沢田研二 「限 界 臨 界」
from『こっちの水苦いぞ』、2015
1. こっちの水苦いぞ
2. 限 界 臨 界
3. 泣きべそなブラッド・ムーン
4. 涙まみれFIRE FIGHTER
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去る24日、遅れていたアマゾンさん予約分の『こっちの水苦いぞ』が届きました(発送メールが届くまで、アマゾンさんにも予約していたこと自体をすっかり忘れるほど聴きまくっている、という毎年のパターン)。
これで手元に2枚。うち1枚は例年通り、YOKO君に引き取ってもらう予定です。
僕も含め、みなさまがアマゾンさんに予約していた『こっちの水苦いぞ』がオリコンで売上枚数カウントされる運びとなり、いきなり9位を記録したそうですね。
正直セールス実績なんてもうジュリー自身は全然気にしてないのかな、とは思うけど、こうして少しでも新譜が話題となり、ファン以外の人が曲を耳にする機会が増えて欲しい、と個人的には願っています。
さて。
実は・・・ブログには今まで書くのを控えていたんですけど、僕は2月末から3月頭までのだいたい10日間くらいでしたか、体調の異変に見舞われ辛い日々を送っていました(actにどれほど救われたか・・・)。
胃カメラを飲んだ、という話は「生きてる実感」の記事で書きましたけど、その翌々日からのことです。今日は冒頭で、その時のことを少し書かせて頂きます。
胃カメラを飲むきっかけとなった症状自体、検査の数日前から無くなっていて、検査結果も胃、食道、十二指腸とも異常無しということで、「これで肉体的にも精神的にも完全復活じゃ!」と思っていた矢先でした。
突然喉が痛くなってきましてね・・・最初は「あれ、風邪ひいたかな?」と思う程度でした。
それが、翌日には激しい痛みに変わりました。
僕は昔から扁桃腺が弱くて、でも最近はそんなことも無くなってきていたのですが(最後に扁桃腺で苦しんだのが、忘れもしない2010年の『秋の大運動会~涙色の空』渋谷公演、下手側2列目という神席を病欠してしまった時)、こりゃ久々に来たかな、と思いました。
ところがさらに1日経って、「これはおかしい」と。
とにかく痛みが激しい。凄まじい。いや、扁桃腺を腫らした時だって相当痛いことは痛いんですよ。でも全然違う・・・と言うかそれを遥かに上回るほどの痛み。
唾を飲み込んだ瞬間に痛過ぎて立ちくらみがし、ちょっと声を出しただけでも喉に激痛が走ります。
そこで思い出したのが、検査当日の出来事です。
ご存知のかたも多いでしょうが、胃カメラというのは管を飲み込んだらまず胃の一番奥の十二指腸の入り口付近まで一気に降って、そこから徐々に手前に戻ってくる感じで検査が進みます。
その、最後に戻ってくる時。「食道も大丈夫」と言われいよいよ管を抜こうか、というところで先生が「あっ」と声を上げたのでビックリしていると、「出血してる。飲み込む時に傷がついちゃったんだな」と。
当日は「変なものが見つかったわけではなかったんだ」と安心したものでしたが・・・その時のことを思い出してネットで調べてみたら、胃カメラで喉の奥を傷つけて七転八倒した、という体験談がいくつもヒットしました。世間では「よくあること」とまでは言えませんが、どうやら僕はそのパターンに嵌ってしまったようです。
僕は検査の際、先生に「デリケートなんだなぁ」と言われたほど嘔吐反射が強いタイプで、飲み込む瞬間に「ぐえっ!」と身体が大きくのけぞり、看護婦さんに抑えつけられて何とか、という状況でした(2年前もそうでした。飲み込む時より抜く時の方が苦しい、というタイプの人もいらっしゃるようですが、僕は抜く時は全然平気)。おそらくその時にやっちゃったんでしょうね。
再度病院に行き症状を話し、一応扁桃腺なども診てもらったところ、見える範囲で喉には所見無し。
「奥の敏感な部分を切っちゃったかな。”喉の口内炎”のような痛みが出ているならおそらくその時の傷でしょう」ということになり・・・痛み止めやら殺菌やらの薬を何種類か処方されて帰りました。
痛み止めは、飲んでからしばらくの間は症状がいくらか緩和するものの、すぐまた猛烈な痛みが襲ってきます。夜も眠れず、仕事の会話もままならず、という状況が続き、ようやく3月第1週くらいに痛みが治まったのでした・・・(おかげさまで、今は何ともありません)。
何故、いきなりこんなことを書いたのかというと。
痛みや苦しみというのは、経験しないと分からないものなんだなぁ、と改めて今考えているからです。
僕の痛みなどは、たかだか10日で癒えてしまったものだけれど、その何千倍、何万倍もの心の痛み、身体の不調が4年も続きなお先行きが見えない、というのはどれほどのことなのだろうか、と。
2012年『3月8日の雲』以降のジュリー・ナンバーの中には、思わず「うっ!」と耳を押さえてしまうほど強烈に「痛み」が伝わってくる曲がいくつもあります。
例えば「恨まないよ」「Deep Love」、今年の新譜から「涙まみれFIRE FIGHTER」。みなさまもこの3曲については同じように感じていらっしゃるのでは?
