沢田研二 「さよならをいう気もない」
from『思いきり気障な人生』、1977
1. 思いきり気障な人生
2. あなたに今夜はワインをふりかけ
3. 再会
4. さよならをいう気もない
5. ラム酒入りのオレンジ
6. 勝手にしやがれ
7. サムライ
8. ナイフをとれよ
9. 憎みきれないろくでなし
10. ママ......
from『ROYAL STRAIGHT FLUSH 2』
original released on single、1977
1. ス・ト・リ・ッ・パ・-
2. おまえがパラダイス
3. 恋のバッド・チューニング
4. TOKIO
5. OH!ギャル
6. ウインクでさよなら
7. 渚のラブレター
8. 酒場でDABADA
9. ロンリー・ウルフ
10. さよならをいう気もない
11. 立ちどまるな ふりむくな
12. コバルトの季節の中で
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秋ですね~。
『三年想いよ』ツアー参加がファイナルの東京国際フォーラムまで1ケ月お預けの拙ブログでは、しばらくの間”「足早に過ぎてゆくこの秋の中で」シリーズ”と銘打ちまして、僕が勝手に「秋」のイメージを持っている、或いはジュリーファンのみなさまにとって「秋」のイメージがあるんじゃないかと考えられるジュリーの名曲群から、時代を行き来するような感じでお題を採り上げ、マイペースで考察記事を書いていこうと思います。
今日はまず、お題とは関係の無いプチ情報から。
ジュリーファンの先輩方って凄まじく検索能力が高い方がたくさんいらして、どんな所であろうと、どんなに小さなことであろうと、「沢田研二」がほんの少しでも世間の話題になれば、どこかしらで情報が得られるものだ、とよく聞きます。
そんな中、「さすがにこんな細かい話はまだ誰も知らないんじゃないかなぁ」と思い、先日僕が偶然得た小さな「沢田研二の話題」をここでご紹介しましょう。
僕はかなりの将棋ファンなのですが、去る9月20日に『電王戦タッグマッチ2014』という大きな将棋イベントが、華々しく幕を開けました。
これは、人間のプロ棋士とコンピューターソフトがタッグを組んでトーナメントを戦う(今や将棋コンピューターソフトの能力はトッププロのレベルにまで到達し、群雄割拠の各ソフト開発者がさらなる性能向上へしのぎを削っています)大会。異なる開発者のソフトがそれぞれ、過去の「人間対コンピューター」対局で勝負した棋士をはじめ、話題性の高いプロ棋士と手を組み、今度は人間の力を借りて将棋ソフト業界のトップを目指す、という主旨なのです。
23日に行われたBブロック・トーナメントは、ソフトとタッグを結成するのが若い世代の棋士ということで特に注目されましたが、そこで実況放送の解説者の一人として登場したのが、プロ棋士の豊川孝弘七段。
豊川七段はもちろん本業の将棋も強いですが、、解説者としてメチャクチャ個性のある人で、「対局を解説しながら寒すぎるオヤジギャグを連発して、聞き手の女流棋士の笑顔を凍らせる」という独自の芸風(?)が、将棋ファンの絶大な人気を集めているお方(普段からこんな感じの解説をされています)。
電王戦は通常の棋戦とは違いショーアップされた芸能色の強いイベントですから(もちろん真剣勝負ですけどね)、豊川七段も「何故自分がこの大会の解説に起用されたか」を充分心得ていらして、いつもの何倍ものペースで果敢にオヤジギャグを飛ばしまくりました。
例えば
