沢田研二 「一握り人の罪」
from『三年想いよ』、2014
1. 三年想いよ
2. 櫻舗道
3. 東京五輪ありがとう
4. 一握り人の罪
(5. みんな入ろ)
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一週間、下書きの段階から書いては直し、書いては直し、を何度も繰り返してきました。
本当に、ジュリーの言ってた通りだなぁ。読み返して「この表現はダメだ」と考えあぐねて、だんだん柔らかい言葉に変わってくる・・・それでも残っている「痛い」言葉もある・・・。
今日はジュリーの新譜『三年想いよ』から、いよいよ最後の考察記事です。4曲目「一握り人の罪」と、シークレット・トラックの5曲目「みんな入ろ」を同時に採り上げたいと思います。
「一握り人の罪」と言えば・・・今、ジュリーファンよりもむしろファン以外の方々のweb上での反応がとても多いようです。一昨年の「F.A.P.P.」昨年の「Fridays Voice」の時もそうでした。
いつも読んでくださっているジュリーファンのみなさまには、今回のこの記事が「楽しい」とは言い難い長文になることを、最初にお詫び申し上げます(この埋め合わせは、次回からサクサクと明るいお題記事を連発してゆくことで頑張っていきたいと思います)。
畏れながら、伝授です!
1曲目「三年想いよ」の記事で書きましたが、僕はこの新譜を仕事からの帰宅途中に購入し、歌詞やクレジットを見ずにまず電車内で通して聴きました。
事前にiTunesのサイトにて各トラックの演奏時間をチェックしていて、僕はそれも参考にしながら楽曲内容を予想したわけですが、いざ実際に聴いた時、この「一握り人の罪」には全4曲中最も意表を突かれました。「怒りと悲しみを前面に押し出したラウド・ロック」との予想に反し、まず耳に飛び込んできたのは、美しいアコースティック・ギターのストローク・アンサンブルでした。
美しいメロディーとジュリーの声に身を委ね、集中して聴いていたバラードが演奏を終えた時、体感としてはちょうどiTunesで表記されていた演奏時間(4分台後半)の感覚があり、ポータブルを取り出し再び1曲目から再生しようとしてふと、無音のままタイムカウンターが刻まれていることに気がつきました。5分を過ぎても、まだカウンターは進み続けています。
「これは・・・最後の最後にドキリとさせるような効果音でも入っているのかな?」
と考えた瞬間に始まったのが、「みんな入ろ」。
ビックリしましたよ。
歌詞カードを見ていませんでしたから、「一握り人の罪」という曲が、「みんな入ろ」の児童合唱部まで含めた形での、6分以上にも及ぶ大作だと思い込んだわけです。
帰宅し確認すると、みなさまご存知の通り、歌詞カード最後のページの桜の木の右上に「作詞・作曲・沢田研二」のクレジットと共に、「5. みんな入ろ」と記して歌詞があり、この短い童謡調の曲がシークレット・トラックの扱いになっていることが判明。
「なるほどこういう手法か」と改めて感心しました。
「シークレット・トラック」というのは邦洋ロックの名盤に幾多の例があります(邦楽については実際に楽曲としてはさほど聴いてはいないのですが・・・)。
トラックを単独で意味深に分けられているパターン(例・ジョン・レノンのアルバム『マインド・ゲームス』の6曲目「ヌートピアン・インターナショナル・アンセム」)もあれば、トラックを分けずに前曲からトータル・タイムの追加でひっそりと収録されているパターン(例・ポール・マッカートニーのアルバム『裏庭の混沌と創造』13曲目「エニウェイ」演奏後の追加トラック「アイヴ・オンリー・ガット・トゥー・ハンズ」)もあります。
ジュリーは今回の『三年想いよ』で後者のパターンを採用したことになります。
(ちなみに、僕はLPを所有していないのでまったく分からないのですが、『JULIE IV~今僕は倖せです』に収録されていたと話に聞く「くわえ煙草にて」は、シークレット・トラック扱いだったのでしょうか?)
