことがあったからかなぁ、と考えたけど、「泣きべそなブラッドムーン」で「誤解なた仕方ない」と歌うジュリーの声を聴いた今はそうは思っていません。
「もうステージでニコニコしていられないんだ。そんな状況じゃないんだ。もう限界だ」と。
「新しい年になったのに、嬉しいことが何もない」と語った渋谷初日公演のジュリーを思い出します。
僕の考え過ぎなら良いけど、7月からの全国ツアーでジュリーが果たして笑顔を見せてくれるかどうか・・・覚悟はしておかなきゃいけないのかなぁ、と。

とてつもなく重たくて
  Gm             A♭

言葉にならないさ想    い
Gm                  Am7-5   D7

ただ、僕がそんなふうに「ジュリー自身が主語」と考えてしまった2番Aメロの歌詞については、先日「臨界限界」の記事に頂いた先輩のコメントを拝見し、「本当の苦しみの中からは言葉など出てこない」という被災者の目線と解釈すべきだった、と今は考え直しています。

個人的に一番胸に突き刺さった箇所は実は1番で

優しさ  じゃ     違うか  ら
E♭maj7  B♭maj7   E♭maj7  B♭maj7

心な    い 言葉   は怒  ろう
E♭maj7  Cm7 Am7-5  Dsus4  D7

僕は、「優しさを振りかざす世間」にこれまで疑問を抱いたことがありませんでしたからね・・・。

さぁさぁ、暗い話はここまでにします。
「泣きべそなブラッド・ムーン」はそれでも「優しい曲」なのです。ジュリーの優しさ、曲の美しさ、完成度の高さ・・・素晴らしい名曲です。
今日は胸が痛くなるような話はここまでの枕にとどめ、ここから先はジュリ ーの歌人生にまたひとつ加わった歴史的な名曲を、純粋に素晴らしいバラードとして紐解いてゆくことに全力を注ぎますよ~。
僭越ながら、伝授!


みなさまは「泣きべそなブラッド・ムーン」とジュリーがつけたタイトルに、どんな光景を想像していますか?
南相馬に参加されたみなさまは当然、その目でご覧になられた土地の風景も合わせ、あの日の皆既月食とそれを見つめるジュリー、という構図をハッキリと思い浮かべることができるかもしれませんね。

一方僕は南相馬の風景を知りませんから、なかなかリアルに映像が浮かんできません(もともと想像力に乏しい、ということもありますが)。
僕が思い浮かべるのは・・・とても失礼なようですが、空を見つめて子供のように泣きじゃくっているジュリーです。この歌詞、タイトルは、「南相馬のブラッド・ムーンがまるで泣いているように見えた」という解釈もできますが、僕には「泣きべそな」という表現が重要なのではないか、と思われます。
「泣きべそ」って、大人の男性が使う言葉としては珍しいですよね。使う時があるとすれば・・・思わず涙を流してしまった時に「自分、泣きべそになったものだなぁ」と自らを切なくも愛おしく、笑い呆れているような瞬間ではないかと思ったんですよ・・・。

「泣きじゃくる」は言い過ぎかもしれませんが、ジュリーは南相馬の1日のどこかで、泣いてしまった瞬間があったんじゃないかなぁ。LIVEが終わってからなのか始まる前なのかは分からないけれど、色々な想いで泣いてしまって、それが南相馬の空を見上げた記憶と重なって、思い出すのは涙で滲んだブラッド・ムーン・・・そんな感じかなぁ、と。

ジュリーが10月8日に見た風景というのは当然LIVE会場近辺だけではなくて・・・僕も参加された先輩方からお話を聞かせて頂いているけど、閑散とした道がずっと続いていたり、除染作業の現場があったり、町の商店街の人々の暮らしであったりするわけですよね。
そうした風景が涙とブラッド・ムーンに集約されていると言うのかな・・・実際その地を知らない僕がこんなことを書くのは軽々しいのかもしれませんが・・・。