これら3曲の歌詞には、斬新な比喩による激しい言葉遣いや、淡々とした過酷な情景描写、苦しみや悲しみを吐露する被災者の独白形式、といういくつかの共通点がありますね。
しかし今僕は、それら3曲にも増して、今回の新譜で最も激しい「痛み」を歌った曲は今日のお題「臨界限界」ではないのだろうか、という考えに至っています。
「えっ、そうかな?」と思われますか?
確かに僕も、「限界臨界」はむしろここ数年のジュリー・ナンバーの中では気持ち的な「重さ」をあまり受けず、「聴きやすい」曲だな、と思っていました。
それは今でもそう聴こえてはいます。
でも・・・この一週間じっくり歌詞を読みながらこの曲についてあれこれと考え、採譜をして自分でも声に出して歌ってみたりしているうちにハッと思い当たり
「一般の被災者の方々が、もし今回のジュリーの新譜を聴いたら・・・」
と考えてみました。
収録曲の中で最もリアルに感じられ、耳を押さえたくなるほどの「痛み」を感じる曲が「限界臨界」という人達は、僕が考える以上に多いのかもしれない・・・。
何故僕はそうではないのか。
それは、自分が被災者ではないから。
僕などには到底実感できないほどの猛烈な「痛み」がこの曲にあるのではないか、ということです。
あの震災、原発事故で今なお苦しんでいる人達しか真に分かり得ない「痛み」。例えでも何でもなく実際に、今まさに「限界臨界」の渦中に身を置く人達。
まずはその人達にとっての「限界臨界」を本気になって考えずして、この曲を軽々しく分析、考察などしてはいけない・・・そう思いました。
そんなことを一週間ずっと考えたものですから・・・すみません、今日は冒頭から「限界臨界」の「痛み」についてどうしても先に書いておきたかったのです。
ここから、いつもの考察記事になります。
でも、いつものように「伝授!」などと書く気持ちにはとてもなれない・・・。先述の通り、僕にはこの曲のことが「分かるはずがない」と思いますからね。それは、こんな詞を書けるジュリーの感性がどれほど深いか、凄いかということでもあるのだけれど。
とにかく僕はこの曲について、それでも何とか自分なりに考察したことを正直に、一所懸命に書くだけです。
今回も長いです。ごめんなさい。
「臨界限界」の歌詞について、僕はおそらく多くのみなさまから「?」と首をかしげられてしまうような考察を一部持っていますが、まずはみなさまとも共通しそうな感想かなぁ、と思う部分から書いていきましょう。
「限界臨界」という楽曲タイトルについてです。
「限界」とは、「もうこれ以上は耐えられない」というギリギリの状況、或いは心情を表しているでしょう。
対して「臨界」。言葉自体の意味を調べますと、これは「過程」を表すようです。ですから、「臨界」とは「まだその先に起こることがある」状況であり、「限界」はその極限・・・「それ以上はもう無い」状況と言えます。
ジュリーファンとしてはそれでも釈然とはせず、さらなる答えを求めて「臨界 原発」と並べて検索しますと、「臨界状態」という言葉がウィキペディアでヒット。
臨界状態とは、原子炉などで原子核分裂の連鎖反応が一定の割合で継続している状態のことをいう
2011年、僕らは「臨界」という言葉を何度も目にしたり聞いたりしました。ジュリーが「臨界」と歌うからには、まず原発の「臨界」の意味を持つことは当然です。
そこでこの曲のタイトル、「限界臨界」。
「限界」が「臨界」している・・・つまり、「もうこれ以上は耐えられない、限界だ!」という極限の苦しみが連鎖反応して延々と継続している、という・・・。
ジュリーは、「過酷」などという表現では生易し過ぎるほどの絶望的な惨状を、このタイトル及び歌詞中で表現していると考えられます。とてつもなく厳しい内容の歌詞である、と言わざるを得ません。
そう考えると、「限界臨界」には、被災地に対する為政者のやりようというものを
「まだそんな仕打ちを続けるつもりなのか!嘲り、馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
とする痛烈な反発であり怒りをして、「反体制ナンバー」という一面が浮き彫りとなります。
