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2015年3月

2015年3月29日 (日)

沢田研二 「限 界 臨 界」

from『こっちの水苦いぞ』、2015

Kottinomizunigaizo

1. こっちの水苦いぞ
2. 限 界 臨 界
3. 泣きべそなブラッド・ムーン
4. 涙まみれFIRE FIGHTER

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去る24日、遅れていたアマゾンさん予約分の『こっちの水苦いぞ』が届きました(発送メールが届くまで、アマゾンさんにも予約していたこと自体をすっかり忘れるほど聴きまくっている、という毎年のパターン)。
これで手元に2枚。うち1枚は例年通り、YOKO君に引き取ってもらう予定です。

僕も含め、みなさまがアマゾンさんに予約していた『こっちの水苦いぞ』がオリコンで売上枚数カウントされる運びとなり、いきなり9位を記録したそうですね。
正直セールス実績なんてもうジュリー自身は全然気にしてないのかな、とは思うけど、こうして少しでも新譜が話題となり、ファン以外の人が曲を耳にする機会が増えて欲しい、と個人的には願っています。

さて。
実は・・・ブログには今まで書くのを控えていたんですけど、僕は2月末から3月頭までのだいたい10日間くらいでしたか、体調の異変に見舞われ辛い日々を送っていました(actにどれほど救われたか・・・)

胃カメラを飲んだ、という話は「生きてる実感」の記事で書きましたけど、その翌々日からのことです。今日は冒頭で、その時のことを少し書かせて頂きます。

胃カメラを飲むきっかけとなった症状自体、検査の数日前から無くなっていて、検査結果も胃、食道、十二指腸とも異常無しということで、「これで肉体的にも精神的にも完全復活じゃ!」と思っていた矢先でした。
突然喉が痛くなってきましてね・・・最初は「あれ、風邪ひいたかな?」と思う程度でした。
それが、翌日には激しい痛みに変わりました。

僕は昔から扁桃腺が弱くて、でも最近はそんなことも無くなってきていたのですが(最後に扁桃腺で苦しんだのが、忘れもしない2010年の『秋の大運動会~涙色の空』渋谷公演、下手側2列目という神席を病欠してしまった時)、こりゃ久々に来たかな、と思いました。
ところがさらに1日経って、「これはおかしい」と。
とにかく痛みが激しい。凄まじい。いや、扁桃腺を腫らした時だって相当痛いことは痛いんですよ。でも全然違う・・・と言うかそれを遥かに上回るほどの痛み。
唾を飲み込んだ瞬間に痛過ぎて立ちくらみがし、ちょっと声を出しただけでも喉に激痛が走ります。

そこで思い出したのが、検査当日の出来事です。
ご存知のかたも多いでしょうが、胃カメラというのは管を飲み込んだらまず胃の一番奥の十二指腸の入り口付近まで一気に降って、そこから徐々に手前に戻ってくる感じで検査が進みます。
その、最後に戻ってくる時。「食道も大丈夫」と言われいよいよ管を抜こうか、というところで先生が「あっ」と声を上げたのでビックリしていると、「出血してる。飲み込む時に傷がついちゃったんだな」と。
当日は「変なものが見つかったわけではなかったんだ」と安心したものでしたが・・・その時のことを思い出してネットで調べてみたら、胃カメラで喉の奥を傷つけて七転八倒した、という体験談がいくつもヒットしました。世間では「よくあること」とまでは言えませんが、どうやら僕はそのパターンに嵌ってしまったようです。
僕は検査の際、先生に「デリケートなんだなぁ」と言われたほど嘔吐反射が強いタイプで、飲み込む瞬間に「ぐえっ!」と身体が大きくのけぞり、看護婦さんに抑えつけられて何とか、という状況でした(2年前もそうでした。飲み込む時より抜く時の方が苦しい、というタイプの人もいらっしゃるようですが、僕は抜く時は全然平気)。おそらくその時にやっちゃったんでしょうね。

再度病院に行き症状を話し、一応扁桃腺なども診てもらったところ、見える範囲で喉には所見無し。
「奥の敏感な部分を切っちゃったかな。”喉の口内炎”のような痛みが出ているならおそらくその時の傷でしょう」ということになり・・・痛み止めやら殺菌やらの薬を何種類か処方されて帰りました。
痛み止めは、飲んでからしばらくの間は症状がいくらか緩和するものの、すぐまた猛烈な痛みが襲ってきます。夜も眠れず、仕事の会話もままならず、という状況が続き、ようやく3月第1週くらいに痛みが治まったのでした・・・(おかげさまで、今は何ともありません)。

何故、いきなりこんなことを書いたのかというと。
痛みや苦しみというのは、経験しないと分からないものなんだなぁ、と改めて今考えているからです。
僕の痛みなどは、たかだか10日で癒えてしまったものだけれど、その何千倍、何万倍もの心の痛み、身体の不調が4年も続きなお先行きが見えない、というのはどれほどのことなのだろうか、と。

2012年『3月8日の雲』以降のジュリー・ナンバーの中には、思わず「うっ!」と耳を押さえてしまうほど強烈に「痛み」が伝わってくる曲がいくつもあります。
例えば「恨まないよ」「Deep Love」、今年の新譜から「涙まみれFIRE FIGHTER」。みなさまもこの3曲については同じように感じていらっしゃるのでは?
これら3曲の歌詞には、斬新な比喩による激しい言葉遣いや、淡々とした過酷な情景描写、苦しみや悲しみを吐露する被災者の独白形式、といういくつかの共通点がありますね。
しかし今僕は、それら3曲にも増して、今回の新譜で最も激しい「痛み」を歌った曲は今日のお題「臨界限界」ではないのだろうか、という考えに至っています。

「えっ、そうかな?」と思われますか?
確かに僕も、「限界臨界」はむしろここ数年のジュリー・ナンバーの中では気持ち的な「重さ」をあまり受けず、「聴きやすい」曲だな、と思っていました。
それは今でもそう聴こえてはいます。

でも・・・この一週間じっくり歌詞を読みながらこの曲についてあれこれと考え、採譜をして自分でも声に出して歌ってみたりしているうちにハッと思い当たり
「一般の被災者の方々が、もし今回のジュリーの新譜を聴いたら・・・」
と考えてみました。
収録曲の中で最もリアルに感じられ、耳を押さえたくなるほどの「痛み」を感じる曲が「限界臨界」という人達は、僕が考える以上に多いのかもしれない・・・。

何故僕はそうではないのか。
それは、自分が被災者ではないから。
僕などには到底実感できないほどの猛烈な「痛み」がこの曲にあるのではないか、ということです。

あの震災、原発事故で今なお苦しんでいる人達しか真に分かり得ない「痛み」。例えでも何でもなく実際に、今まさに「限界臨界」の渦中に身を置く人達。
まずはその人達にとっての「限界臨界」を本気になって考えずして、この曲を軽々しく分析、考察などしてはいけない・・・そう思いました。

そんなことを一週間ずっと考えたものですから・・・すみません、今日は冒頭から「限界臨界」の「痛み」についてどうしても先に書いておきたかったのです。
ここから、いつもの考察記事になります。

でも、いつものように「伝授!」などと書く気持ちにはとてもなれない・・・。先述の通り、僕にはこの曲のことが「分かるはずがない」と思いますからね。それは、こんな詞を書けるジュリーの感性がどれほど深いか、凄いかということでもあるのだけれど。
とにかく僕はこの曲について、それでも何とか自分なりに考察したことを正直に、一所懸命に書くだけです。
今回も長いです。ごめんなさい。


「臨界限界」の歌詞について、僕はおそらく多くのみなさまから「?」と首をかしげられてしまうような考察を一部持っていますが、まずはみなさまとも共通しそうな感想かなぁ、と思う部分から書いていきましょう。
「限界臨界」という楽曲タイトルについてです。

「限界」とは、「もうこれ以上は耐えられない」というギリギリの状況、或いは心情を表しているでしょう。
対して「臨界」。言葉自体の意味を調べますと、これは「過程」を表すようです。ですから、「臨界」とは「まだその先に起こることがある」状況であり、「限界」はその極限・・・「それ以上はもう無い」状況と言えます。
ジュリーファンとしてはそれでも釈然とはせず、さらなる答えを求めて「臨界 原発」と並べて検索しますと、「臨界状態」という言葉がウィキペディアでヒット。


臨界状態とは、原子炉などで原子核分裂の連鎖反応が一定の割合で継続している状態のことをいう

2011年、僕らは「臨界」という言葉を何度も目にしたり聞いたりしました。ジュリーが「臨界」と歌うからには、まず原発の「臨界」の意味を持つことは当然です。

そこでこの曲のタイトル、「限界臨界」。
「限界」が「臨界」している・・・つまり、「もうこれ以上は耐えられない、限界だ!」という極限の苦しみが連鎖反応して延々と継続している、という・・・。
ジュリーは、「過酷」などという表現では生易し過ぎるほどの絶望的な惨状を、このタイトル及び歌詞中で表現していると考えられます。とてつもなく厳しい内容の歌詞である、と言わざるを得ません。

そう考えると、「限界臨界」には、被災地に対する為政者のやりようというものを
「まだそんな仕打ちを続けるつもりなのか!嘲り、馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
とする痛烈な反発であり怒りをして、「反体制ナンバー」という一面が浮き彫りとなります。
その場合、「(被災地を)馬鹿にしている」者は誰かと言うと、「薔薇色政治家達」や「薔薇色経済人達」である、と考えるのが自然でしょう。これは強烈な「ロック」の手法ですよね。確かにその歌詞考察は一局であり本道である、とは僕も思います。

しかし、また別の考察を僕は持ちます。「(被災地を)馬鹿にしている」者とは、実は歌い手(ジュリー)、そして僕ら一人一人であったのだ、とする考え方です。
これはあくまで個人的な考えですので、ジュリーにそんな意志は全然無いかもしれない、とは承知の上で、僕自身への自戒も込めた楽曲解釈としてここで書かせて頂きたいと思います。

話は数ヶ月前、昨年11月にまで遡りまして。
『三年想いよ』ツアー最終日、あの国際フォーラムですね。あの日はみなさまご存知の特殊な出来事がありましたので、僕はかなり変則的なLIVEレポートをブログで書いてしまいました。にも関わらず、多くのみなさまから暖かいコメントを頂きとても嬉しかったことを今でも昨日のことのように覚えています。
その中で、プロの文章家でいらっしゃるカリーナ様から頂いたコメントに、こんな一文がありました。


沢田研二さんは、おそらく正直さと誇り高さゆえの知性で私たちのなかにある優越感や欺瞞を指摘されますよね

もちろんその時は、あの日のステージ上のジュリーの姿を思い浮かべながら「あぁ、仰る通りだなぁ」と感銘を受けたんですけど、それとは別に・・・ジュリーという歌手の、ある大きな一面を簡潔に表現されているお言葉のように思えて、僕は後々までそのお言葉自体を強く心に残していたのでした。

そんな中、今回の新譜・・・特にこの2曲目「限界臨界」についてじっくり考えた時、唐突にそのお言葉がジュリーの歌詞と重なってしまったのです。

「欺瞞」ももちろんですけど、「優越感」という言葉が、いつしか僕の心をざわつかせていました。
もやもやと僕の中にあった恥ずべき部分をジュリーは暴いてくれたのだ、と思いました。

2012年からの新譜の記事を書いている時、夜にババ~ッと下書きしたものを翌朝読み返すと、やたらと修正したくなるのは・・・自分の傲慢がそこに見えているからではないか、と思い当たりました。
そこで今回、「自分が修正したくなる箇所」に気をつけてみると、やはりその通りだったんですよね・・・。
前回記事で僕は「怖いから書き直す」なんて書いたけど、本当に怖いもの、恥ずかしいものは自分自身の中にあったのだ、と気づかされました。

想像を絶する痛み、苦しみはそれを受けた当人でなければ分かりっこない。
冒頭にも書きましたが、それでもなんとかその立場になって考えてみよう、「限界臨界」とはどんな気持ちなのか必死に想像してみようとすること・・・それをしなければこの曲の本質は見えてこないと思いますし、ジュリーがつけたタイトルも伝わってこないような気がします。
いくら僕がジュリーの「愛と平和下さい」を頼もしく嬉しく思い、心から共感できたとしても、それだけではまったく意味が無い、ということです。

いえ、みなさまがどうなのかは分かりません。
ただ僕自身の3・11以降の有りようを振り返りますと・・・被災地のことを語ろうとする時、動けない弱い人達を思う時、悲しみに耐える人達に言葉をかけようとする時・・・「自分は被災者ではない」という、ある意味においての傲慢な「優越感」が、無意識にでもありはしなかっただろうか、と。
その優越感が、受け取る側にとって「馬鹿にされたような」表現となり、それと気づかぬまま誰かの心を踏みにじり、心折れさせてはいなかっただろうか・・・。

そして、もしかするとジュリーもそんなふうに考えることがあったのではないだろうか、とも。

どれ程の美辞麗句で どれ程の嘘をかさね
B                             B(onA)

心を踏みにじったか
B(onG#)            A

どれ程の慇懃さで どれ程の演技力で
B                         B(onA)

心を折れさせたのか
B(onG#)             A

ただし!
この曲でジュリーにもし僕の考えるような「自戒」があったとしても、それは「自虐」ではありません。被災地を思うことから繋がった、平和国家・日本に誇りを持つ一国民としての謙虚な決意だと感じます。
ジュリーはそれを、今この国を動かしている為政者達にも伝えようとしているのでは?
作詞作業が昨年末から今年の2月くらいまでの期間だったとすれば、具体的に「痛切な反省」というキーワードが浮かび上がりそうです。そうすると、「亜細亜を見下してきた」という難解な歌詞部に込められたジュリーの思いも読み解けるようではありませんか。

薔薇色政治家達が 薔薇色経済人達と
B                          B(onA)