「(局面の検討などについて、自分は)コンピューターソフトを使うことはナイチンゲール!」
など、視聴者を凍りつかせるベッタベタなギャグが容赦なく連発される中で、突如
「沢田研二じゃないけど、右手にやねうら王!」
という、奇々怪々なギャグが炸裂。
会場の関係者、全国の視聴者が「はて・・・?」と戸惑ったことでしょう。だってこれ、ジュリーと将棋両方に詳しくないと絶対に理解できない類のネタですから。
「やねうら王」というのは、その時豊川七段が解説を担当した対局を戦っていた将棋ソフトの名前。
ギャグの元ネタは、「サムライ」の「片手に、ピストル♪」の箇所かと思われます。
さらに言うと、この対局で「やねうら王」とタッグを組んでいた佐藤紳哉六段というのがまた超・個性派として有名な棋士で(こういうことやこういうことをする人)、豊川七段は佐藤六段のキャラクターまで加味して、「サムライ」と例えたわけです。
豊川先生、細かすぎるよ・・・(笑)。
さて、その豊川七段は、僕と同世代(1967年の早生まれですから、学年は同じです)。
僕らの世代は、特にジュリーファンでもない限りまず最初に「スーパースター・沢田研二」を認識するのは「勝手にしやがれ」大ヒットの時です(豊川七段は棋界でも屈指の「体育会系」「ガキ大将系」ですし、おそらく小学生時代には先頭きって同級生男子の帽子を「いったきりならしあわせになるがい~い~♪」と歌いながら奪い取り、放り投げていたのではないでしょうか)。
ただ、それ以前のジュリーのシングル・ヒットについては、「危険なふたり」「時の過ぎゆくままに」を人によって僅かな例外とするにしても、タイムリーな映像記憶をほとんど持っていません。
その代わり、多感な少年期をあの歌番組全盛の時代に過ごしており、「勝手にしやがれ」以降数年間のジュリーのシングルを「自然に覚えてしまっている」という特異な共通体験を持つ・・・そういう世代です。
今回豊川七段がネタにした「サムライ」も、当然そうした中の1曲ということになります。
となると、僕や豊川七段の世代が「よく覚えていない頃」ギリギリのジュリー・ヒット・シングルとは・・・。
それが今日のお題。
「さよならをいう気もない」、伝授です!
これはシングルが1977年2月1日発売ですから、タイムリーなファンのみなさまにとっては、「秋」じゃなくて「真冬」のイメージなのかな~。
僕は後追いだからでしょうか・・・「秋らしい曲」だと感じています。特に阿久さんの詞の印象がね・・・。
過ぎゆく時の儚さ、悲しさに対する人間の「無力」感。ただ見送るしかできない・・・季節の過ぎる速さ。
「春」「夏」「秋」「冬」が短距離走をやったら、「秋」がダントツで一番速いと思うんですよ(どういう例えだ?)。
でもそんな季節の流れの悲しさなどよりもずっと儚い、やるせない心情の在り様を女性視点で切りとり、「悲し過ぎて見送る(さよならをいう)ことすらできない」と歌った名曲・・・そう、重要なのは「さよならをいう気もない」が完全な「女性視点」の詞だということです。
いや、この曲以前にも安井かずみさんの詞などに女性視点の曲は多々あったわけですが、ここまで明快に「狙った」のはこの曲が最初なのでは?
詞の冒頭からハッキリしていますものね。男はハイヒールを履きませんから(まぁ、中野や秋葉原ではたまにそういう人を見かけたりもしますが・・・)。
阿久さんが中心となって仕掛けた、ジュリーの新境地としてのシングル・リリースだったのでしょう。
曲が女性視点なのですから、当然衣装も・・・ということで(?)あの有名な”金キャミ”ジュリーが降臨!