その場合、「(被災地を)馬鹿にしている」者は誰かと言うと、「薔薇色政治家達」や「薔薇色経済人達」である、と考えるのが自然でしょう。これは強烈な「ロック」の手法ですよね。確かにその歌詞考察は一局であり本道である、とは僕も思います。
しかし、また別の考察を僕は持ちます。「(被災地を)馬鹿にしている」者とは、実は歌い手(ジュリー)、そして僕ら一人一人であったのだ、とする考え方です。
これはあくまで個人的な考えですので、ジュリーにそんな意志は全然無いかもしれない、とは承知の上で、僕自身への自戒も込めた楽曲解釈としてここで書かせて頂きたいと思います。
話は数ヶ月前、昨年11月にまで遡りまして。
『三年想いよ』ツアー最終日、あの国際フォーラムですね。あの日はみなさまご存知の特殊な出来事がありましたので、僕はかなり変則的なLIVEレポートをブログで書いてしまいました。にも関わらず、多くのみなさまから暖かいコメントを頂きとても嬉しかったことを今でも昨日のことのように覚えています。
その中で、プロの文章家でいらっしゃるカリーナ様から頂いたコメントに、こんな一文がありました。
沢田研二さんは、おそらく正直さと誇り高さゆえの知性で私たちのなかにある優越感や欺瞞を指摘されますよね
もちろんその時は、あの日のステージ上のジュリーの姿を思い浮かべながら「あぁ、仰る通りだなぁ」と感銘を受けたんですけど、それとは別に・・・ジュリーという歌手の、ある大きな一面を簡潔に表現されているお言葉のように思えて、僕は後々までそのお言葉自体を強く心に残していたのでした。
そんな中、今回の新譜・・・特にこの2曲目「限界臨界」についてじっくり考えた時、唐突にそのお言葉がジュリーの歌詞と重なってしまったのです。
「欺瞞」ももちろんですけど、「優越感」という言葉が、いつしか僕の心をざわつかせていました。
もやもやと僕の中にあった恥ずべき部分をジュリーは暴いてくれたのだ、と思いました。
2012年からの新譜の記事を書いている時、夜にババ~ッと下書きしたものを翌朝読み返すと、やたらと修正したくなるのは・・・自分の傲慢がそこに見えているからではないか、と思い当たりました。
そこで今回、「自分が修正したくなる箇所」に気をつけてみると、やはりその通りだったんですよね・・・。
前回記事で僕は「怖いから書き直す」なんて書いたけど、本当に怖いもの、恥ずかしいものは自分自身の中にあったのだ、と気づかされました。
想像を絶する痛み、苦しみはそれを受けた当人でなければ分かりっこない。
冒頭にも書きましたが、それでもなんとかその立場になって考えてみよう、「限界臨界」とはどんな気持ちなのか必死に想像してみようとすること・・・それをしなければこの曲の本質は見えてこないと思いますし、ジュリーがつけたタイトルも伝わってこないような気がします。
いくら僕がジュリーの「愛と平和下さい」を頼もしく嬉しく思い、心から共感できたとしても、それだけではまったく意味が無い、ということです。
いえ、みなさまがどうなのかは分かりません。
ただ僕自身の3・11以降の有りようを振り返りますと・・・被災地のことを語ろうとする時、動けない弱い人達を思う時、悲しみに耐える人達に言葉をかけようとする時・・・「自分は被災者ではない」という、ある意味においての傲慢な「優越感」が、無意識にでもありはしなかっただろうか、と。
その優越感が、受け取る側にとって「馬鹿にされたような」表現となり、それと気づかぬまま誰かの心を踏みにじり、心折れさせてはいなかっただろうか・・・。
そして、もしかするとジュリーもそんなふうに考えることがあったのではないだろうか、とも。
どれ程の美辞麗句で どれ程の嘘をかさね
B B(onA)
心を踏みにじったか
B(onG#) A
どれ程の慇懃さで どれ程の演技力で
B B(onA)
心を折れさせたのか
B(onG#) A
ただし!
この曲でジュリーにもし僕の考えるような「自戒」があったとしても、それは「自虐」ではありません。被災地を思うことから繋がった、平和国家・日本に誇りを持つ一国民としての謙虚な決意だと感じます。
ジュリーはそれを、今この国を動かしている為政者達にも伝えようとしているのでは?