世界をひらに乗せ
B(onG#)          A

これほど「薔薇」という文字を恐ろしく感じた歌詞はありません。普通なら、美しさや妖艶さをイメージさせる、華麗な言葉であるはずですからね。
こんな痛烈な意味を持たせる変換ができるものなのだ、と・・・これは歌詞カードを見て初めて分かること。

ジュリーはワープロを使って作詞するのだそうですね。低レベルながら僕にも経験がありますが、それまでノートに手書きで作詞していたのがワープロに変わった時、作風もガラッと変わってくるのです。「漢字変換」に意識が向くようになって、「言葉遊び」的な手法を採り入れることが増えてきます。
その点ジュリーは(これも長い年月をかけて)、「言葉遊び」なんていう次元を超えた漢字変換による言葉の意味の深化、或いは表現について独自の手法を切り開きました。『PRAY FOR EAST JAPAN』のテーマを得た2012年からの自作詞曲がそれを裏づけています。

職業作詞家とはまったく異なる、日本ロック界唯一無二の詩人となったジュリー。
前回記事で僕はこの新譜の歌詞について、「こんなことはジュリーにしかできない」と書いたところ、「いや、ジュリーだけでなく、この人のこういう曲もあります」と、先輩にいくつか教えて頂きました。
それは僕の不勉強のいたすところではありましたが、でもジュリーの場合は4年・・・もうこれで16曲ですよ。血の滲むような思いで取り組んだこのテーマの詞がもう16篇を数えます。この愚直なまでの継続にこそ、詩人・ジュリーの本質が秘められています。
そしてそれはこの先も、恐るべき精神力で貫かれ、20篇、30篇へとなってゆくでしょう。
ジュリーは歌の天才ですが、作詞については努力型、継続型だと思います。
必死の努力が継続するとこんな途方も無い境地に辿り着くことがある・・・「人間力」とも言うべき個性が開花することがあるのだ、と感動させられます。この4年のジュリーの詞を何度も読み返し読み続けてきて・・・コツコツと積み重ねていくことの尊さを教えてくれるジュリーを僕はますます尊敬し、好きになっていくのです。

さて、「限界臨界」の歌詞については、「痛み」と同時にやはり「平和」についても考えねばなりません。

何故僕が、この曲での「愛と平和下さい」というジュリーの言葉にこれほど感動させられたのか。
「愛と平和」なんて、よく聞く言葉であり、歌詞ですよね。巷には「腐るほど」溢れています。安売りされていますよ。それだからこそ、本気で考えて「愛と平和」を口にした人の言葉というのは違うのです。皆同じようなことを言うから、余計に違うのですよ。
ジュリーの「愛と平和」は本物です。それがとても嬉しく、頼もしいのです。

今のネット時代でよくあることとして・・・様々な社会問題について僕らが「知る」時、事実の報道以外に、専門家や識者の論評が独立した記事として検索されやすい環境がある、という面が挙げられます。
いわば執筆者個人の考えがあたかも「報道」であるような錯覚を覚えてしまう・・・プロバイダのトップ画面の最新ニュース一覧などにそのようなことが多いです。それ自体はまぁ良いとして、それらの論評の中に、執筆者と反対の意見を持つ不特定多数を「嘲笑する」ような文体のものが最近は非常に多くなってきています。
例えば、改憲論を持つ執筆者が「護憲を主張する人は無知である、馬鹿者である」とあざけっている、或いは威圧するような口調の記述です。もちろんその逆のパターンとして、護憲論者が改憲論者を同じような口調で貶める、という場合もあります。

こうした論評は、”「知らない」こともこれから「知っていこう」”と意欲を持つ人達が、執筆者とは逆の考え方を先に学んでいた場合に、まず頭から「お前はこんなことも知らないのか」と嘲笑、恫喝し萎縮させ手を退かせる、黙らせる、というやり方。
それが極まると、建設的な意見の記述などは一切省き、ただただ相手をなじる、あざけることに終始した単なる「中傷」へと転落していきます。

考え方の違う者同士でこんなことを双方やっていると、それを見ていて「関わり合うのは怖いな」、と「考える」 ことをやめてしまう人達が多くなってしまうのではないだろうか、と不安になります。そうなれば双方、不利益しか無いでしょう。
何故もっと丁寧、真摯な書き方、言い方ができないのか。「知ろう」とする人たちの意欲を削ぐのか。

メディアばかりの話ではありません。
ジュリーが「この道しかない、なんて思考停止ですよ」と語ったのは、「この国は思考を停止している」と言ったのではなく、「この国は、思考停止を国民に押しつけている」と言いたかったのではないか、と僕は思っています。加えて、国民を「嘲る」かのような発言の多さにも危機感を抱いているでしょう。

国のトップ中のトップである安倍さんは、これまで安全保障や原発の問題について「国民に丁寧に説明していく」と繰り返し発言してきま した。
ならば、昨年8月9日長崎での被曝者団体の方々との懇談の場などは、その絶好の機会であったはずです。しかしその時団体側からの「我々は集団的自衛権の行使容認に納得していません」という訴えに対して安倍さんは、「見解の相違ですね」と、斬って捨てるような言葉を返しました。これは「話にならん」と言っているに等しい言葉です。このことは比較的まんべんなく全国のニュースでも採り上げられたようですから、ご存知のかたも多いでしょう。
もし「丁寧に説明していく」気持ちがあるならば
「みなさんの体験を考えれば、納得できない、と仰るのも分かります。しかし私は今わが国を取り巻く状況を考え、みなさんの生活を守るために決断しました」
と、反対意見との対話を模索する言葉を首相自ら発するべきだったのではないでしょうか。

僕は政治的な考え方について意見交換できる友人に恵まれています。そう、それは互いを理解する機会に「恵まれている」と考えるべきなのです(僕は、男友達に限っては、自分とは真逆の考え方を持つ友人の方がどちらかと言えば多いのです)。
でも安倍さんは違うようです。長崎での発言のみならず、最近は一事が万事そんな調子。それが鵠志のつもりであれば大きな間違いで、「馬鹿にしている」態度と見る人の方が多いでしょう。
基本的な考え方は以前から変わっていないにせよ、昔はもっと人の話を聞き、丁寧に説明してくれる人、というイメージを持ってはいたんだけどなぁ・・・。

ジュリーはそんな「拒絶」的なやり方のアンチテーゼとして、「知らないことを知ってみよう」「自分のこととして考えてみよう」という「共有」のメッセージを持って、「平和」のテーマに切り込んでいるように思えます。

僕が思うのは、自分と話している相手が「この話題についてこの人はあまり詳しくは知らないな」「あまり興味を持っていないな」と感じたら、より丁寧に、正直に話す・・・そういうことをしなきゃなぁ、と。ジュリーの歌からそんなふうに感じ、考えるきっかけとなりました。
「何故このことを知らないんだ?」という、人から見れば”上から目線”のような書き方、話し方は今後完全に捨て去らなければならない、と強く思っています。
第一、僕自身が「知らないこと」というのは山積みであって、これから勉強してゆくことは当然。


これ以上被災者を 動けない弱い者を
F#                   E                         G

悲しみに耐える者を
                         G

馬鹿にしない   本音汲んで下さい
       B      B(onA)   B       B(onA)

限界 臨界    心 誠下さい  限界 臨界
   B       B(onA)   B   B(onA)  Em            B

「馬鹿にしない」は、新譜のすべての歌詞の中で特に重要なジュリーの言葉だと僕には思えています。
「本音を話そう、誠を受けよう」・・・本当に難しいことですが、やらなきゃいけないことなんだよなぁ・・・。


ジュリーの歌声が、僕にはこう聴こえています。
「馬鹿にしない」の決意に立ったジュリーが、まず実際に今「限界臨界」の只中にある人々に対して
「僕らはみなさんを苦しめてきた。痛切な反省をもってこれからも本音を語ってゆく。どうかその本音を汲んで、みなさんの心の誠を下さい」
国に対しては、これ以上僕らを「馬鹿にした」やり方への我慢の限界をもって
「僕らと同じ気持ちに立って欲しい。これから先の希望が持てる、愛と平和の国にして下さい」
と、本音で歌っている・・・これが個人的な「限界臨界」サビ歌詞部の解釈です。

それともうひとつ・・・ジュリーが「馬鹿にしない」と本音を投げかけている人達 (と、僕は思っている)の中に「未熟でも若い者」という言葉が登場しますよね。
僕はその人に心当たりがあります。
ジュリーが選挙応援までした人ですが、僕にとっては最初とても印象が悪かった人で、ジュリーファンとしては、その「喧嘩上等」のような言動(と僕には見えていた)に、「せっかくジュリーが応援してくれたのに」と拒否反応すらあったわけですが・・・。
これは前作『三年想いよ』収録の「一握り人の罪」の考察記事でも書いたことなんですけど、昨年4月に行われた鹿児島2区の補欠選挙の際、「川内原発の問題を選挙の争点にしなければおかしい」と、孤軍奮闘してくれたのが彼でした。
良くも悪くも知名度のある彼が絡んだことで、田舎の選挙が大きく全国報道されることもありました。
正直、僕はあの時とても嬉しかったです。
だからこそその後も、「自分のことを野良犬だなんて言っちゃダメだ」とか、「政党名はもう少しなんとかならなかったのか」とか、「そんなことじゃ、応援したジュリーの株が下がってしまうよ」とか・・・やっぱり今でも「何でかなぁ」と気がかりの多い人です。
ただ・・・それは僕が彼を「馬鹿にしている」ことになりはしないだろうか、と。

鹿児島のこともあったし、僕などが彼を馬鹿になどして良いはずがありません。
ジュリーも彼には「未熟」の評価を持ちつつも、その本音たる部分を穏やかに汲み取っているのかもしれないなぁ、と思ったのです。だいたい、「未熟」と言うなら僕自身こそが正にそうじゃないか。

そもそもジュリーは、「自分の株が下がる」とかいう見栄みたいなものとはまったくかけ離れた境地で、正直な気持ちを歌い伝えようとしているわけで・・・。
つくづく、ジュリーの潔さよ!
レベルの低い夕刊紙、週刊誌にどんな根も葉も無いことを書かれようが、ジュリーはまったく意に介してはいないでしょう。立ち向かおうとしているのは、もっと強大なものであるはずです。
それにしても・・・いつもお世話になっている先輩が笑っていたけど、今年のお正月LIVEが終わってからの、『日刊ゲンダイ』の例の記事をはじめとするあのくだらないメディアの書きよう、言いように対して、著名人も含めた多くのジュリーファンが、何故か「所詮夕刊紙の書くことだから」とスルーすることがまったくできず、本気になって怒り、真面目に理を説き反論したというのは・・・ある意味素晴らしかったと言うか何と言うか。
かく言う僕も、10代の頃から『東京スポーツ』のプロレス欄を愛読し、根拠の無い創作記事をむしろ楽しみにしていたクチで、夕刊紙の何たるかを重々承知していたはずの人間。それなのに、あの『日刊ゲンダイ』のいい加減な記事に本気で噛みつき、「こうこうこうだからこうである。あなたは間違っている」みたいなことをLIVEレポートの場を借りて真面目に反論しているという・・・。
ジュリーがあの時期の多くのジュリーファンの「本気で怒っている」様子をもし知ることがあったら、きっとこう言うでしょうね。「別のところに、そのパワー使え」と。


・・・と、ここまで歌詞について本当に個人的な、ひとりよがりな解釈ばかりとなりましたが、僕が今どんなふうに「限界臨界」という曲を聴いているか、ということで、誤解を怖れず色々と書かせて頂きました。
ここからは、楽曲構成、演奏、アレンジの考察へと進んでまいります。こちらは相対的にして普遍的なな楽曲評価を目指します。「限界臨界」がいかに名曲であるかを、フェアに語っていきますよ!

15032401

この曲の採譜はスムーズに終わりました。曲を流しながらコードを振ってみた後、楽器を合わせて細部修正したのは、サビ最後の「Em」の箇所だけ。
だからと言って「ありがち」な進行ということではありません。むしろ斬新、ロックに尖っています。
過去のジュリー・ナンバーに限らず、僕が普段から好む洋楽曲のコード感と近い進行があったりして、大いに楽しみながらの採譜作業でした。

新譜の発売情報でタイトルとクレジットが分かった時、収録4曲の中で最も曲想を予想し辛かったのが実はこの曲。「限界臨界」というタイトルからメロディーを頭に浮かべるのが難しかったですね。ラップっぽいビートばかり思いついてしまって。
激しいロックなのかバラードなのか・・・イメージに悩む中、それでもなんとか予想はしてみました。最初は過去のGRACE姉さん作曲作品「まほろばの地球」のようなリフ全開のハード・ロックで、言葉を畳みかけるようにガンガン来る感じかな、と思いましたが、結局は「海に還るべき・だろう」のような後ノリの穏やかなレゲエ・ポップ・チューンと予想しました。

全然違った・・・。
これは、GRACE姉さん作曲の過去のジュリー・ナンバーで言えば、昨年の「三年想いよ」に近いです。
これまで、ドラマーのGRACE姉さんは一体どんなふうに作曲をするのかな、と考えたことが何度もあります。グロッケン以外にも自宅に鍵盤楽器をいくつか持っていて、鍵盤を鳴らしながら組み立てていくのではないか、というのが以前からの僕の勝手な推測。
ただ、「三年想いよ」、そして今年の「限界臨界」を聴くと、一番最初のとっかかりの段階・・・つまり和音構成よりも先の単体のメロディーを頭に浮かべる、という作業がきっとあって、それは電車や車での移動中に窓の外を眺めながら作られているんじゃないかなぁ、と。
「三年想いよ」も「限界臨界」も、「淡々と車窓の景色が流れていく、過ぎてゆく」・・・そんな感じのメロディーだと思いませんか?
車窓を過ぎ去る景色は、「それぞれの人々、それぞれの生活」を感じさせます。GRACE姉さんの最新2曲には、それがあると僕は思う・・・。