ただ、そんな切ない、辛い風景もすべてひっくるめて忘れられない、忘れようのない10月8日のステージだった・・・それを全部、「泣きべそなブラッド・ムーン」という歌ですべての人に伝えたい、渡したいと。
昨年の南相馬公演はジュリーにとって、本音を晒してお客さんの心の誠を受け止められた、「3年目」の特別な1日だったのかなぁ、と想像しています。

先月の終わりくらいまでは、『こっちの水苦いぞ』1枚、4曲だけを繰り返し聴き他の音楽はまったく耳にせず、という状況だった僕も、初めて聴いてから数週間が経ったことで、余裕が出てきたのでしょうね・・・もちろん仕事の移動中のBGMはまだまだ新譜オンリーで、既に記事を書き終えてしまった前半2曲についても今さらの新発見があったりするのですが、自宅では時々ジュリーの昔のアルバムなども思いつくままに聴いたりしています。

今回「泣きべそなブラッド・ムーン」の下書きを始める前に、南相馬にも参加された先輩のまねをして、『JULIEⅣ~今僕は倖せです』から、「涙」を聴きました。
本当に驚かされます。ジュリーの歌心、魂というのは、40年以上前から全然変わっていないのだ、と。

ここでまた僕の好きな将棋の話を例えに出して恐縮ですが、尊敬している関西の名伯楽・森信雄七段(多くの弟子を育て慕われる人柄、人望で有名)が、昨季見事順位戦B級2組への昇級を果たした直弟子の若武者・澤田真吾六段について、こんなふうに評していました。

マイペースの一門の中で、こと将棋に関しては、色んな面で妥協しない一徹さがある。素直なキャラクターの中に「剛」が引き立つ。謎めいた宝物(?)は今のままで、大きく育ってほしいなぁと思う

同じ「澤田」という苗字からの連想というわけでもないのですが、頑固一徹な「剛」を若くして持つ少年というのは、その中に「謎めいた宝物」を秘めているものなのかなぁ、と思いました。僕の知らない、20代前半のジュリーって、そんな感じだったのかな、と思います。
そしてジュリーは、その「謎めいた宝物」をずっと変わらず持ち続けたまま、今に至っているようです。
「涙」から43年後の「泣きべそなブラッド・ムーン」は、1曲まるごとがジュリーの涙のような曲・・・「それは美しい結晶」のような曲なのですね。

72年リリースの「涙」(ジュリー作詞・作曲)について僕がこのブログで採り上げたのは、あの2011年・・・「自分は何をしているのか」「何をすればよいのだろうか」と悩み迷った挙句、被災された先輩の「ジュリーの曲の記事を楽しみにしています」というお言葉に逆に励まされるようにして、「今の自分にできることは・・・」と決意した「3日に1曲」の考察記事更新をノルマとして頑張っていた時でした。
例によって後追いファン故の考察の甘さを、何人もの先輩方のコメントでフォローして頂き、改めて僕の知らなかった「涙」にまつわる色々なエピソードを教わりました。『女学生の友』に連載されていたフォトポエムに大いに興味を抱いたのも、あの時先輩がコメントで触れてくださったからです(今は全連載分の貴重な資料が手元にあり、アルバム『JULIEⅣ~今僕は倖せです』収録のお題曲を採り上げる際、少しずつ「オマケ」コーナーとして記事の最後に添付させて頂いています)。