作詞作業が昨年末から今年の2月くらいまでの期間だったとすれば、具体的に「痛切な反省」というキーワードが浮かび上がりそうです。そうすると、「亜細亜を見下してきた」という難解な歌詞部に込められたジュリーの思いも読み解けるようではありませんか。
薔薇色政治家達が 薔薇色経済人達と
B B(onA)
世界をひらに乗せ
B(onG#) A
これほど「薔薇」という文字を恐ろしく感じた歌詞はありません。普通なら、美しさや妖艶さをイメージさせる、華麗な言葉であるはずですからね。
こんな痛烈な意味を持たせる変換ができるものなのだ、と・・・これは歌詞カードを見て初めて分かること。
ジュリーはワープロを使って作詞するのだそうですね。低レベルながら僕にも経験がありますが、それまでノートに手書きで作詞していたのがワープロに変わった時、作風もガラッと変わってくるのです。「漢字変換」に意識が向くようになって、「言葉遊び」的な手法を採り入れることが増えてきます。
その点ジュリーは(これも長い年月をかけて)、「言葉遊び」なんていう次元を超えた漢字変換による言葉の意味の深化、或いは表現について独自の手法を切り開きました。『PRAY FOR EAST JAPAN』のテーマを得た2012年からの自作詞曲がそれを裏づけています。
職業作詞家とはまったく異なる、日本ロック界唯一無二の詩人となったジュリー。
前回記事で僕はこの新譜の歌詞について、「こんなことはジュリーにしかできない」と書いたところ、「いや、ジュリーだけでなく、この人のこういう曲もあります」と、先輩にいくつか教えて頂きました。
それは僕の不勉強のいたすところではありましたが、でもジュリーの場合は4年・・・もうこれで16曲ですよ。血の滲むような思いで取り組んだこのテーマの詞がもう16篇を数えます。この愚直なまでの継続にこそ、詩人・ジュリーの本質が秘められています。
そしてそれはこの先も、恐るべき精神力で貫かれ、20篇、30篇へとなってゆくでしょう。
ジュリーは歌の天才ですが、作詞については努力型、継続型だと思います。
必死の努力が継続するとこんな途方も無い境地に辿り着くことがある・・・「人間力」とも言うべき個性が開花することがあるのだ、と感動させられます。この4年のジュリーの詞を何度も読み返し読み続けてきて・・・コツコツと積み重ねていくことの尊さを教えてくれるジュリーを僕はますます尊敬し、好きになっていくのです。
さて、「限界臨界」の歌詞については、「痛み」と同時にやはり「平和」についても考えねばなりません。
何故僕が、この曲での「愛と平和下さい」というジュリーの言葉にこれほど感動させられたのか。
「愛と平和」なんて、よく聞く言葉であり、歌詞ですよね。巷には「腐るほど」溢れています。安売りされていますよ。それだからこそ、本気で考えて「愛と平和」を口にした人の言葉というのは違うのです。皆同じようなことを言うから、余計に違うのですよ。
ジュリーの「愛と平和」は本物です。それがとても嬉しく、頼もしいのです。
今のネット時代でよくあることとして・・・様々な社会問題について僕らが「知る」時、事実の報道以外に、専門家や識者の論評が独立した記事として検索されやすい環境がある、という面が挙げられます。
いわば執筆者個人の考えがあたかも「報道」であるような錯覚を覚えてしまう・・・プロバイダのトップ画面の最新ニュース一覧などにそのようなことが多いです。それ自体はまぁ良いとして、それらの論評の中に、執筆者と反対の意見を持つ不特定多数を「嘲笑する」ような文体のものが最近は非常に多くなってきています。
例えば、改憲論を持つ執筆者が「護憲を主張する人は無知である、馬鹿者である」とあざけっている、或いは威圧するような口調の記述です。もちろんその逆のパターンとして、護憲論者が改憲論者を同じような口調で貶める、という場合もあります。
こうした論評は、”「知らない」こともこれから「知っていこう」”と意欲を持つ人達が、執筆者とは逆の考え方を先に学んでいた場合に、まず頭から「お前はこんなことも知らないのか」と嘲笑、恫喝し萎縮させ手を退かせる、黙らせる、というやり方。
それが極まると、建設的な意見の記述などは一切省き、ただただ相手をなじる、あざけることに終始した単なる「中傷」へと転落していきます。
考え方の違う者同士でこんなことを双方やっていると、それを見ていて「関わり合うのは怖いな」、と「考える」
ことをやめてしまう人達が多くなってしまうのではないだろうか、と不安になります。そうなれば双方、不利益しか無いでしょう。
何故もっと丁寧、真摯な書き方、言い方ができないのか。「知ろう」とする人たちの意欲を削ぐのか。
メディアばかりの話ではありません。
ジュリーが「この道しかない、なんて思考停止ですよ」と語ったのは、「この国は思考を停止している」と言ったのではなく、「この国は、思考停止を国民に押しつけている」と言いたかったのではないか、と僕は思っています。加えて、国民を「嘲る」かのような発言の多さにも危機感を抱いているでしょう。
国のトップ中のトップである安倍さんは、これまで安全保障や原発の問題について「国民に丁寧に説明していく」と繰り返し発言してきま