GRACE姉さんはそうして生まれたメロディーを自宅に持ち帰って、鍵盤の伴奏に馴染ませるようにして「曲」へと仕上げていったのではないでしょうか。
おそらく右手が3和音、 左手がルート1音の基本形。
「限界臨界」のAメロには2小節ごとのクリシェがあります。作曲段階からCDのキーと同じだったとすれば、右手で「シ・レ#・ファ#」の和音を鳴らしながら、左手を「シ→ラ→ソ#」と移動させ、Aメロを載せていったのでは・・・まぁ、あくまで推測ですけど。

「これ以上・・・」からの進行は、ロックしていますね。
コードは「F #→E」と移行するので、これはこの曲のキーであるロ長調のドミナン ト→サブ・ドミナント。本来それはとてもポップな進行のはずなのに、体位する伴奏は「ド#レ#ミ~、ミファ#ソ~、ソラシ~♪」とハードにせり上がり、「G」のコードを引っ張って、「馬鹿にしない」からトニックの「B」へと華麗に着地します。
歌詞が激しくなるこのサビ部・・・その激しさ、狂おしさに反して「視界が開ける」「美しい」と表現したくなるほどの極上のサビですが、じゃあ詞曲が乖離しているのかというと、そんなことはありません。
これはまず、ジュリーのヴォーカルの凄さの証明。
それまで抑えに抑えていたものが一気に解放されるというのでしょうか。GRACE姉さんが、Aメロの出だしと同進行でこれほど印象の異なるメロディーを載せた「聴かせどころ」を、歌手・ジュリーの本能が嗅ぎとっているかのような、柔軟なヴォーカル。ですからなおさら、「馬鹿にしない・・・」という痛烈な歌詞を載せることこそがこの曲にふさわしかったのだ、と思うのですよ。

また、僕がこの曲のジュリーの声で一番痺れるのは、2番のサビの最後で「限界臨界」と歌った後の、間奏への合図となる「うめく」ようなシャウトです。
過去のジュリー・ナンバーで言えば・・・「勇気凛々」間奏直前のヴォーカル→シャウトを思い起こした人はいらっしゃいませんか?そう、「限界臨界」はとても厳しくシビアな内容の歌だけれど、ジュリーの声は実はとても優しくて、これならたとえ厳しい歌詞であっても、弱者の勇気たりえる曲となっているのでは、とも思います。
「優しさ」はGRACE姉さんの作曲にも感じられ、全体を構成する3つのヴァースそれぞれに「反復進行」というメロディー作りの手法を採り入れることで、耳触りが爽やかになっています。

では、演奏についてはどうでしょうか。
今回も、鉄人バンド入魂の演奏トラックをすべて書き出してみましょう。

・エレキギター(左サイド)
・エレキギター(右サイド)
・エレキギター(センター)
・キーボード(ピアノ)
・キーボード(シンセブラス)
・ドラムス

左右それぞれのギター・トラックは、ステージでの立ち位置通りに右が柴山さん、左が下山さんと考えて良いと思います(次曲「泣きべそなブラッド・ムーン」がその点なかなか悩ましかったりするんですけど、それについては次回)。
この曲は基本エイト・ビートの作りの上に、柴山さんのストロークとGRACE姉さんのドラムスが16ビートで載り、全体のあの切り刻むような雰囲気を創り出しています。ストロークはパワー・コード主体で、ガンガンに歪ませた音は柴山さんのイメージ通りです。

対して左サイドのギター・・・下山さんだと思いますが、これは最初、2トラックを別録りで演奏したものを繋げているのかなぁと思ってしまったほど、両極のエフェクト設定が登場します。
まずイントロ、エフェクトは武骨な歪み系です。ところがジュリーの歌が始まる「どれ程の・・・」の1拍目から「じゃら~ん♪」と噛んでくるギターは一転、穏やかな空間系のエフェクトで(コーラス・ディレイかな)、イントロとはまったく設定が異なるのです。
続けて弾いていて、こんなに瞬時に設定を切り替えられるものなのかどうか、僕の知識では分かりません。ただ下山さんは、いわゆる「後掛け」のエフェクト処理はしない人のような気がします。きっと僕の知らない切り替え方があるのでしょう。
「1トラックで一気に弾いている」と考える理由は、サビ(目立たないながらも大暴れの熱演)で歪み系と空間系の両方のエフェクトがかかっているからです。

それでは、センターにミックスされた間奏リード・ギターはどうでしょうか。
最初は「これは下山さんだ」と思いました。フレージングや音階(特に3’27 ”の音)に下山さんっぽいロックな「心地よいズレ感」がありますし、音色についてもストラトじゃないかなぁ、と。
ただ、聴いているうちにディレイのサスティンの感じが柴山さんのように も思えてきて・・・。
でも、もしこれがSGならもっとハウらせる(フィードバックを強調する)ような気がするなぁ。いずれにしても、この曲のアレンジをギタリスト2人の体制でステージ再現するなら、CD左サイドのパートを担当する人が間奏でリード・ギターに切り替えるのが自然ですから、LIVEでは下山さんが弾く、というのが僕の予想です。

泰輝さんのキーボードは2トラック。ピアノとシンセ・ブラスの2つの音色が、いかにも泰輝さんらしい職人的な絡み方でこの曲のポップ性を高めています。
シンセ・ブラスは生楽器に近い音ではなく、敢えて「シンセっぽい」パワー・ブラスの設定(鍵盤をひとつ弾くと複数のホーン・セクション・アンサンブルを思わせるような音が出る)で、おそらく「東京五輪ありがとう」のそれと同じ音だと思います。
きっと泰輝さんはLIVEで、この2トラックを豪快に同時弾きで再現してくれるのでしょうね~。そんな光景が見えるアレンジになっているのです。
「これ以上被災者を」からの尖ったヴァースでは、ピアノを両手弾き。右手がコード、そして硬派なメロディーをサポートする左手の低音(通常より1オクターブ低いところで弾いているようです)が渋く炸裂し、「馬鹿にしない」からのサビでは、それまで右手で弾いていたコード演奏を左手に切り替え、右手がヒラリと上段のキーボードに舞ってシンセ・ブラスに移行する・・・今から泰輝さんの雄姿が目に浮かんでくるようです。

GRACE姉さんのドラムスは、先に少し触れた通りエイト・ビートの楽曲上に16分音符で跳ねるリズムを載せています。こうした演奏を聴くと、「あぁ、ドラマーの作曲作品なんだなぁ」と思えます。
僕が特に素晴らしいと思うのがキックで、要所で「ダブルアクション」という技を使っているんじゃないかな。
シンバルの刻みの切り替えも絶妙。「キンキンキン・・・♪」と高い音で鳴っているのは、ライド・シンバルのカップ近辺を叩いているのでしょうか。この「刻み」を次曲「泣きべそなブラッド・ムーン」では何とタムでやる箇所があるんですよね~。
GRACE姉さん、今年も「歌心全開」の演奏です!

収録全4曲中、演奏トラックが最も少ない「限界臨界」は、CD音源と相当に近いLIVE再現が期待できるでしょう。 だからこそ注目はジュリーのヴォーカルです。
例えば、記憶も新しい昨年の「三年想いよ」のように、生で聴いてこそ曲のメッセージが伝わる・・・そんなヴォーカルが聴けるような気がしています。
僕のような非・被災者には「分かるはずのない」切実なメッセージも、ジュリーの生の歌声を聴けば、ほんの少しだけでも分かってくるかもしれません・・・。


それでは、次回は新譜3曲目「泣きべそなブラッド・ムーン」を採り上げます。
心乱される切ないアレンジ、胸かきむしられるメロディー、そしてあのジュリーの声と歌詞・・・確かに悲しい歌ではあるんだけど、それ以上にジュリーの「優しさ」が感じられる美しい名曲で、新譜を聴き終えたジュリーファンの人気、推す声も特に大きいようですね。
僕も現時点ではこの3曲目が収録曲中最も好きなんですが、実はこの曲にも今回の「限界臨界」と同じような、ジュリーの自責(いや、この曲の場合は「苦悩」なのかなぁ)が吐露されているように感じられてならない歌詞部があって、それがお正月LIVEでのジュリーの笑顔の少なさ、ヒシヒシと伝わってきたジュリーの秘めたる決意とも重なるような気がして・・・複雑な感情が襲ってくることもあります。
あんなに優しい曲なのに、「優しさじゃ違うから」という歌詞も登場しますしね・・・。
とにかく、大名曲であることは間違いないです。

あと・・・細かな採譜作業はこれからですが、たぶん僕の実力では正確な採譜は厳しいかな、と予想される箇所が(汗)。その点については、「それだけ泰輝さんの曲作りが緻密で高度なんだ!」と語りまくってお茶を濁すしか手はなさそうです(汗汗)。

いずれにしましても、執筆、更新までにはまたまた時間がかかってしまうかも・・・。
どうか気長にお待ち頂けますよう。

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2015年3月21日 (土)

沢田研二 「こっちの水苦いぞ」

from『こっちの水苦いぞ』、2015

Kottinomizunigaizo

1. こっちの水苦いぞ
2. 限 界 臨 界
3. 泣きべそなブラッド・ムーン
4. 涙まみれFIRE FIGHTER

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2015年3月11日発売、ジュリーのニュー・マキシシングル、『こっちの水苦いぞ』。
みなさま、もうお聴きでしょうか?

何の計算もせずに、飾らずに、怖れずに、本音でぶつかってきましたね・・・ジュリー。
不言実行、覚悟のメッセージ。
反原発とLOVE & PEACE、そして鎮魂と・・・懺悔?
それが具体的に何かは分からないけれど、ジュリーは被災地への思いを激しい自責の感情すら加えて投げかけているように思われてなりません。

ここまで「商売」とかけ離れてリリースされた音楽作品を、僕は初めて聴きました。
近年はメディアでの宣伝も無く、プロモートが組まれることなども無く、それでも毎年新譜をリリースし続けてきたジュリー。そんな中でも今年は特に、「激しさ」と共に「純粋さ」「清潔さ」が伝わってきます。
これは「売る」ために歌われた歌じゃない。
今までそんなふうに感じられた音楽はジュリー以外にもいくつか聴いたことはあったけど、ここまで頭抜けて、強くそう感じた作品はありませんでした。

歌手とは、まず「歌いたい」から歌を歌うものなのでしょう。しかしそこに販売戦略のためのスタッフが絡み、プロモートが組まれ、スポンサーの利権が絡むとどうしてもそれだけでは済まなくなる・・・いや、それは決して非難されることではなくて、当たり前のことです。
ただ、そうやってリリースされた音楽作品は、制作から発売までの過程がテンポと効率重視の分担作業になり、歌手の基本的な「歌いたい」という情熱が最終的に薄まってしまうように感じられます。

ところが。
『こっちの水苦いぞ』を聴いて思うのは、今のジュリーには「歌いたい」「伝えたい」しか無いな、と。
「伝えたいから作った、歌いたいから歌った、そして大切な日に発売した」という純粋さ、清潔さですね。
そんな商売っ気度外視の動機が音楽作品として成立してしまうことがまず奇跡です。歌っている内容が内容だけに、誰にでもできることじゃない、本当に。
何故ジュリーがわざわざ原発、戦争など政治色の濃い社会派のテーマを歌わなければならないのか・・・という心配のような感情も、ファンの間で今少なからずあるらしいのだけれど。
何故、と考えれば・・・「ジュリーにしかできないから」と結論づけるしかないと思うんだよなぁ。

実際、今のジュリーの考え方に近い志を持つ歌手、ミュージシャンは僕らが知るより多く世にいるんじゃないか、と思います。そうでなければおかしい、とも。
ただ、輝かしい実績のある歌手は、そのキャリア故に「やりたくとも自由にできない」、若い歌手は「やっても届けられない」という状況にあるのかもしれません。

ところがジュリーは、それが自然にできてしまう。世間に届かせてしまう。
あれほどのキャリアを持ちつつも、今はプロモート戦略にとり込まれることもありません。そりゃあ普通に考えれば、プロモートやスポンサーがついてのCDリリースならば、こんな内容の作品制作、発売はおそらく無理です。関わった人達すべてに志があったとしても、それだけでは通らないことがあるでしょう。
ジュリーの場合、長い時間をかけて築いてきた特異なスタンスが、今それを可能にしています。
「今まで長くやってきたのは、これを歌うためだったんだ」・・・ジュリーはそう思っているかもしれない、というのは、僕の勝手な思慮浅い考えでしょうか?

いつもお世話になっているJ先輩が、大阪弁護士会の対談でのジュリーの
「自分はたいしたものだと思う。 だからこそ(そんな自分を)キチンと使っていかなきゃいけない」
といった内容の言葉に、深く感銘を受けていらっしゃいました。「自分はたいしたもの」と言った直後にそんな言葉、普通の人は出てこないよ、と。
確かにその通りです。
「だからまぁ残りの人生は自由にやりますよ」
とか
「今まで何とかこんな感じでやってこれたから、これからもこのままいきますよ」
と語るくらいが普通。
ところがジュリーは、「自分をしっかり使う」と言ってのける・・・。この俯瞰力にしてこの自然体。
何という歌手でしょうか。
しかも、今この状況のジュリーに鉄人バンドのようなメンバーがついているという、さらなる奇跡。「メッセージ性の強い音楽をやるために同志を集めて・・・」などとまどろっこしいお膳立ての必要もなく、ただ自分が歌いたいことを、純粋にロックバンドでそのまま歌える環境が今のジュリーに当然のようにある、というのはね・・・。

さらに言うとジュリーは今年から、「伝える」と同時に「立ち向かう」気構えをもって新たな歌人生へと一歩踏み込んだように思えます。
先輩方がこれまで何度かタイムリーで体感されてきた「ジュリー十数年に1度の大きな変化」を、僕も先の正月LIVE『昭和90年のVOICE』で予感はしていて、とうとう自分も「その時」にタイムリーに立ち合えるかもしれない、と武者震いしたものでした。
新譜を聴いて、それは確信となりました。
「PRAY FOR EAST JAPAN」のテーマは不変でも、『こっちの水苦いぞ』は最近3作とは違うと僕は感じています。大げさに言えばこれは、新たなジュリーの、新たなファースト・アルバム。
もちろんそれは、2011年3月11日からジュリーが継続している「思い」があって成し得ているわけで、『3月8日の雲』からすべて線で繋がってはいるのですが・・・。

新譜でのジュリーの歌詞は、発売前の僕の安易な予想など丸ごと吹き飛ばしてしまうようなものでした。
やっぱり凄い。
さすがはジュリー、こうでなければ!