実は僕はまったく服飾センスというものが無く、ジュリー堕ち当初はあの衣装が「女性っぽい」とすら感じたことがなかったという・・・(汗)。
今でこそ「さよならをいう気もない」=「女性の色気を纏った金キャミジュリー」と認識してはいますが、それも頭で勉強して得た「知識」に過ぎません。
ただ、多くのジュリーファンのお姉さん達があの衣装に萌えまくっていらしたことは今は重々叩きこまれています。だいたい、カミさんが元々「You Tube金キャミ堕ち」なのですからね・・・。
そして、何処の会場でしたか・・・今ツアーのMCでジュリーが”金キャミ”について語ってくれた公演があったそうじゃないですか!てっきり、「後半のセトリ入れ替えでこの曲あるぞ!」なんて考えてしまいましたよ・・・。
ジュリーにとっても、「TOKIO」の落下傘と同じくらいに自分自身でインパクトを感じていた、思い出の衣装のひとつだったということでしょうか。
ですから、「さよならをいう気もない」はジュリーやタイムリーのファンのみなさまにとって、今も「かなり強烈な印象が残っているヒット曲」のはず。
ところが(特にジュリーファンというわけではなかった)僕の世代にとっては、「勝手にしやがれ」直前の、記憶のエアポケットに入ってしまっている・・・正直「隠れたヒットシングル」という立ち位置の曲だったのです。
僕には2005年~06年に”第1期ジュリー堕ち”時代というのがあって、ポリドール期のジュリーのアルバムを友人のYOKO君と競うようにして一気に聴きまくっていたんですけど、『思いきり気障な人生』について
「凄いよなぁ・・・「勝手にしやがれ」「憎みきれないろくでなし」「サムライ」「あなたに今夜はワインをふりかけ」の有名曲が4曲も1枚に入ってるアルバムだぜ!」
とYOKO君に言って
「あんた、「さよならをいう気もない」忘れてるよ!」
と、笑いながら怒られたことを思い出します。
「あなたに今夜はワインをふりかけ」は確かに有名な曲ですが、シングルとしてはB面。本来「大ヒット・シングル満載のアルバム」ということで『思いきり気障な人生』を語るならば、「あなたに今夜は~」の代わりに「さよならをいう気もない」を挙げるべきだろう、というYOKO君の尤もな指摘です。
その後、僕は躊躇いなくこの曲を「名曲!」と言えるようにはなりましたが、再評価がずいぶん遅れてしまっていたシングル曲のひとつ、ということで今回記事執筆にあたって改めて気合を入れて聴くと・・・女性視点の歌詞こともありますが、これは色々と特徴のある、語るべき点の多い名曲だったのだと分かります。
阿久=大野ナンバーの王道のような曲想ですから、「あぁ、あの時代のジュリーらしい感じだな」と以前の僕などは思ってしまっていたわけですが、リリース当時先輩方は「こう来たか!」と驚嘆された曲だったのかもしれない、と今になって考え直しているところです。
それでは、「さよならをいう気もない」・・・今日の記事ではその素晴らしい演奏、ミックス処理についての考察を中心に語っていくことにしましょう。
丁寧に聴いて、新たな発見も多かったですよ!
みなさまご存知のように、この曲はシングルとアルバムとではヴァージョンが異なります。2つのヴァージョンをじっくり聴き比べると、様々な発見があり楽しく想像を膨らませることができます。
最も目立った違いは、エンディング。これは分かり易いですよね。特に演奏に注意せず聴いていても、みなさまアルバム購入時に「エンディングでピアノの見せ場が増えているなぁ」と自然に気づかれたことでしょう。
マスター完成の順序は、リリース時期から考えても間違いなくシングル・ヴァージョンの方が先ですよね。
ただ、よ~く聴いているとこの2つのテイク、「アルバムとシングルで、同じレコーディング・トラックを使用してるんじゃないか」と思われるんです。つまり、「アルバムのために新たにレコーディングした」のではなく、「シングル・リリースの際のレコーディング・トラックを、アルバム制作時に新たにミックスし直した」ということです。
アルバム・ヴァージョンの演奏トラックを、ミックス配置別にすべて書き出してみますと
(左寄りのミックス)
・マラカス
・吸い込む感じの音色のシェイカー
・タンバリン①
・チェンバロっぽい音色のシンセサイザー
・ピアノ①
・アコースティック・ギター
・エレキギター①
(センター寄りのミックス)
・ベース
・エレキギター②
・ストリングス
(右寄りのミックス)
・ドラムス
・ピアノ②
・エレキギター③
・タンバリン②
・ラテン・パーカッション
となっています。
みなさま、「さよならをいう気もない」はジュリーのヴォーカルがメインでド~ン!と耳に入ってくる感じで、バックの演奏は「いたってシンプルだ」という印象をお持ちではなかったですか?
実は、こんなに多くの音が鳴っているんですよ。
しかもそれぞれ、入魂の演奏です。
ところが、そんな演奏をトラックによっては敢えて目立たなく「退かせる」ミックス手法というものが、この時代にはあったわけです。
今の音楽って、すべての演奏トラックが均等に大音量でガンガン鳴っていて、かえって味気なくなっているパターンが多いと思いませんか?