した。
ならば、昨年8月9日長崎での被曝者団体の方々との懇談の場などは、その絶好の機会であったはずです。しかしその時団体側からの「我々は集団的自衛権の行使容認に納得していません」という訴えに対して安倍さんは、「見解の相違ですね」と、斬って捨てるような言葉を返しました。これは「話にならん」と言っているに等しい言葉です。このことは比較的まんべんなく全国のニュースでも採り上げられたようですから、ご存知のかたも多いでしょう。
もし「丁寧に説明していく」気持ちがあるならば
「みなさんの体験を考えれば、納得できない、と仰るのも分かります。しかし私は今わが国を取り巻く状況を考え、みなさんの生活を守るために決断しました」
と、反対意見との対話を模索する言葉を首相自ら発するべきだったのではないでしょうか。
僕は政治的な考え方について意見交換できる友人に恵まれています。そう、それは互いを理解する機会に「恵まれている」と考えるべきなのです(僕は、男友達に限っては、自分とは真逆の考え方を持つ友人の方がどちらかと言えば多いのです)。
でも安倍さんは違うようです。長崎での発言のみならず、最近は一事が万事そんな調子。それが鵠志のつもりであれば大きな間違いで、「馬鹿にしている」態度と見る人の方が多いでしょう。
基本的な考え方は以前から変わっていないにせよ、昔はもっと人の話を聞き、丁寧に説明してくれる人、というイメージを持ってはいたんだけどなぁ・・・。
ジュリーはそんな「拒絶」的なやり方のアンチテーゼとして、「知らないことを知ってみよう」「自分のこととして考えてみよう」という「共有」のメッセージを持って、「平和」のテーマに切り込んでいるように思えます。
僕が思うのは、自分と話している相手が「この話題についてこの人はあまり詳しくは知らないな」「あまり興味を持っていないな」と感じたら、より丁寧に、正直に話す・・・そういうことをしなきゃなぁ、と。ジュリーの歌からそんなふうに感じ、考えるきっかけとなりました。
「何故このことを知らないんだ?」という、人から見れば”上から目線”のような書き方、話し方は今後完全に捨て去らなければならない、と強く思っています。
第一、僕自身が「知らないこと」というのは山積みであって、これから勉強してゆくことは当然。
これ以上被災者を 動けない弱い者を
F# E G
悲しみに耐える者を
G
馬鹿にしない 本音汲んで下さい
B B(onA) B B(onA)
限界 臨界 心 誠下さい 限界 臨界
B B(onA) B B(onA) Em B
「馬鹿にしない」は、新譜のすべての歌詞の中で特に重要なジュリーの言葉だと僕には思えています。
「本音を話そう、誠を受けよう」・・・本当に難しいことですが、やらなきゃいけないことなんだよなぁ・・・。
ジュリーの歌声が、僕にはこう聴こえています。
「馬鹿にしない」の決意に立ったジュリーが、まず実際に今「限界臨界」の只中にある人々に対して
「僕らはみなさんを苦しめてきた。痛切な反省をもってこれからも本音を語ってゆく。どうかその本音を汲んで、みなさんの心の誠を下さい」
国に対しては、これ以上僕らを「馬鹿にした」やり方への我慢の限界をもって
「僕らと同じ気持ちに立って欲しい。これから先の希望が持てる、愛と平和の国にして下さい」
と、本音で歌っている・・・これが個人的な「限界臨界」サビ歌詞部の解釈です。
それともうひとつ・・・ジュリーが「馬鹿にしない」と本音を投げかけている人達
(と、僕は思っている)の中に「未熟でも若い者」という言葉が登場しますよね。
僕はその人に心当たりがあります。
ジュリーが選挙応援までした人ですが、僕にとっては最初とても印象が悪かった人で、ジュリーファンとしては、その「喧嘩上等」のような言動(と僕には見えていた)に、「せっかくジュリーが応援してくれたのに」と拒否反応すらあったわけですが・・・。
これは前作『三年想いよ』収録の「一握り人の罪」の考察記事でも書いたことなんですけど、昨年4月に行われた鹿児島2区の補欠選挙の際、「川内原発の問題を選挙の争点にしなければおかしい」と、孤軍奮闘してくれたのが彼でした。
良くも悪くも知名度のある彼が絡んだことで、田舎の選挙が大きく全国報道されることもありました。
正直、僕はあの時とても嬉しかったです。
だからこそその後も、「自分のことを野良犬だなんて言っちゃダメだ」とか、「政党名はもう少しなんとかならなかったのか」とか、「そんなことじゃ、応援したジュリーの株が下がってしまうよ」とか・・・やっぱり今でも「何でかなぁ」と気がかりの多い人です。
ただ・・・それは僕が彼を「馬鹿にしている」ことになりはしないだろうか、と。
鹿児島のこともあったし、僕などが彼を馬鹿になどして良いはずがありません。
ジュリーも彼には「未熟」の評価を持ちつつも、その本音たる部分を穏やかに汲み取っているのかもしれないなぁ、と思ったのです。だいたい、「未熟」と言うなら僕自身こそが正にそうじゃないか。
そもそもジュリーは、「自分の株が下がる」とかいう見栄みたいなものとはまったくかけ離れた境地で、正直な気持ちを歌い伝えようとしているわけで・・・。
つくづく、ジュリーの潔さよ!