今日は、この記事の中で政治的な私見も書きます。
せっかくジュリーがこんな新曲を、こんな歌詞を、「今だからこそ」ぶつけてきてくれたのだから、考える余裕のある人は考えるべきなんじゃないかと思うのです。
『昭和90年のVOICE∞』オーラスの東京国際フォーラムでジュリーが語った通り、「それぞれが、自分のこととして考える時」が、今来ています。考える内容は人によって様々でしょうが、僕は僕の考えたことを書くしかありませんからね。

僕のようなファンは「沢田研二に洗脳された」なんて世間に言われることすらあり得るけれど、それは違います。だって僕は元々、これから書こうとしているような物事の考え方をずっと以前、ジュリーファンとなる前から確かに持っていて、じゃあ以前は今と何が違っていたかと言うと、「声にできなかった」・・・つまり、怖がっていたということです。
「もうそんな(怖がって黙っている)場合じゃない」と気持ちを強くしたきっかけは、2014年のお正月LIVEでジュリーが「大変な年ですよ」と話してくれた時ですね。
洗脳なんてされてないけど、パワーは貰っています。だから昨年、長い間記事にするのを躊躇っていた「我が窮状」をお題に採り上げることができましたし、今回の新譜についても同じスタンスです。
ただ、そのぶんいつも以上の大長文になります。その点は、ごめんなさいね・・・。

あれから4年。
今年は、国が定めた「集中復興期間」の期限でもある2015年です。政府トップは今も「国が前面に立っての復興」を威勢よく掲げているけれど、来年度以降の復興予算は、財源も規模もまったくの未定。
それが、「4年目」の実態。「襲い来る風化」の現実。

「4年目とは、励ます側があきらめてはいけない時期だ」と仰ったタイガースファンの先輩がいます。その4年目のタイミングで、ジュリーは「祈り」と共に「怒り」「悔しさ」を前面に立てた新譜をリリースしました。
何に怒っているのか、何を悔しいと思っているのか・・・それを「考えない」ではもう済まないんだよ、と。

あとはやっぱり・・・国の舵取りに強い違和感を覚えながらも、「自分一人が何を言っても無駄。もうダメかも・・・」と今にも投げてしまいそうな僕のような性根の弱い者にとって、『こっちの水苦いぞ』はシンプルに気骨を注入してくれる音楽だったということです。
僕にとって『こっちの水苦いぞ』は、とてつもなく心強いロック作品でした。
実は僕は少し前から、ジュリーを「ロック」とカテゴライズすることに「待った」がかかる瞬間を自覚することが多くなっている(ジュリーはジャンルでは括れない、という考えが大きくなってきている)のですが、それでもこの新譜を前にしては
「これこそがロックだ!今、日本にこれ以上のロックがあるなら聴かせてみろ!」
と叫ばずにはいられません。

このジュリーの2015年の新譜を、東日本大震災から4年目のこの新譜を、日本の平和国家としての歩みが危うくなっている今リリースされたこの新譜を、多くの一般の人達に聴いて貰いたいと考えます。
みなさまも、自信を持って色々な人にお薦めしてみてはいかがでしょうか?もちろん、すべての人に笑顔で受け入れられるような作品ではありませんが、「聴いて欲しい」と思いませんか?
聴かせたい人が「沢田研二」の名前をまったく知らなくたって良いのです。申しぶんのない実力を持った歌手とロックバンドが、今の時代にリリースすべき音楽を普通に発表したのだ、と。普通のことなのに、他にこういう音楽は今は無いのだから、と。

「怒り」「悔しさ」を持て余し震えながら、「先行きに迷っている」人達というのは被災地はもちろん、日本全国に今たくさんいらっしゃると思います。そんな人達に、ジュリーのこの新曲を聴いて貰う・・・被災地のことを思い、平和を願って僕らジュリーファンに何が出来るかと言ったら、もうそれしかない。ジュリーにすれば、「そら、ファン目線の勝手な考え方やろ」と思うだろうけど・・・。
それに、僕はこうしてくどくどと文章で書いてしまっていますが、このCDを人に勧める時に、褒め言葉を並べたり、こちらの感想など語るのは本来余計なこと。
聴いた人が何を感じるか、ですよね。

究極の「ミニ」であるこのブログでは、そこを敢えて大絶賛の語りまくりにて大変恐縮ながら・・・『こっちの水苦いぞ』全曲考察、今日はその1曲目。
「国益」の言葉のもとに経済的私益を窺う輩に堂々と物申した、ジュリー渾身のCDタイトルチューンです。
考察の甘い点や独りよがりな解釈、勉強不足の記述など多々あると思いますが・・・全力伝授です!


僕は今回、この新譜の購入が発売日から3日遅れてしまいました。
今年もアマゾンさんに予約していましたが、発売日には届かず。これはまぁ想定していたことで、発売日の3月11日に店まで買いに行き、遅れて届けられるアマゾンさんからの1枚はYOKO君に引き取って貰うつもりでした(これも近年恒例のパターン)。
ところが11日、12日と、仕事のスケジュールもあって大きなCD店に足を運ぶことができなくなってしまいました。僕が実際にCDを手にしたのは、翌13日。

購入できずにいたその間、いち早く購入し聴いた先輩方の感想が次々に飛び込んできました。
「曲は好きだな~」
そんな声が多かったです。

「曲は好き」?
それはつまり、「歌詞は好きじゃない」ってこと?

そんなふうに悪く考えてしまって・・・実際にこの耳で聴くまではちょっと怖かったなぁ。
いざ聴くと、そんな不安は消し飛びましたね。
「た、確かにその通り!まず曲が凄くイイ!」

この2ケ月ほど僕はどっぷりACTの音源に嵌っていて、つい最近「寝ても覚めても」なんて書きましたが、『こっちの水苦いぞ』を聴き始めて、改めて「寝ても覚めても」ってこういうことなんだな、と思ったり。
とにかく、他の音楽を一切聴かなくなるのです。
この全4曲ですべての時間が満たされてゆく、圧倒的吸引力・・・みなさまのご感想通りです。これまで以上に素晴らしい楽曲、素晴らしい演奏ですよ。

でもね。
歌詞がこうでなかったら、僕はここまでに我を忘れるほどには引き込まれていな い、とも思うのです。

ジュリーのこの詞はどうでしょう!
とてつもないじゃなですか。凄過ぎるじゃないですか。

ブログに記事を書く、なんて考えは頭からスッ飛ぶくらいの衝撃でした。ただただ、ジュリーの声から発せられる言葉を繰り返し繰り返し聴くだけ。
多くのジュリーファンは、稀有な歌人生を歩む偉大な「歌手としてのジュリー」を大いに誇りにしていると思います。僕は思います・・・今こそそこに「詩人としてのジュリー」への誇りを是非加えたい!
身も心も削らんばかりにしてこの歌詞を完成させたジュリーをたやすく「詩人」だなんて表現するのは不謹慎かもしれないけど・・・この世に「詩人」という生き方があったとして、その魂を持つ者が今の社会への思いを作品に解放したならば、自然にこういう詩が生まれるはずです。
ただし、詩人の魂を持つ者は世にほんの僅かしか現れません。そう簡単には出逢えません。
ジュリーファンは恵まれています。

しかもこのジュリーという詩人は、「歌」の神様のような人でもあります。
ジュリーの詩人としての言葉は、優れたメロディーがあって、優れた演奏があってこそ生まれ、「書く」のでもなく「詠む」のでもなく、奇跡の声で「歌」われます。
『こっちの水苦いぞ』は、聴き手がジュリーの魂に直に触れるような1枚。こんな音楽は、本当に稀有です。

さらに・・・これは個人的なことなんだけど、ジュリーが歌詞の中で使ってくれたある言葉が、僕に大きな衝撃と予期せぬ感動をもたらしました。それがこの1曲目「こっちの水苦いぞ」の冒頭部。

池袋のタワーレコードで無事にCDを購入して(5枚置いてありました)、すぐにポータブルに入れて、街の移動中に聴き始めた1曲目「こっちの水苦いぞ」。
イントロのギターリフで、「おっ、カッコ良さそうな曲。ロックンロールかな?」とウキウキしながらジュリーの声を待ち構え、すぐに力強いあのヴォーカルが耳に飛び込んできた、次の瞬間でした。
「えっ、ジュリー、今” 桜島”って歌った?
と。
さらには
「”せんだい”・・・?”川内”か!”川内”・・・その次は何て言ってるの?」
たまらず僕は移動を中断して喫茶店に入り、コーヒーを注文するなり歌詞カ ードを広げました。

誰  の  ための  等閑な再稼働
G7  F7 G7   F7  G7  F7    G7 F7

桜島と川内断層
C7     F7        G7  F7  G7  F7

涙が出てきました。
ジュリーが、僕の故郷があんな状況に陥っている今ハッキリと、そのことを歌ってくれた、と思って・・・。

ご存知のかたも多いでしょうが、鹿児島県錦江湾にある桜島は、その名の示す通り元々は「島」の火山でした。それが「大正大噴火」(1914~1915年)と呼ばれる大きな噴火で大量の溶岩が流れ出た結果、東の大隅半島と陸続きになったのです。
実は現在、桜島の地下マグマがちょうど大正大噴火の時に近い容量にまで戻っていて、「10年以内に、100年に1度の大規模な噴火が起こり得る状態」であるとされています。問題は、研究でそういうことが分かっていても、またその時が近くなって予知ができたとしても、人力ではそれを止められないということ。しかも、どのくらいのことが起こるのかは、誰にも分からない。
そんな中、降って沸いた川内原発再稼働へのシナリオ。規制基準がどう、避難計画がどう、と机上のことを言う前に、もう二度と「想定外」は許されないのだ、と思わないのでしょうか?

去る3月18日、玄海原発1号機と島根原発1号機の廃炉決定のニュースが大きく報道されるその陰に隠れるようにして、原子力規制委員会は川内原発1号機の工事計画を認可しました。なのに、全国のニュースは廃炉決定の報道ばかり・・・。
工事計画とは、機器や設備が「想定される地震で」損傷しないか、などを確認するものだそうです。
「想定される地震」・・・?

安  全  言わない 原  子力委員長
G7 F7  G7     F7   G7 F7       G7 F7

福島の廃炉想う
C        F         G7  F7  G7  F7

「想定外」が起こった際の責任を被りたくないがために、「新たな規制基準は満たしています」とは言っても、「安全です」とは誰も言わない・・・国も、県も、原子力規制委員会も、もちろん電力会社も。

18日の工事計画認可を受けて九電は、1号機同様に審査に合格している2号機全体の工事計画認可を先送り、まず1号機の再稼働を優先させる方針です。
再稼働までには、使用前検査、保安規定認可、2号機の一部設備のみの工事計画認可(2号機の一部発電機が1号機の非常用と位置づけられているため)という段階が残されています。
そのひとつひとつの段階が今回のように、目立った全国的報道がなされないまま進み、いざ再稼働、という時だけ大きなニュースになってしまうのでしょうか。
だいたい、川内原発の避難計画で受け入れ先ともなっている隣県熊本の水俣市から「ちょっと待ってくれ」と声が上がっているというのに、立地県の鹿児島だけで話を纏めて再稼働実現なんて前例を作ったら、高浜だってなし崩しになってしまいますよ?