さてこの曲。
マスタリングの使用が同一の演奏トラックだとして(十中八九そうだと思いますが)、シングルとアルバムそれぞれのヴァージョンでミックス処理(音が聴こえてくる位置の左右の配し方など)が異なるパートがあります。
繊細な配置で多数の音のバランスをとり、拡がりを持たせたアルバム・ヴァージョンに対し、シングルのミックスは「中央に厚みを持たせた」感じです(ちなみに「厚みを持たせる」というのは、将棋対局での作戦・陣形を表現する際によく使われる表現です)。
シングル・ヴァージョンは当然ラジオでも頻繁に流れることになりますから、当時の状況を考えれば「モノラル放送にも適した」ミックス処理がなされているのです。
そう考えると、今まで「なんでこんな極端にモノラルっぽい仕上がりにしちゃったんだろう」と不思議だった「ダーリング」や「OH!ギャル」といったシングル・ヒット曲のミックス処理にも大納得。特に「OH!ギャル」については「ミックス、もうちょっと何とかならんかったのかな~」なんて考えていた時期もあって、恥ずかしい話、僕自身が「現代の」大味なミックスをヘッドフォンで聴く行為に毒されていたのだ、ということ。
気づくのが遅過ぎです(汗)。
アルバム・ヴァージョンで確認できるすべての演奏トラックは、ミックス配置こそ違えどシングル・ヴァージョンにも全く同じ音として探し当てることができますが、中には、本当によ~く耳を凝らさないと耳に入ってこないトラックもあります。
例えば、左サイドの「ピアノ①」。
これは、イントロや1番と2番の間の伴奏部で「チャランチャラン♪」と小気味良いアクセントをつけている右サイドの「ピアノ②」(シングル・ヴァージョンではセンターのミックス)とは別の演奏トラックです。
さよならをいう気もない 悲し過ぎて ♪
C Am B7 Em
の箇所で、アルペジオっぽい美しいメロディーを奏でているピアノ・・・アルバム・ヴァージョンではかなり目立っていますよね。
僕は最初、「シングルとアルバムは別のレコーディングで、シングルにはこのピアノのトラックが無いんだな」と思い込んでいましたが、本っ当によく注意すると、メチャクチャ小さい音なんですが同じ演奏がシングル・ヴァージョンの左サイドにも聴きとれるんですよ。
これは、「音量を小さくミックスした」のではなく、「フェーダーは完全に0設定であり、聴こえているのは別の楽器パートのトラックが(同時演奏中に?)拾っている音」かと思われます。この時代特有の現象です。
そしてこの音を発見したことで、この曲の2つのヴァージョンが「レコーディング違い」ではなく「ミックス違い」である、との考察根拠が強まりました。
さらに言えば、この「ピアノ①」のトラックは、アルバム・ヴァージョンの大きな聴かせ所であるアウトロの豪快なピアノ・ソロ(激しいロック寄りのタッチから考えて、羽田健太郎さんではなく大野さんの演奏ではないでしょうか。『太陽にほえろ!』の挿入歌である「デューク刑事のテーマ」での大野さんのピアノ・ソロのタッチと酷似しています)をも含んでおり、シングル・ヴァージョンではそのソロに到達する前にフェイド・アウトとなり曲が終わっています。
「ピアノ①」とは逆に、シングル・ヴァージョンではハッキリ聴こえている音で、アルバム・ヴァージョンの方で聴き取りが難しくなっているトラックが
男と女は いつも悲しい手さぐりで
Am D G Em
心のやすらぎ 求め合うけれど
Am B7 Em
季節を見送る 詩人のように ♪
Am D G B7 Em
の箇所で左サイドに登場する、吸い込むような音色のシェイカーです。
こちらは、アルバム・ヴァージョンのミックスの際に音量設定が絞られているものと考えられます。
また、左サイドのアコースティック・ギター、右サイドの「エレキギター③」の各バッキング・トラックも、アルバム・ヴァージョンでは極端に音量が抑えられています。
これらすべてが素晴らしく入魂の演奏であるのに、シングルなのか、アルバムなのかに応じて容赦なく音量を絞られている・・・その徹底したプロモート戦略に、昭和歌謡曲トップの凄みがあるのではないでしょうか。
「さよならをいう気もない」の場合は、「シングルは派手に、分かり易く」「アルバムは緻密に、深みを持たせて」という狙いが感じられますね。
では、次にジュリーのヴォーカルについて。
いやぁ、やっぱり素晴らしいですね!