さらにその後、これは結構最近なんですけど・・・天地真理さんのピアノ演奏をバックにジュリーが歌った「涙」の映像を教えて頂きました。
これが素晴らしかった!
僕はこれまで何度も、「ジュリーはバックの演奏に敏感」なヴォーカリストだと書いてきました。 それは単純に、テンションの高い演奏だと「気が乗る」タイプと言い換えても良い面があるでしょう。
で、この時の「涙」を歌うジュリーって、凄く気持ちが入ってるんですよね。天地さんは元々ピアノの素養をお持ちだったそうですが、「涙」のピアノ演奏では流暢な感じは受けません(緊張されていたのかな?)。ただ、丁寧に神経を集中させて弾こう、という女性独特の気魄が伝わってきて、ジュリーはそんな天地さんの「必死さに乗った」のだと思います。
(ちなみに天地さんについて僕はタイムリーでよく知らぬまま、世間の評価「歌が下手」を長い間信じ込んでいました。しかし最近、1975年リリースの「レイン・ステイション」という素晴らしい歌声の名曲を初めて聴き、自分の思い込みを恥じています)
話が逸れているようですが、この時の「涙」を歌うジュリーの気持ちのベクトルが、南相馬公演のことを思い歌う「泣きべそなブラッド・ムーン」ととても近いように僕には思えてならないのです。

やっぱり、「優しさ」なのかなぁ。

優しくなければ・・・陳腐な表現ですが「心がこもって」いなければ、こんなふうには歌えないですよね。

あの日、南相馬ではちょうどLIVE開演前くらいの時刻から月が欠けていった、と聞いています。
ジュリーは最初のMCで
「みなさん、こんなところにいていいんですか?皆既月食見なくていいんですか?」
と、お客さんの雰囲気を和ませてくれたのだとか。
そしてきっとジュリー自身は、10月8日のお客さんにとても癒された、と思っているのではないでしょうか。この国のこと、世界のこと、色々なことを考えて神経を尖らせていた毎日を忘れてしまうほどに。


僕が「いいなぁ、いいなぁ!」と沁みた箇所はやはり

晴れた東の空には 静かな皆既月食
G#m                       Emaj7

10月8日の全部 花束にし 手渡したい
 C#m                    A#7              D#7

君にも           君に  も
      C#m7  A#m7-5   D#7  G#m


(コードは半音上がりの転調後、嬰ト短調部から)

この「君にも」を2度繰り返したジュリーの気持ち。
よくLIVEでジュリーが、上手側下手側、1階2階ランダムに、柔らかな動きと共にお客さんに語りかけるようにして歌ってくれるシーンがあるじゃないですか(例えば、「届かない花々」の「手をつないでいて♪」のところとか)。あんなふうに、世界中の人達に10月8日の全部を手渡したい、と心から思って歌っているのでしょうね。
「君にも」が1回だけだと、そこまで伝わらなかったと思う・・・気持ちで載せた詞ですよね。

それにしてもこの歌声は・・・過去ジュリー・ナンバーの中でも屈指の1曲ではないでしょうか。
僕は最近actに嵌っていて、「歌で演ずる」ジュリーの才にトコトン惚れ込んでいますが、ここではジュリーに「演じよう」という気持ちはまったく無いですよね。身体ごと心ごと歌っています。
その上でジュリーには、無意識に演じ描ける風景がある・・・本当に凄い歌手ですよ。


実は、いつもはLIVEに参加するまでは新曲を丁寧に聴かないタイプのカミさんが、この「泣きべそなブラッド・ムーン」については早くも大絶賛でして・・・曰く「ドラマティック」だと。歌詞とか背景とか、そういうことを考える前にまずこのジュリーの歌声とメロディーがそのままドラマのようだ、と言うんですね。「ドラマティック」というのは何処か語弊のある言い方なのかもしれないけど、その感想自体は良く分かるのです。

そんな話がきっかけで、「ジュリー、actみたいな歌満載のスタイルで、この曲とか「Fridays Voice」とか、最近のバラードを全面に押し出した音楽劇をやってくれたら凄そうなのにね」なんてことを話しました。テーマを拡げて、『音楽劇・我が窮状』ってのも良いね・・・とか。
「まぁ夢物語だよな」と考えていて、突然思い出しました。ジュリーが「震災をテーマにした音楽劇」についてほんの少しだけど語っていたことがあったはずだ、と。
『Pray』の年の新聞のインタビュー記事だったかなぁ。「やりたいなぁとは考えているけど、僕がやってふさわしいのかどうか分からない」みたいな答え方をしていたんじゃなかったかな。
よく思い出せないんです。ネットでちょっと探 してみたけど見つからなくて・・・(よく言われるんですが、僕はとても検索が下手なのです泣)。
先輩方ならしっかり覚えていらしゃるでしょうね。