レベルの低い夕刊紙、週刊誌にどんな根も葉も無いことを書かれようが、ジュリーはまったく意に介してはいないでしょう。立ち向かおうとしているのは、もっと強大なものであるはずです。
それにしても・・・いつもお世話になっている先輩が笑っていたけど、今年のお正月LIVEが終わってからの、『日刊ゲンダイ』の例の記事をはじめとするあのくだらないメディアの書きよう、言いように対して、著名人も含めた多くのジュリーファンが、何故か「所詮夕刊紙の書くことだから」とスルーすることがまったくできず、本気になって怒り、真面目に理を説き反論したというのは・・・ある意味素晴らしかったと言うか何と言うか。
かく言う僕も、10代の頃から『東京スポーツ』のプロレス欄を愛読し、根拠の無い創作記事をむしろ楽しみにしていたクチで、夕刊紙の何たるかを重々承知していたはずの人間。それなのに、あの『日刊ゲンダイ』のいい加減な記事に本気で噛みつき、「こうこうこうだからこうである。あなたは間違っている」みたいなことをLIVEレポートの場を借りて真面目に反論しているという・・・。
ジュリーがあの時期の多くのジュリーファンの「本気で怒っている」様子をもし知ることがあったら、きっとこう言うでしょうね。「別のところに、そのパワー使え」と。
・・・と、ここまで歌詞について本当に個人的な、ひとりよがりな解釈ばかりとなりましたが、僕が今どんなふうに「限界臨界」という曲を聴いているか、ということで、誤解を怖れず色々と書かせて頂きました。
ここからは、楽曲構成、演奏、アレンジの考察へと進んでまいります。こちらは相対的にして普遍的なな楽曲評価を目指します。「限界臨界」がいかに名曲であるかを、フェアに語っていきますよ!
この曲の採譜はスムーズに終わりました。曲を流しながらコードを振ってみた後、楽器を合わせて細部修正したのは、サビ最後の「Em」の箇所だけ。
だからと言って「ありがち」な進行ということではありません。むしろ斬新、ロックに尖っています。
過去のジュリー・ナンバーに限らず、僕が普段から好む洋楽曲のコード感と近い進行があったりして、大いに楽しみながらの採譜作業でした。
新譜の発売情報でタイトルとクレジットが分かった時、収録4曲の中で最も曲想を予想し辛かったのが実はこの曲。「限界臨界」というタイトルからメロディーを頭に浮かべるのが難しかったですね。ラップっぽいビートばかり思いついてしまって。
激しいロックなのかバラードなのか・・・イメージに悩む中、それでもなんとか予想はしてみました。最初は過去のGRACE姉さん作曲作品「まほろばの地球」のようなリフ全開のハード・ロックで、言葉を畳みかけるようにガンガン来る感じかな、と思いましたが、結局は「海に還るべき・だろう」のような後ノリの穏やかなレゲエ・ポップ・チューンと予想しました。
全然違った・・・。
これは、GRACE姉さん作曲の過去のジュリー・ナンバーで言えば、昨年の「三年想いよ」に近いです。
これまで、ドラマーのGRACE姉さんは一体どんなふうに作曲をするのかな、と考えたことが何度もあります。グロッケン以外にも自宅に鍵盤楽器をいくつか持っていて、鍵盤を鳴らしながら組み立てていくのではないか、というのが以前からの僕の勝手な推測。
ただ、「三年想いよ」、そして今年の「限界臨界」を聴くと、一番最初のとっかかりの段階・・・つまり和音構成よりも先の単体のメロディーを頭に浮かべる、という作業がきっとあって、それは電車や車での移動中に窓の外を眺めながら作られているんじゃないかなぁ、と。
「三年想いよ」も「限界臨界」も、「淡々と車窓の景色が流れていく、過ぎてゆく」・・・そんな感じのメロディーだと思いませんか?