もちろん僕などは、2011年の福島第一原発の事故があったからこそそう思えているわけで、それまでは原発の是非など深く考えたことはありませんでした。
あの過酷な事故があって僕は、当然のように今後の日本は脱原発政策へと舵を切り、その方針で世界をもリードしてゆくとばかり考えていました。それが復興した日本を世界に見てもらうことにもなる、と。
ところが、今この国を動かす政治家や経済人達に、そんな思いは毛頭無いらしい・・・。
再稼働に前のめりに突き進む日本。その先鋒とされているのが川内原発です。
ジュリーは今回の新譜で、その川内原発のことを歌い、皆に伝えてくれました。

僕はこの新譜を購入する前日、7月からの全国ツアーの申し込みを済ませていました。同じようにされたファンのみなさまは多いと思うけど、10月の公演は渋谷を2日分申し込んで、どちらか片方だけでもなんとか抽選通ってくれ、と祈りながら・・・。
でも、いざ新譜を手にしてジュリーが「桜島」と歌うあの声を聴いた時、どうしようもなく鹿児島宝山ホールに行きたくなってしまいました。
何故、無理してでも発売日当日にショップに走らなかったのか。
まだ締切日まで余裕があったのに、何故焦って申し込んでしまったのか。
おそらく新譜購入とチケットの申し込みの順番が逆だったら、僕は週ド真ん中の平日公演である鹿児島宝山ホールへの遠征を決断していたと思います。

九電の思惑通りになれば、ジュリーの鹿児島公演がある10月には、川内原発再稼働が決定している可能性すらあります。そんなことはない、と信じているけど。

そうした状況だからこそ、この歌を故郷で聴きたい。
「保守王国」と言われ原発再稼働への反発が他立地県に比べて鈍い、ともされている僕の故郷は、真にそう言われるような状況なのか。再稼働に反対する人々の熱はどれほどのものなのか。
ジュリーの歌はどのように鹿児島のお客さんに届けられるのか。受け入れられるのか。
それを肌で感じたい、と思いました。

しかし既に渋谷を2日も申し込んでしまった以上、さらに鹿児島遠征などという贅沢はとてもできませんから、これも運命と思ってあきらめるしかありません。
こうなったら少しでも多くの故郷の人達に、ジュリーの歌を聴いて欲しい。少しでも多くの地元の一般の方々に宝山ホールのジュリーLIVEに参加して欲しい。
今はそう願うばかりです・・・。

まぁそんな個人的な感傷は別としても、やっぱり「3月11日発売」へのジュリーの拘り・・・僕も「発売日に聴く」ことに拘るべきだったなぁ、と反省しています。
いつもは忘れていて、3月11日当日(或いはその数日前から)になって初めて被災地を思う、なんてのは論外。毎日思っていて、じゃあその中で3月11日という日には何を思うか、考えるのか。

3月11日の朝刊紙はすべて、当然被災地への祈り、震災犠牲者の方々への鎮魂を1面で報じました。
ですがその中には、日々震災関連の報道を続けている中で改めてこの日は、という新聞もあれば、単純に「今日がその日だから」という新聞もあります。

これまで何度か書いたことがありますが、僕は自分が流されやすいタイプだと自覚しているので、新聞は可能な限り複数目を通すことを心がけています。そうすることで見えてくるものは、とても多いのです。
ですから、「戦争も辞さず」なんて識者(?)の論説が幅をきかせるまでに至ってしまった某有名新聞ですら日々目を通しますし、そこから学ぶこともあります。
それにしても・・・元々そうした主張の色濃かったその新聞については今さらの驚きは無いし、以前から把握していた個性ではあるけれど(僕の考え方とは随分違いますが)、他の新聞やメディアの中にね・・・「国に倣え」や「国の顔色伺い」への方針転換を強く感じることが、この数年で本当に多くなりました・・・。


さてそんな状況下、各新聞が一様に被災地への鎮魂を1面で報じた3月11日。
これまで『レベル7』と題した原発事故徹底検証の連載記事などで、日付関係無く震災関連の報道を高い頻度で1面に採り上げ続けてきた東京新聞は、3月11日朝刊1面でこのような写真を掲載しました。

20150311

高度9000メートルから夜明け前の国道6号を望む。
国道6号を走る切れ切れの車の灯りが、都心へと向かっています。点在する光の塊は、手前から東京電力福島第一原発、同第二原発、いわき市、水戸市。
そして一番奥の地平線・・・真夜中なのに煌煌と我が物顔で灯る密集した光が、本来薄い黒色であるべき地平線を、オレンジ色に染めてしまっています。これこそ、今僕が住んでいる首都圏の光。
あの原発事故の直後は、こうではなかったのです。今でもハッキリ覚えている・・・1時間かけて自転車を漕いで仕事から帰宅していた日々の、暗い夜道を。

節電しよう 節電を
G7 F7        G7 E♭

我慢   しますみんな 希望見つけるその日まで
G7 F7 C7     F7        G7   F7         G7      E♭

「節電しよう」なんて、身も蓋もない歌詞じゃない?と思ってしまうようなリスナーへ向けて、敢えてジュリーはこの詞をぶつけてきます。


ジュリーが突きつけたレッドカード。
覚悟を決めてグイッと踏み込んだその歌声は、予想を遥かに超える驚くべきものでした。
これは何なんだ?
66歳・・・?信じられない!

まるで、社会に激しい怒りを持った若いヴォーカリストにして詩人が、腕ききのバンドメンバーと共にその思いをすべてブチまけたデビュー・アルバムの1曲目ような歌声じゃないですか。
3’14”のシャウトなどは、正に10代のパンク・ロッカーのそれです。決して「キメ!」というシャウトではありません。つまり、この部分でシャウトを入れよう、という計算によるものではなく、思いを振り絞って歌っていたらそこで自然に叫んでしまった、という感じ。

この1曲目については、歌詞のコンセプトとして「怒り」が一番ストレートに伝わってきますね。
もう「それは違うんじゃないか」と歌う心境じゃない。ジュリーはとうとう「許さん!」まで行きました。それは近年、僕もまったく同じ気持ちでいました。
ただ、「反原発」や「世界平和」といったメッセージが、ジュリーの場合は大上段なアジテーションではないのだ、ということも僕は是非強調しておきたいのです。
世論を誘導しよう、というのではなく、ジュリーは一般市民としての自分、という素朴な目線で素直に歌っています。その上で、激しい怒りがあるのです。

トルコに押しつけ 羞恥の事実
B♭           E♭               G7  F7  G7  F7 

リスクだらけ 世界基準
B♭        E♭          D

昨年4月の時点で基準値以上の汚染水が流れ出ているのが分かっていながら、公表もしなければ対策も練らなかった・・・最近になってそんな事実が明るみに出てなお、「ブロックされている」と強弁をふるうような国が原発輸出とは恥ずかしい。
ジュリーが「周知の事実」を「羞恥」と変換させたくなるのも無理はありません。

さらに、歌われるのは原発問題だけにとどまりません。

インドに擦り寄る 苦渋の米国
B♭           E♭               G7  F7  G7  F7

相互利益で安全保障
B♭           E♭      D

僕は最初、この「インドに擦り寄る米国」の歌詞部がよく分かりませんでした。
インドと言うと、中国と微妙な関係にあるからそれで?くらいのことしか思い浮かばなかったのです。
調べてみると、「そういえばそうなんだっけ?」とこれまで特に気にとめていなかったことを色々と思い出したり知ったりしました。
インドは、武器輸入大国なのですね。
そうしたことも絡めて、アメリカがそこに日本も巻き込んでの「日米印同盟」とも言 うべき関係構築を模索している、という情報もヒットしました。

相互利益で安全保障。
欲望全開の凄惨と傷悲。
なるほどこれか!と腑に落ちました。

日本の国民は未だに「武器輸出」と言われてもピンと来ていないと言うか、現実感無く遠い世界の言葉のように思っているふしがあります。
それをして「平和ボケ」と揶揄されるならば、あまんじて受けなければならないでしょう。日本がとうとう参入を決めた世界の軍事マーケット・・・武器輸出の解禁について、今具体的にどのようなことが進められているか、まったく興味を持たない人達が大多数、なんて状況がもし現実ならばね・・・。

日本政府は、今年10月をメドに「防衛装備庁」(仮称)なる防衛省の外局を発足させる方針を固めています。これが日本の武器輸出、輸入を一元的に管理するための新たな組織。防衛装備としての武器開発、製造に関わる企業の業績を伸ばす、という「成長戦略」の一環とされます。
「あなたの企業が作った武器をどの国に売れば良いか、段取り含めて国が仲介しますよ」ということを、この新設された組織が行っていくことになります。これは今年、現実に起ころうとしている話です。
こういうことも、興味の無い人にはまったく興味の無いことなのでしょうか。
「防衛装備移転三原則」なんておかしな呼称の法律制定により、日本の武器輸出が堂々可能になった時から既に、僕には世間の無反応に強烈な違和感がありますが・・・本当にこうしたことは、みなさまにとってどうでもよいことなのでしょうか?

「今、日本が満を持して世界の軍事マーケットに参入すれば、それを必要とする国々の関心、期待は当然高い。我々の技術は、このマーケットに無限の可能性を持っている。大きな利益を生み出せる。経済は活性化され、国民は潤う。しかも武器輸出先の国との関係も強固なものとなり、安全保障の観点からも大いに効果がある」・・・それが確実な自信なのか机上の過信なのかはさておき、理屈自体は分からなくもないです。経済界からの支持、期待も理解できます。
しかし、いくら「戦闘当事国への輸出はしない」と歯止めをかけたところで、輸出先を経由して日本製の武器や兵器部品が第三国へと渡ってゆく、という流れは当たり前に考えられること。
「そこまでは知らんよ」と放置するつもりならば、それはもう国益でなく「自分さえ良ければ」という私益でしょう。最終的には日本が「世界の何処かで戦争が起こっていないと困る国」になってしまいます。

あれほどの重大な原発事故を体験した日本が、「国益のために」トルコに原発輸出する、というのもその意味においては同じ話で、ジュリーは1番と2番の同じヴァースで「原発」「戦争」という2つの「欲望全開の凄惨と傷悲」を並べてきたのですね。

「核で潤う」
「戦争で潤う」
日本という国は、それだけはしちゃいけないと思う。

「凄惨と傷悲」という歌詞カードの印刷文字を見てどんな思いを持つか・・・この漢字使いは、ジュリーから聴き手への問いかけではないでしょうか。
最近は僕も、「経済」「潤う」「国益」という「甘い」言葉が飛び交ったらちょっと怪しいぞ、よく考えてみよう、と心がけてはいましたが、今回ジュリーが「苦いぞ」と言い切ってくれたおかげで、スッとしました。
痛快な気持ちにさせてくれるロックンロールの魂・・・「こっちの水苦いぞ」の歌詞と曲想って、実はピッタリ合っているんですよ!

それでは続いて、そのロックンロールな楽曲構成の考察へと移っていきましょう。


発売前の僕の予想は、過去の下山さん作曲のジュリー・ナンバーで言うと「終わりの始まり」のようなサイケデリックなハード・ロック、というものでしたが、案の定見事に外れました。
後に鉄人バンドの演奏考察で再度触れますが、僕はこの曲を最初に聴いた時、ドアーズを思い起こしたんですよ。ドアーズを想起したならば少なくとも「サイケデリック」という点は予想が当たったのかと言うとさにあらず。これは、ゴツゴツのハードなブルース・ロックを演奏する時のドアーズの雰囲気なんですね。
キレッキレの演奏から、特に彼等の5枚目のアルバム『モリソン・ホテル』を思わせます。僕はドアーズのアルバムの中では3枚目『太陽を待ちながら』とこの『モリソン・ホテル』の2枚が特に好きなのです(一般的に人気が高いのはファーストとセカンド)。

そう思っていたところに、いつもお世話になっている鉄先輩(←初めて使う言葉笑)からの経由でジプシーズの「渇く夜」という曲を教えて頂きました。
なるほど・・・と思える曲でした。今回の下山さん作曲の原型となっている曲かもしれません。
じゃあ「こっちの水苦いぞ」は「渇く夜」と大きく何が違うかと言うと・・・これはもう、変態転調ですな~。
今年も気合入れて採譜、清書しましたよ~。

15031501

いや~、毎年毎年採譜に手こずらせてくれます、下山さん。今年も素晴らしい変態進行(褒めてます)!

これ、ホント毎年そうなんですが、下山さんの曲は「あれっ、何処行くの?」みたいに戸惑いながらも、苦労して苦労して最終的にはすべて理解できる、というのが醍醐味なんです(泰輝さんの曲は難解過ぎて途中で採譜を挫折、というパターンも恒例だけど、今年もその予感が汗)。
ありがちな「G7」の進行かな、と思っているとバシバシ「E♭」「B♭」なんてコードが噛んでくるし、サビではいきなり「D」がキーのクリシェがあるし、ギターソロの間奏部だけ独立した鬼進行になるし、最後の最後にアコギが出てきてメジャーセブンで終わるし・・・。

えっ、隣に並べてあるスコアは何か、ですって?
これはね~。

こっちの水        苦いぞ
D         D(onC)  D(onB)

下山さんが大胆に転調させる(ト長調からニ長調)キメのサビ部。この不思議にメロディアスなコード進行・・・これのパターン知ってる、何だっけなぁ、としばし悩んだ後に「あっ、これだ!」と発見した、ビートルズの「ディア・プルーデンス」(『ホワイト・アルバム収録』)のスコアです。
「UNCLE DONALD」の時も思ったけど、下山さんは同じ和音のルートだけをクリシェさせるだけで、凄く美しいメロディーを載せてくるんですよね。

ちなみにこのサビ部、ヴォーカルとコーラスにウォール・サウンドばりの深いエフェクトが施されていますね。
ジュリーの声は、諭してくれているようにも聴こえるし、迷いや混沌を表現しているようにも聴こえるし・・・ただここで思うことは、サビに辿り着くまでに歌われたジュリーの言葉の厳しさを和らげてくれるかのような、とても心地よいヴォーカルだということです。
特に2番でのリフレインは、反響が徐々に深くなっているような感じ(実際は、コーラス・トラックが増していることによる効果)で、気持ち良く浸っていると、ジュリーの「お~!」というせり上がる母音が炸裂。次のギター・リフにまで重なります。これがカッコイイんだよな~。

この、唐突にニ長調のルート・クリシェに変化するサビもたいがい変態転調ですが、もっと凄いのは間奏。
いきなり変ロ長調(コード進行はE♭→B♭)、と思ったら3小節目は1音ぶんガクッと下降して変イ長調(進行はD♭→A♭)。これが2度繰り返されて、何事も無かったかのようにさらに半音下のト長調のギター・リフに舞い戻っていくという・・・。
下山さんって本当に「間奏で突然転調して平然と元のキーに着地する」という構成が好きなんですね。

それでは演奏について。まずは鉄人バンドの演奏トラックをすべて書き出してみましょう。

・エレキギター(左サイド)
・エレキギター(右サイド)
・エレキギター(センター)
・アコースティックギター
・キーボード(ベース)
・キーボード(オルガン)
・キーボード(ストリングス)
・ドラムス
・タンバリン