でも、音楽劇ってのはやっぱり、ジュリーの社会性とかそういう面とは別のところでやってるから良いものなのかな。産経ニュースに載ってた写真、ジュリー達が皆本当に楽しそうに見えましたしね・・・。


では続いて、そのドラマティックなジュリーの歌声を引き出した、泰輝さんの作曲について。
発売前の個人的な予想は、ロキシー・ミュージックみたいな雰囲気の「お洒落なバラード」というもの。
この予想も見事外れでした。バラードはバラードだったけど、もっと日本的と言うのかな~。良い意味で昭和っぽい、キャッチーな短調のメロディーです。
それを、いざアレンジではロックに仕上げているのが素晴らしい!サビのギターなんて、ガンガンに歪ませていますしね。

一応最後まで採譜もしたけど、案の定僕には荷が重く・・・と言うのも、メロディーにコードをつけるだけならすごく明快な曲(そのあたりに「昭和」の魅力があるとも言えます)なんですけど、2番から噛み込む右サイドのバッキング・ギターに象徴されるよ うに、アレンジメント・コードがメチャクチャ高度なんですよね~。
結果、僕の起こしたコード通りに演奏すると、まるで『火曜サスペンス劇場』のエンディング・テーマ のように聴こえてしまいます・・・(泣)。
いやでもそれはそれでとても良い響きですので(言い訳)、一応歌詞引用部にはコードを振りますが・・・試し弾きはピアノだけにしておいた方が良いかも。
ギターのアレンジメント・コードの採譜はYOKO君に任せた!(今年も大宮のビフォーで答え合わせか?)

泰輝さんの作曲作品は相変わらずメロディーが美しく整えられていて、しかも「小節の頭に向かっていく」印象があります。これがジュリーのヴォーカルに合うのです。
泰輝さん作曲の過去のジュリー・ナンバーでは「涙色の空」に近いのかなぁ、と最初は考えましたが、鉄人バンドの演奏、アレンジをじっくり聴いていくうち、もっと近い曲があることに気づきました。
その話をするには、鉄人バンドの演奏の素晴らしさを語っていくことが近道です。まずはいつものように、レコーディング・トラックをすべて書き出してみましょう。

・エレキギター(左トラック1)
・エレキギター(左トラック2)
・エレキギター(右トラック1)
・エレキギター(右トラック2)
・キーボード(ピアノ)
・キーボード(ストリングス)
・ドラムス

この曲の演奏の大きな特徴は、エレキギターが計4トラックを数えることです。アコギ無しのエレキだけの4トラック、というのは鉄人バンドのレコーディング音源としてはかなり珍しい。左サイド、右サイドに2トラックずつ。2012年以降の新譜では、基本「間奏」のリード・ギターだけはセンターにミックスされていることが多いですが、この曲と次の「涙まみれFIRE FIGHTER」にはそれが無く、左右2トラックずつ(「涙まみれFIRE FIGHTER」ではそのうち1トラック がアコースティク・ギター)のミックスです。
「泣きべそなブラッド・ムーン」の場合、2’29”からの8小節を「間奏」と考え、エレキギターのツイン・リードを際立たせるために左右に振られているのでしょう。

いやしかし・・・今でこそ左右2トラックずつのギターがそれぞれ鉄人バンドのステージ立ち位置通りの分担の音に聴こえるようになってきているけど、最初はホント、逆に聴こえたりしてたんだよなぁ。
右サイドの空間系のエフェクトがかけられたバッキング(「優しさじゃ違うから」のところから噛んできます)が下山さんの音に聴こえて、「あれ、ステージの立ち位置とは逆だな?」と思っていたのです。