車窓を過ぎ去る景色は、「それぞれの人々、それぞれの生活」を感じさせます。GRACE姉さんの最新2曲には、それがあると僕は思う・・・。
GRACE姉さんはそうして生まれたメロディーを自宅に持ち帰って、鍵盤の伴奏に馴染ませるようにして「曲」へと仕上げていったのではないでしょうか。
おそらく右手が3和音、
左手がルート1音の基本形。
「限界臨界」のAメロには2小節ごとのクリシェがあります。作曲段階からCDのキーと同じだったとすれば、右手で「シ・レ#・ファ#」の和音を鳴らしながら、左手を「シ→ラ→ソ#」と移動させ、Aメロを載せていったのでは・・・まぁ、あくまで推測ですけど。
「これ以上・・・」からの進行は、ロックしていますね。
コードは「F
#→E」と移行するので、これはこの曲のキーであるロ長調のドミナン
ト→サブ・ドミナント。本来それはとてもポップな進行のはずなのに、体位する伴奏は「ド#レ#ミ~、ミファ#ソ~、ソラシ~♪」とハードにせり上がり、「G」のコードを引っ張って、「馬鹿にしない」からトニックの「B」へと華麗に着地します。
歌詞が激しくなるこのサビ部・・・その激しさ、狂おしさに反して「視界が開ける」「美しい」と表現したくなるほどの極上のサビですが、じゃあ詞曲が乖離しているのかというと、そんなことはありません。
これはまず、ジュリーのヴォーカルの凄さの証明。
それまで抑えに抑えていたものが一気に解放されるというのでしょうか。GRACE姉さんが、Aメロの出だしと同進行でこれほど印象の異なるメロディーを載せた「聴かせどころ」を、歌手・ジュリーの本能が嗅ぎとっているかのような、柔軟なヴォーカル。ですからなおさら、「馬鹿にしない・・・」という痛烈な歌詞を載せることこそがこの曲にふさわしかったのだ、と思うのですよ。
また、僕がこの曲のジュリーの声で一番痺れるのは、2番のサビの最後で「限界臨界」と歌った後の、間奏への合図となる「うめく」ようなシャウトです。
過去のジュリー・ナンバーで言えば・・・「勇気凛々」間奏直前のヴォーカル→シャウトを思い起こした人はいらっしゃいませんか?そう、「限界臨界」はとても厳しくシビアな内容の歌だけれど、ジュリーの声は実はとても優しくて、これならたとえ厳しい歌詞であっても、弱者の勇気たりえる曲となっているのでは、とも思います。
「優しさ」はGRACE姉さんの作曲にも感じられ、全体を構成する3つのヴァースそれぞれに「反復進行」というメロディー作りの手法を採り入れることで、耳触りが爽やかになっています。
では、演奏についてはどうでしょうか。
今回も、鉄人バンド入魂の演奏トラックをすべて書き出してみましょう。
・エレキギター(左サイド)
・エレキギター(右サイド)
・エレキギター(センター)
・キーボード(ピアノ)
・キーボード(シンセブラス)
・ドラムス
左右それぞれのギター・トラックは、ステージでの立ち位置通りに右が柴山さん、左が下山さんと考えて良いと思います(次曲「泣きべそなブラッド・ムーン」がその点なかなか悩ましかったりするんですけど、それについては次回)。
この曲は基本エイト・ビートの作りの上に、柴山さんのストロークとGRACE姉さんのドラムスが16ビートで載り、全体のあの切り刻むような雰囲気を創り出しています。ストロークはパワー・コード主体で、ガンガンに歪ませた音は柴山さんのイメージ通りです。
対して左サイドのギター・・・下山さんだと思いますが、これは最初、2トラックを別録りで演奏したものを繋げているのかなぁと思ってしまったほど、両極のエフェクト設定が登場します。
まずイントロ、エフェクトは武骨な歪み系です。ところがジュリーの歌が始まる「どれ程の・・・」の1拍目から「じゃら~ん♪」と噛んでくるギターは一転、穏やかな空間系のエフェクトで(コーラス・ディレイかな)、イントロとはまったく設定が異なるのです。
続けて弾いていて、こんなに瞬時に設定を切り替えられるものなのかどうか、僕の知識では分かりません。ただ下山さんは、いわゆる「後掛け」のエフェクト処理はしない人のような気がします。きっと僕の知らない切り替え方があるのでしょう。
「1トラックで一気に弾いている」と考える理由は、サビ(目立たないながらも大暴れの熱演)で歪み系と空間系の両方のエフェクトがかかっているからです。
それでは、センターにミックスされた間奏リード・ギターはどうでしょうか。