左右のギターは、ミックス配置から考慮し左サイドが下山さん、右サイドが柴山さんの演奏と推測した上で、まずは各ギター・トラックの考察から。

左サイドのギターの見せ場はやはりイントロから耳に飛び込んでくる、あの印象的なリフ・フレーズでしょう。
このリフは音階で書くと「ソ~ソファ、ソドシソ♪」となりますが、そこはギターという特殊な弦楽器、ただ音符の羅列だけでは表現できないニュアンスがあります。
ここでは、「ドシ」の2音をチョーキング・ビフラートで演奏していることが大きな特徴。
下山さんがこうしたフレーズを弾く際に、チョーキングのジャスト最高音(この曲のリフの場合は「ド」の音)よりほんの少しだけ低い音の鳴りをビフラートで強調するテイクは、「Pleasure Pleasure」でも見られました。
このような粘っこいチョーキング・ビフラートのフレーズ・リフから入る名曲は洋楽にも多くの例があり、僕の好きなものから1曲挙げるとすれば、
これかな~。
あと、ト長調の曲なのにこのリフの「ファ」の音がシャープしない、というのも重要なポイントです。
ブルーノートの尖ったロックということですよ!
さらには「欲望全開の」から表拍で縦に刻むカッティング。これが2回し目から突如高いフレットでの演奏に移行します。それだけでガラリと曲全体の印象が変わるのですから凄いですね。

次に、右サイドのギター。
おもに表拍カッティングを左サイドのギターよりも軽快な歪み音で奏でるバッキング・パートです。
これはミックス位置を考えるまでもなく柴山さんの演奏でしょう。「うわ、柴山さんっぽい!」と感じたのは2番歌メロ直前の「ちゅくちゅくぎゅん!」ね。
これはそのすぐ前のリフ部がイントロとは変わって8分音符2発の頭打ちのアレンジに変化しているからこそ、休符部の間隙を縫っての炸裂が可能なのです。

問題はセンターにミックスされた間奏リード・ギターです。下山さんの作曲作品ですから、普通に下山さんが弾いている、と推測すべきでしょうが・・・音色、或いはコード・トーンに沿ったフレージングは、柴山さんの持ち味を強く感じさせるんですよね・・・。でも、自信はまったくありません(汗)。
このCDでのソロが下山さん、柴山さんいずれにせよ、「こっちの水苦いぞ」の3つのエレキギター・トラックをLIVE再現しようとした時、右サイドのパートを担当する人が間奏を弾く方が理にかなっている、ということは言えると思います。ですから、もしLIVEで下山さんの方が間奏ソロを弾くとすれば、その場合イントロからのリフ・フレーズは柴山さんが担当する(CDの左サイドのトラックの一部を柴山さんが弾く)ことになる、というのが僕の考えです。
と言いつつ・・・さて本番どうなるでしょうか。

泰輝さんのキーボードは3トラックあります。
この曲のアレンジで、ギター・リフと共に大きな肝となっているのがオルガンです。例えばAメロのヴォーカルの裏にアルペジオで鳴っているオルガン・・・これが ドアーズの手法を思わせるんですよ。
また、このオルガンの音色と明快なギターリフの組み合わせは、60年代後半のロックンロールのエッセンスでもあります。お世話になっている先輩方の中に、この曲について「GSみたいでとっつきやすい」と仰る声がありました。それは、無意識に耳に飛び込んでいるであろうオルガン・アレンジからもそう感じておられるはずで、とても貢献度の大きいトラックだと思います。
対して、サビに登場するストリングス系の音は「隠し味」的な演奏ですね。エフェクトとの相性も抜群。
そして泰輝さんもうひとつの演奏トラックは、大活躍のシンセベースです!
昨年の「東京五輪ありがとう」を経て、どうやらジュリーと鉄人バンドの間で「本格的なベースライン」の音色導入は完全に解禁となった模様です。
「もしバンドにベーシストがいたらこう弾く」という演奏。普通にベーシストが参加したバンドの音としてこの曲を聴いても、何ら違和感のないトラックですね。
「東京五輪ありがとう」「こっちの水苦いぞ」・・・ベースライン導入の鉄人バンド・レコーディング・ナンバーがいずれもギタリストの作曲作品というのが興味深い。
柴山さんや下山さんがスタジオ・リハの段階で、「ベースの音が欲しい!」と泰輝さんにリクエストしている光景を妄想しちゃいますね。

GRACE姉さんのドラムスは、高いチューニングが刺激的。演奏者は異なりますが、チューニングだけでなくフレージング含め、『第六感』や『いい風よ吹け』のドラムスに近い魅力を感じます。
また、最後のギターリフ・エンディングで曲が一度ピタッ!と終わる瞬間の音がスネアでもタムでもクラッシュでもなく、スリリングなオープン→クローズのハイハットというのが最高にカッコイイ!
タンバリンは、1番、2番ともに「欲望全開の」から始まる歌詞部で登場。時々「サティスファクション」のリズム(「NOISE」のリズムとも言う)が飛び出しますから、試しに気をつけて聴いてみて!

さて、この曲のアレンジで何より驚かされたのが、忽然と登場するアコギ・アルペジオをフィーチャーした、最後の最後のコーダ部でした。
アコギは後から別録りしたトラックをミックス編集していると考えられます。演奏は下山さんでしょう。
一緒に鳴っているのはGRACE姉さんのリム・ショットか、それとも特殊なパーカッションか・・・リム・ショットだとすれば、ドラムス・トラックと同一で一気に演奏されているのかもしれません。
本当に不思議な終わり方ですよね。初めて聴いた時はみなさんビックリされたでしょう。
アコギのアルペジオは「D」のコード・ヴァリエーションになっていて、4弦開放での「レ」の音を土台に、2、3弦のフレットを移動させているようです。ロン・セクスミスの「レス・アイ・ノウ」という曲を思い出しました。
最後の和音は「Dmaj7」。しかし音の理屈は分かっても、このアレンジが何を意図するのか、というのは僕にはまだ分かりません。いかにも下山さんらしい「標高の高さ」というのは感じるんですけどね。

そこで、7月からのツアーで大きな見どころのひとつとなるのが、この曲のエンディングがどう再現されるのか、或いは構成を変えてくるのか、という点。
コーダ部を割愛してGRACE姉さんのハイハットと共にピタッ!と終わらせるのか、それとも下山さんがエレキで最後のフレーズを演奏してくれるのか。(あ、さすがにこの曲でアコギ・スタンドの導入は、いかな霊力の使い手でも無茶だと思います笑)。

こうして色々と紐解いていきますと、やっぱり鉄人バンドの作曲、演奏、アレンジは本当に素晴らしい、と改めて思います。究極を言えば、鉄人バンドがついているからジュリーは凄い詩人になったし、今回の新譜のような歌が歌えるのではないでしょうか。

歌われている内容は激しい怒りだけれど、「こっちの水苦いぞ」は、まずゴキゲンなロック・ナンバー。ツアーで、お客さんはどんな感じでノるのかな?
曲想から自然に考えれば、この曲にはヘドバンが合います。ギターのカッティングに合わせて、首を縦にガンガン振るパターンですね。
でもジュリーLIVEの客層をイメージすると、そうはならないかもしれない・・・。とすれば、やっぱり表拍の連続手拍子かなぁ。1小節に4打。こちらは会場内の光景までハッキリと目に浮かんできます。
僕はどちらのスタイルもウェルカム。会場の先輩方に合わせますよ~。
今から、生歌、生演奏でこの曲を聴くのが楽しみです!(全曲楽しみですが)


それでは 次回更新は引き続きジュリーの新譜から、2曲目「限 界 臨 界」を採り上げます。
詞の内容を考えると、少なくとも次回2曲目考察記事までは、政治的なテーマについての私見もある程度は書かなければならないなぁ、と覚悟しています。

僕は普段から楽曲お題の新しい記事を書く際、まず自分の書きたいことをバ~ッとランダムに下書き状態で溜めていって、後にそれらを文章で繋げて清書する、ということをしています。
最近のジュリーの新譜はどれもそうだけど、いざ「文章を繋げる」時に、溜め込んである下書きでの自分の言葉遣いが「すごくきつい表現だな」と思えてしまうことが本当によくあって、手直し手直しでなんとか平穏な言い回しに、という作業が生じとても時間がかかります。
ジュリーが「(歌詞を書いていて)被災者のみなさんの心が痛むかな、と思ってだんだん柔らかい言葉になってくる」と語ったことがありましたよね。やっていることのレベルは比較にならないと分かっていても、ジュリーのそんな気持ちはすごくよく分かるなぁ、なんて思っています。
それに僕の場合は臆病だから、「叩かれるかな」「誤解されるかな」と怖れながら手直しをしている部分もあります。それでも僕はこの新譜を深く心に刻みたいし、みなさまがどう感じたかを教えて頂きたいし、そのためには僕自身ができる限りの気遣いもしていかないとね・・・。

政治的なことを書くと、いつもこのブログを読んでくださるみなさまの中にも、つまらないなぁと思ったり、考え方の違いで眉をひそめたりする人も多くいらっしゃるのでしょうが、今回ジュリーがここまで踏み込んできた以上、僕も今は「自分の考えをキチンと正直に書こう」という気持ちが大きいです。
執筆には時間がかかり更新間隔が空いてしまうかもしれませんが、気長に更新をお待ちくださいね。

『お嬢さんお手上げだ 明治編』が始まっていますね。
僕は観劇予定がありませんが、全公演が予定通りに無事開催され、大盛況、大成功をもって楽となることを心から祈っています。

ジュリーの音楽劇はこの後、火曜日に鹿児島公演なんですね。金曜日に熊本公演があるということは、ジュリーはずっと南九州に滞在かなぁ。この季節はデコポンです。ジュリーにたくさん食べて欲しいです。
これからこのブログでは新譜の記事が続き、重い雰囲気を感じることもあるかもしれませんが、音楽劇各地公演のみなさまのご感想なども、よろしければコメントに書いてやってくださいませ・・・。

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2015年3月 9日 (月)

沢田研二 「無限のタブロー」

from『act#9 ELVIS PRESLEY』、1997

Elvis1

1. 無限のタブロー
2. 量見
3. Don't Be Cruel
4. 夜の王国
5. 仮面の天使
6. マッド・エキシビション
7. 心からロマンス
8. 愛していると言っておくれ
9. Can't Help Falling in Love
10. アメリカに捧ぐ
11. 俺には時間がない

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今年も、祈りの3・11がやってきます。
決して忘れてはならない3・11とその後。けれど、果たして自分がジュリーファンでなかったらここまでこの日付を強く意識できていただろうか、と考えると恐ろしくなります。風化、無関心そのものであったかもしれない自分。ふと周りを見回すと、そんな自分の分身のような世間も見えてくる・・・。

忘れさせない、忘れない。それを毎年教えてくれているジュリーの新譜に、今年も感謝。
発売日の3・11が迫っています。
何ですか、予約先によってはもう今日の時点で発送メールが届いたところもあるそうですね。
例年の僕ならば、早く聴きたい一心でソワソワ状態。自分を落ち着かせるために、詞や曲想、アレンジについてあれこれ想像を巡らせた収録曲の内容予想記事をババ~ッと書くところ・・・なのですが。

ごめんなさい!
予告しておりました新譜内容予想・・・今年は詳しく記事に纏めるのを断念いたしました。
一応、簡っ単にだけ書いておくと

「こっちの水苦いぞ」→混沌のサイケ・ロック・ナンバー(「終わりの始まり」みたいな感じ)。「全体としてアンダー・コントロール」の欺瞞を暴く。
「限界臨界」→意外や長調のレゲエっぽいリズムを強調したナンバー。曲想的には「海に還るべき・だろう」みたいな感じだが、当然歌詞の内容は痛烈な皮肉。
「泣きべそなブラッド・ムーン」→ジャジーなポップ・バラード。「堕天使の羽音」のようなピアノの効いたアレンジ。歌詞は南相馬まで北上する風景を描く。
「涙まみれFIRE FIGHTER」→豪快なハードロック。震災で家族を失った少年が消防隊員を志す姿を通し、命の重さと明日を担う若者へのエールを歌う。

このような感じです。
それぞれアレンジについても考えたんですが、どうせ毎回当たらないし・・・どのくらい当たらなかったかについては、新譜を聴いてからじっくりと、考察記事本編に書いていこうと思っています。

とにかく新譜の予想記事も書けないほどの困った状況・・・嬉しい悲鳴?僕は今もACT熱の只中にいます。
いや、いざ新譜を手にしジュリーの感性とメッセージに触れれば一気に打ちのめされ考えさせられ、スイッチが切り替わることは間違いないんですよ。
ただ今年は、前もっての「準備期間」を設けることができない(笑)。僕はおそらく、新譜を購入するその瞬間までただひたすらに、ACTのジュリーの歌声に心奪われていることでしょう。

僕は『ACT-CD大全集』から、まず先輩方の評価が高い(と感じている)『BORIS VIAN』『SHAKESPEARE』そして『NINO ROTA』という順で聴いていき、それぞれどっぷりとハマっていました。ひとまず『NINO ROTA』週間を終えた先週、「じゃあ次に聴く1枚はどれを?」となった際に、「新譜リリースの直前に大傑作を聴いてしまうのは却ってマズいんじゃないかなぁ」と考えまして。
3月11日までの1週間で軽く流せる(←今にして思えば言語道断な決めつけ)程度の作品にしよう、と。

いつもお世話になっている先輩が絶賛されている『SALVADOR DALI』と『EDIT PIAF』は、激しくのめり込む可能性が高いから今は避けよう。
おっ、『BUSTER KEATON』はギターが柴山さんなのか!これは後の楽しみにとっておこう。
『KURT WEILL』はパンフレットで「約束の地」というジュリーの日本語詞の存在を知り、とても気になってる・・・これももう少し後にとっておいて、じっくり聴こう。
『宮沢賢治』と『むちゃくちゃでごじゃりまするがな』は2作で1枚のCDに収録か・・・1週間で2作ぶんを消化するのは厳しいかなぁ。これも後回し。

で、残った1枚は。
『ELVIS PRESLEY』ですね。

うん、このタイミングで聴くのは適当なんじゃないかな。あんまり熱烈に勧められたこともないし、むしろ軽い気持ちでロックンロールを楽しめるだろう。
・・・などと考えた、浅はかなDYNAMITE。

僕は少年時代から洋楽ロックを好んできた中で、何故かプレスリーはこれまでキチンと聴いたことが無くて。もちろんその偉大さは知識としては持っていたけれど、音楽的な思い入れというのは無いんですよ。
有名な曲を知っている、というその程度ですね。まぁプレスリーともなれば、「有名な曲」というのがハンパない数で、ジュリーのACTにも、知っている曲が満載。

スタンダードなロックンロールを歌うリラックス・モードのジュリーが楽しめるんじゃないかな?