全然言い訳とかじゃなくて真剣に考えていることなんですが、ここ数年で急速に、柴山さんと下山さんのギターの音が似てきていませんか?
もちろん、使用モデル含めて際立った個性の違いというのはそのままですが、届き方というのか、鳴らせ方というのか。『昭和90年のVOICE∞』の時の「希望」の音とか思い出すと特にね・・・。
本来まったくの他人である夫婦が、何十年もの長い時間を共に過ごしていると似てくる、とよく言うじゃないですか。そんな感じなのかもしれないなぁと思って。

ここで『ギターマガジン2月号』に掲載された下山さんのインタビュー・・・柴山さんについて尋ねられた下山さんが放った「唯一先輩と呼べる人。慕ってる」発言について僕は真面目に(笑)語りたいのだけれども。
普通、同じバンドの、同じギターというポジションのメンバーについて尋ねられた時、ギタリストは「彼はこういうタイプ、僕はこういうタイプ」といったように、 演奏の個性について語りその上で自分はこんなギタリスト、という主張もするものなんですね。
もちろんそれは相方へのリスペクトを込めてのことです。例えば、ミック・テイラー脱退後にローリング・ストーンズに新加入したロン・ウッドについて尋ねられたキース・リチャーズが「奴は俺と似たタイプのギタリストなんだ」と語ったり。
でも下山さんはごく自然に、「柴山さんとは自分にとってこんな人」ということを、音の話を抜きにあれだけの短い言葉ですべて語ってしまっています。
もうね、人格的なレベルで突き抜けたギタリストが2人も同じバンドに在籍していて・・・ギターという楽器で何をすべきなのか、という感覚が、言葉や理屈を超えて共有されちゃってるんじゃないかな ぁ。

これは2012年からの『PRAY FOR EAST JAPAN』コンセプトの作品を、年に一度作り続けてきたジュリーと鉄人バンドの中に起こった最も素晴らしい音楽的な進化かもしません。これが「普通に上手いバンド」なら、歌詞に演奏が負けてしまうところですよ。
「泣きべそなブラッド・ムーン」のサビで左右から飛び込んでくるゴリゴリのギター2本の音を聴きながら、僕はそんなことを考えているのでした。

さて、4トラックのエレキギターのうち、まず活躍するのは左サイドのパワー・コード。8分音符をダウン・ピッキングで淡々と奏でます。
イントロでは泰輝さんがピアノを弾いていたり、GRACE姉さんがタムで重々しい刻みを入れていたりするので音数も多く聴こえますが、いざ1番のジュリーのヴォ ーカルが始まると、鳴っているのはこのパワー・コードとドラムスだけになります。
たった2つの楽器でこの説得力!
これは昨年の「三年想いよ」のAメロでも採り入れられたアレンジで、全国ツアーでも見事再現され、僕らを驚嘆させてくれました。今年の「泣きべそなブラッド・ムーン」でも同じ驚きに出逢えそうです。
サビでは、左サイド、右サイドともに、歪み系の豪快な音色が満を持して噛んできます(ツイン・リードの箇所では高音部と低音部に分かれます)。
4トラックそれぞれに意味があるアレンジであると同時に、ベースレスをカバーしているんですね。

泰輝さんのキーボードは、たぶん2トラック。
「たぶん」と言うのは、ストリングス系の音以外に、オルガンのように聴こえる箇所があるからです。でもこれは一気の1トラック・レコーディングじゃないかなぁ。
ピアノはとにかく渋いです。イントロをはじめ要所で登場する、「ソシ♭ドファ、ラ♭シ♭ドファ、ソシ♭ドファ、ラドファミ♭レ~♪」という印象的なフレーズ。淡々と赤を描くようなそのフレーズからは、正にブラッド・ムーンを思い浮かべることができます。