加瀬さんに刷り込まれた、というわけでもないでしょうが、この頃になるとジュリー自身に
「俺は”あ~あ♪”が得意!」
という自覚が出てきているように思えるのですが(笑)。
「君をのせて」の時に加瀬さんが「あ~あ♪ってところがいかにも沢田らしい!」と絶賛、ジュリー曰く
「その後ワタシは”あ~あ”と歌う曲が多くなりました」
と語った話はファンの間では有名ですけど、「さよならをいう気もない」はその中でも「あ~あ♪」づくし度が高いシングルと言えますよね~。
あまりに次から次へ「あ~あ♪」が登場するので、2番になるとジュリーが「よっしゃ、来たぁ!」と一層渾身の「あ~あ♪」を炸裂させているように感じます。
ハイヒールを両手に下げて 歩き出す
Em Am
あゝ この場所へはとまれない いたくない
D B7 Em
ミュージカルの場面のようにおかしくて
Am D G
あゝ だけど私 歌えない 踊れない ♪
F B7 Em
う~ん、ひょっとしたらこれは、「沢田、この曲ではお前は女なんだ。女として歌うんだ!」という制作側の指示があって、ジュリーがヴォーカル録りで「あ~あ♪」にその重点を置いて歌った、とも考えられるかなぁ。
いずれにしても、このニュアンスはジュリーしか出せません。一般人がカラオケで歌ったら、どんなに上手い人でも「あ~あ♪」のトコだけマヌケになっちゃうかも。
一般世間、というか音楽業界の「歌謡曲かくありき」とガチガチに頭を固められていた人達が、「あれっ、沢田研二って実は歌も音楽も凄いんじゃない?」と気づき始めたのは「時の過ぎゆくままに」の75年頃だったと思われます(「危険なふたり」の73年頃は、週刊誌などの資料を読むとまだそういう雰囲気は感じません)。
それは、阿久さんの描く男女の情念(後に、男のダンディズム)と、大野さんの作り出す短調進行王道(日本人は元々短調が好きなのです。これは国内と海外の有名な”子守歌”を聴き比べれば明白です)の楽曲が、ジュリーのあの突出した容姿と奇跡のようにマッチし、ここへきて初めてあの美貌が「歌を歌う上での最大の武器」なのだと誰の目にも認識された、ということなのだと僕は思っています。
「立ちどまるな ふりむくな」「さよならをいう気もない」を経た期間、ジュリーは阿久=大野ナンバーを熟成させ、遂に「勝手にしやがれ」で小学生の男子にまでその魅力を知らしめ、完全に頂点に立ちました。
ですから、この時代のジュリーが「歌謡曲」と評されることを僕らは誇りに思います。ジュリーが「歌謡曲」にカテゴライズされるのではなく、ジュリーが「歌謡曲」の概念を作り変えてしまったのです。
そしてその上で、頭の固かった(と想像します)「歌謡曲」既存の体制や概念を塗り替えるほどのジュリーの実力と歴史、歌手人生をして「ジュリー=ロック」と表現したいなぁ、と僕は今思うのですが・・・どうでしょうか。
案の定、今回も長くなってしまいました。
次回はもう少しコンパクトに・・・引き続き「足早に過ぎゆく秋」を思わせる、爽快なお題を探します。
でも、もう記事は書いてしまっているけど、やっぱり「秋」のジュリー・ナンバーと言えば・・・真っ先に「コバルトの季節の中で」が思い浮かぶんですよね~。
みなさまはいかがですか?
P.S.
情報の早いジュリーファンのみなさまのことですから、もうご存知のかたも多いでしょうが・・・リンクフリーだそうですのでこちらでもご紹介させて頂きたいと思います。
死にたくなったら沢田研二に会いにいけ。心底、励まされる
拝見していて、泣きそうになりました・・・。
佐藤睦さんもそうですけど、何故こんなに自然に、突然に出逢ったあのジュリーのステージの神髄、人間的魅力に辿り着き、これだけの短い文章でそれを明快に語れてしまうんだろう?
無駄に大長文の僕は、こんな人に憧れることしきりです。
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