な~んて見当違いも甚だしい心構えで、まず朝の通勤電車で軽い気持ちで聴きました。それが先週の木曜。
・・・漏らすかと思った。
一体何なんでしょうか?次から次へと繰り出される、この物凄いヴォーカルは!
以来、寝ても覚めてもこの1枚です。

今、多くのジュリーファンのみなさまが完全に新譜待機モードでいらっしゃる中、恐縮ではございますが・・・僕もいったんこの熱病の区切りをつけるためにも、今日はACT『ELVIS PRESLEY』から1曲、考察記事を書かせて頂きます。
「無限のタブロー」、伝授です!

(イントロ)
C     B     C

ガラスが砕け 
              Em   E♭m

時間が止まる
Dm  G7      C   C7

窓の外の景色   広がるブルー ♪
F        Em    Am   Fm            G   A♭  G

いやいや、僕はオープニングのこの曲からもう、とにかくビックリしましたよ~。
長いファンのみなさまはLIVEやお芝居などで何度か体験されているのかもしれませんが、新規ファンの僕は、ジュリ
ーのこの曲のような「歌い方」をまったく初めて聴いたのです。
これは、洋楽ですとロック・オペラの中の風刺を効かせた社会派スタンスの曲でよく採り入れられるヴォーカル表現ですね。それでもこの歌い方を使いこなすヴォーカリストを僕はそれほど多くは知りません。
思いつくところでは、レイ・デイヴィス、
ジム・モリスン、フレディ・マーキュリー、デヴィッド・ボウイ、アンディ・パートリッジといった面々。いずれも超・個性派です。

そもそもこの歌い方って、そこそこの歌手が安直に採り入れると「おフザケ」なイメージになりがち。
かと言って声量朗々たる本格的なオペラ歌手なんかが声を張り上げてやってしまうと、そもそもロッカ・バラードとは言えなくなってしまうでしょう。
過剰でもいけないし、中途半端でもいけない・・・ジュリーの絶妙なニュアンスは、先に挙げた錚々たる洋楽ロック・ヴォーカリストの面々と比較したとしても、より優れているように僕には感じられます。

さらに言えばそれは、ジュリーの持つ歌の「品格」によるところではないか、と個人的には考えます。

例えば「さぁこれから間奏ね!」の合図となるシャウトが、この曲では「わっは~!」と言うのですね。
この酔いどれ状態のような語感を、安易でも過剰でも下世話でもなく、程好い上品なカッコ良さでもって爽快に発声できるジュリーは凄過ぎます。
これは2曲目収録「量見」の「がおっ!」にも同じことが言えます。ホント惚れ直しましたね~。ジュリーは間違いなく「歌で演ずる」ことにかけては天才です。
しかもジュリーにとって「無限のタブロー」のような歌い方は決して「おハコ」ではないわけで、これぞ真に「能ある鷹は・・・」、というヤツですね。

で、2曲目収録の「量見」(「アイム・ダウン」のような怒鳴り声)、3曲目「Don't Be Cruel」(「MAYBE TONIGHT」のようなファルセット・ロカビリー)、そして4曲目・・・と、次々に繰り出される曲それぞれ、まったく違うヴォーカル・ニュアンスで攻めてくるジュリーに、完全KO状態。
とんでもないぞ、ACTプレスリー!

ACTのセットリストって、「これ!」という看板ナンバーがまず土台としてあって、その曲を中心に舞台構成が纏められている、というパターンが多いようですね。

例えば前回採り上げた『NINO ROTA』ですと「8 1/2」がその曲に該当し、オープニングとエンディングにそれぞれ違うヴァージョンで収録されていました。
一方『ELVIS PRESLEY』の場合はそれがオープニング収録の「無限のタブロー」と、ラス前収録の「アメリカに捧ぐ」というふうに、楽曲タイトルが分かれます。


Elvis6

クレジットを見ますと、「無限のタブロー」「アメリカに捧ぐ」の2曲はプレスリーのカバーではなく、cobaさん作曲による、この舞台のために新たに書き下ろされたオリジナル・ナンバー。
この2曲が、同一曲にして舞台の「テーマ」となっているのですね。メロディーはもちろんのこと、キー(ハ長調)もコード進行もまったく同じ曲です。

違うのは歌詞(「無限のタブロー」が加藤直さん作詞、「アメリカに捧ぐ」がジュリー作詞)と、演奏アレンジ、そして・・・何よりジュリーのヴォーカル!
同じメロディーを歌っているのに全然印象の異なるジュリー表現力は驚嘆のレベルです。2曲それぞれに異なるメッセージ性と説得力を持つヴォ
ーカルで、ひょっとしたら当時、舞台初日の段階ではこの2曲が同じ曲であることに気づけなかったお客さんすらいらっしゃたのでは、と考えてしまうほど。
先輩方、いかがでしたか?


さて「アメリカに捧ぐ」が「君をのせて」を彷彿とさせるような穏やかでカラリとしたバラードに仕上がっているのに対し、オープニング「無限のタブロー」は、豪快なロッカ・バラードです。そのアレンジ、演奏から「おまえがパラダイス」或いは「胸いっぱいの悲しみ」あたりの有名なシングル・ナンバーを連想したファンも多かったのではないでしょうか。
「タブロー」と言えば、長いキャリアの中で幾多残してきたジュリーの名曲のひとつひとつが正にそうでしょうが、僕もジュリー堕ち数年とは言えここまで濃厚なファンとなった今にして、「ジュリーのこんな歌は初めて聴いた!」と驚かされる過去作品に新たに出会うことになるとは予想もしていませんでした。
ジュリーのタブローこそ、底知れぬ無限です。

さて、前回記事『NINO ROTA』からの「道化師の涙」では、ACTならではのジュリーの作詞について語りましたが、ACTと言えばやはり脚本の加藤直さんによる才気ほとばしる作詞作品・・・本当に素晴らしい名篇揃いです。僕は、今さらながらその凄味に浸りきっております。

耐えられません 
                   Em   E♭m

澄んだ青色
Dm     G7  C   C7

堂々と誇り 高く  疑    いもなく ♪
F           Em   Am  Dm  G       C   Fm   C

「澄みわたる空の青さが誇り高過ぎて、疑いを知らぬほどに純粋過ぎて、自分にはとても耐えられない」と、歌っているんですよ・・・このメロディーで!
ジュリーのあの歌い方が、詞曲をガッチリ繋ぎとめている、とも言えますが・・・。

前回記事で触れましたが、『ELVIS PRESLEY』については僕は過去に映像を観たことがあります。たぶん2010年くらいだったのかなぁ。
ところが、信じ難いことにその時はまったく印象に残らなかったという・・・ストーリーも全然覚えていません。これほどのヴォーカルを耳にしながら何故?と自分に不信感すら抱くほどですが、まぁ己が思い込んでいるほどにはジュリーファンとしての素養がまだまだ足りていなかった、ということでしょう。
今回「無限のタブロー」の考察記事を書くにあたって今一度映像をおさらいすることも考えましたが、何度も全部通して観入ってしまいそうなので今回のタイミングでは控えておきました。

ただ、近いうちにじっくり鑑賞し直したい気持ちは当然あり、今から色々と想像をめぐらせていますとね、この1曲目収録「無限のタブロー」の歌詞を読んだだけで、哀愁のストーリーが想像できる、ジュリーがその泣き笑いを演じるのだ、とワクワクさせられる・・・加藤さんの「無限のタブロー」は、そんな感情をかきたてる詞なんですよね。

ひとつの試練なのか
C

それとも冗談なのか曖昧
Am                    Em      E♭m                  

鳥ひとり舞いまよう 限りないタブロー ♪
Dm    G7  Em    A7  Dm   G       C    Fm    C

「鳥ひとり舞いまよう」・・・決して明るいことを歌った表現ではないけれど、素敵なフレーズです。それがcobaさんの美しいメロディーに載り、ジュリーが歌うことでさらにファンタスティックに聴こえてきます。

ACT『ELVIS PRESLEY』の「テーマ」としてふさわしいばかりでなく、詞曲の素晴らしさ、さらには滅多に聴けないタイプのジュリー・ヴォーカルが堪能できる名曲。
このヒヨッコに今また1曲、「日替わり・一番好きなジュリーナンバー」候補曲が新たに加わったのでした・・・。


というわけで。さぁ、これにて何とかACTの熱病にいったん区切りをつけました。
明日まではプレスリー三昧な1日を過ごすとは思いますが、明後日にはスイッチを切り替えますよ!
次回更新からは、いよいよ『こっちの水苦いぞ』収録曲の考察記事に取り組みます。
実際にCDを聴く前から確信してしまっていますが、ここ3年の新譜と同様、今年も1曲1曲の考察に相当な気力と時間を費やすことになるでしょう。


ジュリーの思いを正面から受け止め、できうる限りの全力で自分なりに今年の新曲の魅力、メッセージ、鉄人バンドの素晴らしさを紐解いていきたいと思います。
よろしくお願い申し上げます!

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2015年3月 4日 (水)

沢田研二 「道化師の涙」

from『act#3 NINO ROTA』、1991

Nino1

1. 8 1/2
2. 時は過ぎてゆく
3. カザノヴァ
4. 天使の噂
5. 忘れ難き魅惑
6. ヴォラーレ
7. 道化師の涙
8. バイ・バイ・ララバイ
9. カビリア~夜よ
10. ジェルソミーナ
11. SARA
12. 夢の始まり
13. 8 1/2

---------------------

インフォ来ましたね!
お正月のMCで全国ツアーの話が無かった、ということでやきもきしていらした先輩方も僕はたくさん知っていますが・・・これでひと安心、嬉しい知らせですね!
渋谷公会堂改築前の大トリの3DAYSは、激しい抽選競争率が予想されます。今回から
「第2希望会場の明記は渋谷以外で」
という新たなルールが加わりました。みなさま気をつけて申し込みましょう。締切は16日!

さて、2015年のジュリーの新譜『こっちの水苦いぞ』発売まで、いよいよあと1週間となりました。
今年も3・11がやってきます。

そんな中、個人的な新譜の内容予想はだいたい纏まってはきたんですけど、それを書くのはもう少し先送りにして、今日は新しいカテゴリーにてジュリー・ナンバーの記事をひとつ書いておきたいと思います。
『昭和90年のVOICE∞』が終わって色々あった1月~2月でしたが、その間に僕がおもにどんなジュリー作品を聴いて乗り切っていたかと言いますと・・・。
ズバリ、ACTです!

「新年の目標」として掲げていた「今年中に『ACT-CD大全集』を購入する!」という望みは、有難いことに早々と叶えられておりました。ご縁を頂いた先輩が、半額以下のお値段でお譲りくださったのです。

Actcdbox

特に聴く順番を考えていたわけではなかったんですけど、まず『BORIS VIAN』を1週間ほどブッ続けで聴きました。ジュリー作曲ヴァージョンの「きめてやる今夜」や、有名な「脱走兵」が収録されているということで、無意識に最初の1枚に選んだのかな。
ヘッドホンでじっくり聴いて・・・「王様の牢屋」「墓に唾をかけろ」「鉄の花」・・・ただただ圧倒されましたよ。
新鮮でしたね~。久々に「これまで知らなかったジュリーの魅力、発見!」みたいな感じ。まぁそれは、自分がいかにヒヨッコだったかを証明する話なんですけど。

続いて『SHAKESPEARE』・・・これはもう一生離れられなくなるんじゃないか、というほど深々とのめり込んでしまって、2週間くらいは寝ても覚めてもずっとそればかり聴いていたんじゃないかな。

そして今ハマっているのが、『NINO ROTA』です。

いやいや、ACTって本当に凄いですね!
1967年、ザ・タイガースのヴォーカルとしてシングル『僕のマリー』で歌手デビューしたジュリー。目利きの女性ファンがそのキュートな少年の中の「本物」をいち早く見抜いていたとは言え、ジュリーが将来これほどまでに凄い、純粋に「歌が素晴らしく上手い」歌手になるなんて・・・デビュー当時から想像できていた人は誰ひとりとしていなかったのでは?
ACT作品群にはまず何を置いても、圧倒的な「歌」があります。ロックとか歌謡曲とかそういったジャンル・カテゴライズとは離れた所で、誰も否定などできない抜群の歌唱力、表現力があります。

遅れてきたジュリーファンとして未だ勉強途上の拙ブログでも、いよいよ新たなカテゴリーのもと満を持して、ACTの楽曲お題を採り上げる時が来ました。
僕はまだまだACTの真髄に辿り着いているとは言えず、その映像的魅力について語れるレベルには正直ありません。それはこの先じっくり学んでゆくとして、このブログではひとまず「楽曲」に特化して・・・ACTでジュリーが歌った名曲の数々を、大したことはできぬまでも僕なりの切り口でその音楽性を掘り下げ、少しずつ記事を重ねていこうと考えています。

第1回目の今日は、ちょうど今通勤途中などブッ続けで聴いている『act#3 NINO ROTA』から、いきなりジュリー自身の作詞・作曲によるサイケデリック・ワルツ・ナンバーを採り上げます。
「道化師の涙」、僭越ながら伝授!