GRACE姉さんのドラムス・トラックで最も印象深いのは、やっぱり「タムの刻み」だなぁ。特に、右サイドから「ドコドコ」って聴こえてくるタムは素晴らしい響きにして素晴らしいアレンジ。泰輝さんのピアノのフレーズ同様に、正にブラ ッド・ムーンです。
で、ギターのパワーコード・カッティングがエイト・ビートであるのに対し、この曲のドラムスは16分音符で跳ねるんですよね。そこでふと思いついたのは、もしこの曲が2007~2008年頃の白井良 明さんのアレンジでレコーディングされていたら、ドラムスの打ち込みは「太陽」(アルバム『生きてたらシアワセ』収録)のような仕上がりになっていたんじゃないか、と。
そう考えると「太陽」と「泣きべそなブラッド・ムーン」には、曲想も共通するところがたくさんあるんですよ。
どちらも泰輝さんの作曲作品。これが先程途中になっていた話ですね。
楽曲タイトル、歌詞も「太陽」と「月」でしょ?

これは、ジュリーが南相馬のブラッド・ムーンを想起して歌詞を載せる際、泰輝さんの曲に既に「自然への畏怖」があったんじゃないかなぁと思うわけです。
GRACE姉さんは、「自然への畏怖」についてジュリーを凌ぐほどの感性を持っている人かもしれない・・・女性ですしね。その結果、16分音符で跳ねる自然風景的なドラムス・テイクが生まれたんじゃないかなぁ。
もちろんこの曲の場合は生ドラムだからこその説得力があるわけで、みなさまそれぞれが2014年10月8日のブラッド・ムーン、南相馬の風景を思い浮かべることができるドラムスの響きです。全国ツアーでのこの曲、きっと照明は赤、或いは薄暗いオレンジで、鉄人バンドは影のような暗がりの中からの 演奏・・・そこから聴こえてくるGRACE姉さんのドラムスは、きっとお客さんの耳に印象深く残るはずです。


最後に。
今年は無いみたいだけど、ジュリーはまたいつか全国ツアーで南相馬に行くのかな・・・?
きっと行きますよね。「忘れてないよ」「また呼んでくれてありがとう」と伝えに・・・その時にはきっと「泣きべそなブラッド・ムーン」を歌うでしょう。
前回『三年想いよ』のセットリストには無かった「時の過ぎゆくままに」や「TOKIO」も、きっと。
今度は僕もその場にいられると良いなぁ・・・。

また、今年7月からのツアーで新譜『こっちの水苦いぞ』収録の4曲がどのような演奏順となるのか、というのもファンにとっては楽しみのひとつでしょうが、僕はこの「泣きべそなブラッド・ムーン」が(新譜の中では)大トリになるのでは、と予想しています。
みなさまはいかがですか?


それでは次回更新は、新譜4曲目の「涙まみれFIRE FIGHTER」・・・いよいよ最後の曲です。
これほど「痛い」曲をCD最後の収録にするとは・・・ジュリーの狙い、心しなければなりません。歌われているのは、「誇大でない現実」であることを。

また、音的なことで言っても、3曲目「泣きべそなブラッド・ムーン」がト短調から始まり最後のサビでは半音上がりの転調後、嬰ト短調となります。そして続く4曲目「涙まみれFIRE FIRETER」は、同じ嬰ト短調。
みなさま、最初に新譜を聴いた時、3曲目と4曲目は似た感じだな、と思われませんでしたか?それは単に重厚なバラードが続いている、というだけでなく、この2曲のキーが揃えられているからなのです。

そして・・・僕にとって「涙まみれFIRE FIGHTER」は、リリース前の予想が最も実際とはかけ離れていただけに、特に大きなショックを受けた曲でした。
素晴らしい曲です。
執筆にはまたもや時間がかかりそうですが、キチンと気持ちを込めて書こうと思います!

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