最初は「これは下山さんだ」と思いました。フレージングや音階(特に3’27
”の音)に下山さんっぽいロックな「心地よいズレ感」がありますし、音色についてもストラトじゃないかなぁ、と。
ただ、聴いているうちにディレイのサスティンの感じが柴山さんのように
も思えてきて・・・。
でも、もしこれがSGならもっとハウらせる(フィードバックを強調する)ような気がするなぁ。いずれにしても、この曲のアレンジをギタリスト2人の体制でステージ再現するなら、CD左サイドのパートを担当する人が間奏でリード・ギターに切り替えるのが自然ですから、LIVEでは下山さんが弾く、というのが僕の予想です。
泰輝さんのキーボードは2トラック。ピアノとシンセ・ブラスの2つの音色が、いかにも泰輝さんらしい職人的な絡み方でこの曲のポップ性を高めています。
シンセ・ブラスは生楽器に近い音ではなく、敢えて「シンセっぽい」パワー・ブラスの設定(鍵盤をひとつ弾くと複数のホーン・セクション・アンサンブルを思わせるような音が出る)で、おそらく「東京五輪ありがとう」のそれと同じ音だと思います。
きっと泰輝さんはLIVEで、この2トラックを豪快に同時弾きで再現してくれるのでしょうね~。そんな光景が見えるアレンジになっているのです。
「これ以上被災者を」からの尖ったヴァースでは、ピアノを両手弾き。右手がコード、そして硬派なメロディーをサポートする左手の低音(通常より1オクターブ低いところで弾いているようです)が渋く炸裂し、「馬鹿にしない」からのサビでは、それまで右手で弾いていたコード演奏を左手に切り替え、右手がヒラリと上段のキーボードに舞ってシンセ・ブラスに移行する・・・今から泰輝さんの雄姿が目に浮かんでくるようです。
GRACE姉さんのドラムスは、先に少し触れた通りエイト・ビートの楽曲上に16分音符で跳ねるリズムを載せています。こうした演奏を聴くと、「あぁ、ドラマーの作曲作品なんだなぁ」と思えます。
僕が特に素晴らしいと思うのがキックで、要所で「ダブルアクション」という技を使っているんじゃないかな。
シンバルの刻みの切り替えも絶妙。「キンキンキン・・・♪」と高い音で鳴っているのは、ライド・シンバルのカップ近辺を叩いているのでしょうか。この「刻み」を次曲「泣きべそなブラッド・ムーン」では何とタムでやる箇所があるんですよね~。
GRACE姉さん、今年も「歌心全開」の演奏です!
収録全4曲中、演奏トラックが最も少ない「限界臨界」は、CD音源と相当に近いLIVE再現が期待できるでしょう。
だからこそ注目はジュリーのヴォーカルです。
例えば、記憶も新しい昨年の「三年想いよ」のように、生で聴いてこそ曲のメッセージが伝わる・・・そんなヴォーカルが聴けるような気がしています。
僕のような非・被災者には「分かるはずのない」切実なメッセージも、ジュリーの生の歌声を聴けば、ほんの少しだけでも分かってくるかもしれません・・・。
それでは、次回は新譜3曲目「泣きべそなブラッド・ムーン」を採り上げます。
心乱される切ないアレンジ、胸かきむしられるメロディー、そしてあのジュリーの声と歌詞・・・確かに悲しい歌ではあるんだけど、それ以上にジュリーの「優しさ」が感じられる美しい名曲で、新譜を聴き終えたジュリーファンの人気、推す声も特に大きいようですね。
僕も現時点ではこの3曲目が収録曲中最も好きなんですが、実はこの曲にも今回の「限界臨界」と同じような、ジュリーの自責(いや、この曲の場合は「苦悩」なのかなぁ)が吐露されているように感じられてならない歌詞部があって、それがお正月LIVEでのジュリーの笑顔の少なさ、ヒシヒシと伝わってきたジュリーの秘めたる決意とも重なるような気がして・・・複雑な感情が襲ってくることもあります。
あんなに優しい曲なのに、「優しさじゃ違うから」という歌詞も登場しますしね・・・。
とにかく、大名曲であることは間違いないです。
あと・・・細かな採譜作業はこれからですが、たぶん僕の実力では正確な採譜は厳しいかな、と予想される箇所が(汗)。その点については、「それだけ泰輝さんの曲作りが緻密で高度なんだ!」と語りまくってお茶を濁すしか手はなさそうです(汗汗)。
いずれにしましても、執筆、更新までにはまたまた時間がかかってしまうかも・・・。
どうか気長にお待ち頂けますよう。
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