と言いつつ、今日は新カテゴリーの第1回。まずは僕がどのような過程でACTの音源に惹かれていったのか、ということから語らせてください。

ACTについては以前から興味をそそられつつも、何故か僕はこれまで深く知ろうとはしませんでした。
毎年リリースされる新譜、そしてコンサート・ツアー。ここ数年、ジュリーファンとしてはこの2本柱を追いかけるだけで充分満ち足りていました。ジュリーファンでいることはそれほど濃密なのですね。
新規ファンのみなさまならば多少は分かってくださる感覚かと思いますが、過去の作品すべてを振り返る暇などないくらいに、ジュリーは現在進行形でファンに目いっぱいの楽しみをもたらしてくれているのです。ジュリーはそれを40数年間、1年たりとも休まずに継続してやっているのだ、と考えると目が眩みますが。

ですから心の何処かで、「ジュリーはCDとLIVE。ひとまず本道としてその2つを網羅すれば良いだろう」という考えがいつしか出来上がっていたのだと思います。つまり、ACTを「ジュリーの本道をフォローする補助的な活動」であった、と(無理矢理に)捉えていたというわけ。今となっては、言語道断な考えですけどね。

そんなACTの音楽を本腰入れて追及したい、と思ったのは、『ジュリー三昧』のACTにまつわるくだりを昨年になって初めて(←ホント、今さらなんですが)聴いたことがきっかけでした。
基本、年代を追って過去作品の話をしてくれているあの番組で、ジュリーはACT全10公演について、年代ごとにその年々のオリジナル・アルバムと取り混ぜて触れるのではなく、ACT単体としてコーナーを纏めてくれていました。しかも、いきなり1作目の話から始めず、まずは「何故ACTをやることになったのか」という「きっかけ」からじっくりと語ってくれていて。
それが
これです。
(ちなみにこの『ジュリー三昧』を細かく整理してupしてくださっているお方・・・凄いです!正に「じゅり勉」の教科書とするにふさわしい、素晴らしい編集!
後追いでジュリーのファンになった人は、ジュリー自身が自作について語った『ジュリー三昧』での言葉を、このお方の親切、丁寧な編集画像と共にすべて鑑賞するだけで、相当ジュリーに関する知識が向上するはずです。僕が強烈にACTに気持ちが向いたのも、このお方の編集のおかげです。ありがとうございます)

この中で、僕がこの世で最も愛しているコンセプト・アルバム『JULIEⅡ』の話が出てくるんですよ。
僕は『JULIEⅡ』収録曲の考察記事を書くたび、「凄まじい”歌の神”の存在にこの時点ではまだ誰も気づいていないと思う」などと書いてきましたが、どうやらそれは完全に間違いだったようです。
ジュリー曰く
「このアルバムのロンドン・レコーディングの時から既に、お前は”歌で演ずる”ということをやった方がいい、と僕に言ってくれていた人」
としてお名前を挙げているのが、池田道彦さん。
10年に渡るACTシリーズは、この池田さんの提案から始まった企画だったようですね。

本当にこういうのってタイミングだなぁ、と思うのは、池田さんのお名前などそれまでまったく知らなかった僕が、たまたま最近『不協和音』を先輩からお預かりする機会に恵まれて、そこから池田さんとジュリーの関わりを初めて知っていった(タイガースのマネージャーは中井さんお1人だと思い込んでいた)矢先、『ジュリー三昧』のACT部を初めて聴いたんですよねぇ・・・。
『不協和音 Vol.1』に、「ジュリーの新たな旅立ちに贈る言葉」として様々なジュリーの周囲のキーパーソンが言葉を残してくれていますが、池田さんの登場するページをここでご紹介しておきましょう。


Fukyou119


さて、僕もこれまでACTにまったく触れていなかったわけではありません。
改めて、僕がこれまで映像で観たことのあるACT作品群(集中して鑑賞した、とはとても言えませんが)を振り返ってみると、これがちょっと片寄っている感じで

『SALVADOR DALI』
『SHAKESPEARE』
『宮沢賢治』
『ELVIS PRESLEY』
『むちゃくちゃでごじゃりまするがな』

の5本。
つまり、今日のお題「道化師の涙」が歌われた『NINO ROTA』は映像作品として観たことがありません。
ただ、じゃあ観たことがある5作の収載曲についてこれまでキチンと把握していたか、というと全然そんなことはなくて(汗)、むしろ先の冬休みに先輩から(これまた奇跡的なタイミングで)、かつてDVD鑑賞経験があったはずの『SALVADOR DALI』のパンフレットをお借りして、クレジットや歌詞の内容を改めて見て初めて、純粋な「楽曲」への興味が沸いてきた、という次第なのです。

言い訳かもしれませんが、今の僕のレベルではおそらくDVDでの鑑賞だとまだ敷居が高いんですよ。
もともと僕はひらめきの才は皆無でコツコツと少しずつ知識を重ねてゆくタイプだし、「歌」と「音」に特化したCD大全集は、ACTの理解へと踏み出すには格好の入門書と言えます。僕は「好きな音楽をしつこく聴く」ことは得意ですから(笑)。
まずCDですべての曲を充分頭に叩き込んでから、ステージとしてのDVD作品を味わう・・・ACTについてはその順番で行こうと思っています。

そこで『NINO ROTA』。ようやく本題(笑)です。

さすがに僕もニーノ・ロータの作曲作品について、いくらかの知識はあります。
中学生の時に母親のアコギとクラシックギター教本を奪い取り、まずアルペジオから覚えていった(←実は珍しいパターン)僕が最初期にマスターした曲のひとつが、「太陽がいっぱい」でした。
また、直接制作などには関わっていませんが、勤務先から『映画音楽の巨匠/ニーノ・ロータの世界』というスコアが出版されていて、これは今後、「8 1/2」をはじめACT『NINO ROTA』の中で採り上げられている数々のニーノ・ロータ作曲作品の考察記事を書く際、心強い参考資料となるでしょう。

そんな中・・・ライナーを見るとひときわ目を引くのが、「作詞・作曲・沢田研二」のクレジット。


Nino6

本日お題の「道化師の涙」です。

ジュリーの歌詞は脚本の流れから与えられた「テーマ」が明快。にも拘わらずとても個性的。
1991年と言えば、オリジナル・アルバムで言うと『パノラマ』の年です。つまり「Don't be afraid to LOVE」と同時期のジュリー作詞作品なんですね、これは。
俄かには信じられない!
そう、僕がACTにここまで興味惹かれたのは、ジュリーの作詞に「オリジナル・アルバム」のそれとはまったく違う才気を感じるからなのです。フレーズへのアプローチ、詞としての素晴らしさのベクトルが、「アルバム」と「ACT」とでは全然異なっているんですよ。
どちらもジュリーの本質。作詞ひとつとっても、そのどちらも知らなければ、この時代のジュリーを音楽的に理解しているとはとても言えないのです。

もともとジュリーは1972年のインタビューで作詞について問われた時に、「どちらかと言うとテーマを与えられた方が作りやすい」と答えています。
あのジュリーがキッパリ言うほどですからこれは、「その方がうまく書ける」と言い換えて良いのでしょう。
ACTでの作詞は正に「テーマを与えられた」パターンですよね。さらに言えば、皮肉なことにジュリーの作詞能力が突き抜けてしまったこの3作の新譜(今4作目リリースも間近です)も、『PRAY FOR EAST JAPAN』のコンセプトありきです。
ジュリーの作詞はそのフレージングに独特の自由度を持つが故に、作品のテーマ、コンセプトが明快である方が、より真価を発揮するのではないでしょうか。

「道化師の涙」は『NINO ROTA』にあって(シーン的には)「繋ぎ」の1曲だと思います。『JULIE Ⅱ』で言うと「二人の生活」のような立ち位置(ワルツのリズムが同じなので連想しやすかった)。
ただ、ストーリーそのものは結構エグくて。

ジュリーが描いたのは、「人を笑わせる」ことを宿命とする、哀しきサーカスの道化師の独白。

あこがれの拍手を スターは浴びる
B                                            F#

おいらは笑いもの しがない道化
C#m         F#       C#m          D#7

道化師は、時には嘲られ、蔑まれることで観客を笑わせることも・・・しかし彼が本当に「笑わせたい」「拍手をさせたい」のは、恋心抱くブランコ乗りの少女です。
しかし「話し相手にさえしてくれない♪」と道化師の言う通り、それは身分不相応な恋なのですね。

いつの日か拍手を君にさせたい
B                                       F#

君の可愛い おヘソよじれさすのさ ♪
C#m            F#      C#m           D#7

そもそも僕は、「道化師」「サーカス」を描いた物語や歌には特別な郷愁を抱くことが多いです。そしてそこに「身分に負けまいとする気骨」を常に感じます。
たぶん、少年時代に愛読していた江戸川乱歩の影響かな。だから大人になってから読んだ『竹馬男の犯罪』なんて誰も知らないようなマイナーなミステリー長編を、とてつもなく好きになったりするわけで。
また、曲ではキンクスの「道化師の死」。これらに共通するのは、とても崇高な中にやりきれない悲劇がつきつけられてくる、というバッドエンドの感覚です。
それは、ジュリーの「道化師の涙」も同じなんです。
しかも卓越したメロディー、奇跡的なヴォーカル表現をもって「舞台上の一瞬」として完成、演じられたテイクがCDの収録一篇として収められているこの贅沢。
ジュリーの数ある自作曲・・・作詞・作曲ナンバーの中でも、これは正しく隠れた大名曲!

「白いバラの花をふんぱつしたさ♪」「可愛いおヘソよじれさすのさ♪」といった言い回しには、乱歩の小説にも通じる「痴」的な怪しさがあって、「ええっ、これがジュリーの詞なの?」とたじろぐほどです。
救いようのない悲劇を、コミカルに、シニカルに歌う・・・ここでまた『JULIE Ⅱ』を引き合いに出しますが、「嘆きの人生」の作曲者であるすぎやま先生がジュリーのヴォーカルを絶賛していたことと、この「道化師の涙」のジュリー・ヴォーカルの表現力は同一であるように僕は思います。
実際、「道化師の涙」の後半には、「嘆きの人生」とよく似た自嘲の泣き笑いのようなヴォーカル・ニュアンスが登場しますでしょ?

(良い意味で)冷徹な視点で描かれた「悲劇」。
具体的には、2番の歌詞でジュリーは「道化師の涙」というモチーフを明かすことになります。

ブランコ乗りのあの娘と 目と目が合った刹那
G#m                    D#m  G#m                G

手をすべらせ落ちた 声も上げず
G#m            C#7      E    F#7  B

AH それが最後だった サーカスは
      G#m          C#7      G7  F#7 B

おいら 涙なんか 流 さな い
G#m        C#7      G7  F#7   B

おいら 道化師だよ 笑 うの さ
G#m           C#7      G7  F#7   B

おいら 涙なんか 流 さな い ♪
G#m        C#7      G7  F#7   B

忘れてならないのは、僕のような不注意者だとDVD映像の鑑賞だけでは見逃してしまいがちなこと・・・ACTシリーズのバンド演奏の素晴らしさです。
僕はジュリーという歌手はバックの音の志いかんでその表現力を高める典型のようなヴォーカリストだと思っています。井上バンドも、オールウェイズも、エキゾティクスも、CO-CoLOも、JAZZ MASTERも、そして鉄人バンドもそれぞれ違った形でジュリーの歌を昇華させているけれど、cobaさんを中心としたACTの演奏は作品ごとに、通常のLIVEとはまた違った感じの独特の魅力があります。情熱性、趣味性の高い音楽・・・それがACTならではの個性ではないでしょうか。
2008年の『ジュリー三昧』でジュリーが、ACTの10年があっての今、というニュアンスのことを語っているのも頷けますね。普通に歌手だけをやっていたのでは出逢えなかったかもしれないタイプの音楽と共に、ジュリーは10年間のACTを歌っていたのです。

「道化師の涙」の演奏で僕が最も印象深いのはベースです。これはフレットレスを使っていますよね?
歌メロ直前からAメロにかけて「びゅい~ん♪」と言わせているのが、フレットレス・ベース独特の奏法。

また、小気味良いワルツを奏でる各パートのアレンジが本当に崇高で。
このくらいのテンポのワルツのリズムから「サーカスの空中ブランコ」を僕が容易く連想できるのは、やっぱりビートルズ「ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト」(ミドル・シャッフルの曲が、途中唐突に緊張感のあるワルツへと変化。ジョン・レノンは当時骨董店で偶然見つけたサーカス団のポスターにインスパイアされてこの曲を作った、という逸話は有名)の影響かな、ひょっとしたらジュリーも作曲の時そうだったのかなぁ、などと夢想しています。
詞について色々書いてきたけど、ジュリーの作曲も凄いですよこれは。ドアーズっぽいサイケな進行で、ジュリーらしい「ええっ?!」というコードも登場。
イントロでの同主音移調の導入は、cobaさんのアイデアかもしれません。

ただ、これほどの曲が全体の中では「繋ぎ」的な配置で、それでも重要な1ピースとして『NINO ROTA』全体の構成に貢献している・・・ACTの書き下ろしオリジナル曲の醍醐味は、そんな「道化師の涙」のような曲にこそ見出すことができます。
次にいつACTのお題について書くことになるか分かりませんが、脚本の加藤直さんの作詞(或いは訳詞)作品も本当に素晴らしい名篇揃いですから、今度は加藤さん作詞の書き下ろしオリジナル・ナンバーを採り上げたいところですね・・・。


それでは、次回更新は(たぶん)『こっちの水苦いぞ』の楽曲内容予想です。
この新譜内容予想シリーズも毎年恒例となっておりますが、セットリスト予想同様、全然当たりません。

ただ・・・どんなに厳しい、重い内容だったとしても、今のジュリーと鉄人バンドの作品は僕が大好きな音楽であることは間違いないですから。
やっぱりジュリーの新譜が「楽しみ」なのです。
1週間後、実際にこの耳で聴くまで・・・勝手な想像、妄想を楽しみたいと思います!

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