こうした収録手法である以上、「みんな入ろ」が夏からのツアーで再現されることは無いでしょう。
あくまで、今年制作した新譜の締めくくりにジュリーが提示し投げかけた1曲、ということ。あとは聴き手がそれに対して何を思うか、です。
無論、手間をかけてそうした手法で収録が為されたからには、「みんな入ろ」にジュリーからの特に重要なメッセージが込められていることは明らかです。
僕の場合皮肉にも、今回のジュリーの新譜が届けられる前後のタイミングで、故郷から歓迎できないニュースが届けられたこともあって、「みんな入ろ」とジュリーから投げられたボールを自分なりの明確な答を得て受け取り、それをこれからこの記事でも書こうとしているわけですが・・・一方で、「どう反応すれば良いのか迷ったファンもきっと多かったんだろうなぁ」というのが率直な想像としてあるにはあります。
「なんだか怖い」という感想もあるそうですね。
「童謡が持つ怖さ」については、『イカ天』でゲスト審査員の大島渚監督が”たま”が5週勝ち抜きを達成した際に、ふと語っていたことがあったなぁ・・・。
それでは、まずは「一握り人の罪」。考察の前半は、純粋に楽曲、演奏、アレンジについて語っていきましょう。
いつものように、鉄人バンドのすべての演奏トラックを書き出してみます。
泰輝さん・・・オルガン(間奏以降同時弾きの左手低音は、右手オルガンとは違う音色のシンセベース)
柴山さん・・・アコースティック・ギター(右サイド)
下山さん・・・アコースティック・ギター(左サイド)
GRACE姉さん・・・ドラムス、マラカス、タンバリン
エレキギターが使われていない、というのがまずこの曲のアレンジの大きな特徴。
当然LIVEでも同じ楽器構成となるでしょう。柴山さんと下山さんの2人が揃ってアコースティック・ギターを持つシーンは本当に久々で、今から楽しみです。
昔 海辺の小 さな
G Am7 G(onB) C
寂れかけてた 村 に
G Am7 G(onB) C
東電が来て
G Am7
原 発 速く 作りたいと
G(onB) B7 Em A7 Dsus4 D
「ひと昔前の話だけど、こんなことがあってね・・・」
と、子供達や若い世代に伝え語りかけるジュリーの歌。また、僕も含めてある程度の年齢以上の聴き手にとっては、「物語」では決してない現実の記憶。そう、これは過去の「誇大でない現実」を語る歌なのです。
今は学校では教えないこと?
教科書には書いてある?
書いてあったとしても受験には関係ない?
左右のアコースティック・ギター2本の伴奏だけで始まる、美しいバラード。
左サイドの下山さんのアコギが、「カガヤケイノチ」のストロークにあまりにそっくりな音色でドキリとします。
一体どうしたら、こんなにキレイでシャキシャキな音が録れるんだろう・・・?
もちろん楽器それ自体の素晴らしさ(下山さんが「新しい娘」としてこのアコギを紹介してくれていたのは、2011年末のことでしたね)や、下山さんの技術の高さもあるでしょう。それに加えて、レコーディング手法にも秘密があるように思われます。下山さんならではの、「こう!」というやり方がきっとあるのでしょうね。
一方右サイドの柴山さんのアコギには空間系のエフェクトが施され、幻想的な音色になっています。
柴山さんの音は「昔」、下山さんの音は「現在」として、ジュリーの「読み聞かせ」での時間軸のリンクを表現しているのでしょうか。それは深読みとしても、「昔」と「現在」を行き来するのがこのジュリーの歌詞の特性であり、その「読み聞かせ」は物語ではなく現実です。「櫻舗道」の記事でも書いた「誇大でない現実を歌う」作詞手法が、「一握り人の罪」では徹底されていると感じます。
Aメロの「G→Am7→G(onB)→C」と流れる淡々としつつも美しい響きは、泰輝さんの大好きなアーティストでありピアニスト、ビリー・ジョエルの得意技。CD音源のアコースティック・ギター・トラックだけ聴くと「G→Am7→G→C」と聴こえるのですが、メロディーから考えて、泰輝さんの鍵盤での作曲段階では左手を「ソ→ラ→シ→ド」と上昇させていたものと推測されます。
僕にとってビリー・ジョエル・ナンバーの中で5本の指に入るほど好きな、隠れた名バラード「場末じみた場面」のAメロにも登場するコード進行。泰輝さんに、この曲への意識はあったのかなぁ。
ともあれこのAメロは、いかにも鍵盤奏者の作曲作品ならでは、という進行です。これがギタリストの作曲ならば、同じメロディーでも和音は「G→Am7→Bm→C」と当てる方が有力で、この場合はビートルズの「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」のようなアレンジになっていたかもしれません。もちろん”音の料理人”である泰輝さんにはギタリスト的なコード感覚もあって、歌メロではなくオルガンのフレーズにそれが反映されています(2’00”、4’29”で登場するフレーズ)。
オルガンと言えば、間奏のソロも本当に美しいです。
ジュリーの「僕らに還して国を」という歌詞を受けていることもあり、ただ美しいだけでなく、寂しさだったり、嘆きだったり・・・被災地の人達の揺れ動く感情をも思わせます。というのも、この間奏はそんな人々の心の動きを表すかのように、なめらかに転調を繰り返しているんですよね。
左手で同時弾きしていると思われるベース音は、基本2分音符のロングトーン。これがまた優しくて切ない。そして、ここにベース音があるのと無いのとでは、サビ直前にフィル・インするドラムスへの効果が全然違うのです。
GRACE姉さんのドラムスが全面参加するのはそのフィル・イン以降のサビ部で満を持して、という感じですが、それ以前にハイハットのみのフィル部があったり、間奏ではマラカスとタンバリンが登場して細やかにオルガン・ソロをバックアップします。
LIVEではこのパーカッション・パートが再現されるのでしょうか。夏からのツアー、注目ポイントのひとつです。
あと、この曲には印象的なS.E.も採用されています。
川のせせらぎ、水の流れが何かをゆっくり動かすような音・・・でしょうか。
同じようなS.E.をクラトゥーというバンドの曲で聴いたことがあるような気がしますが、まだ該当曲を見つけられていません。
このS.E.で、僕の頭には田園風景が浮かびます。田んぼに沿って流れる小川と、古い水車、清らかな水の小さくもゆったりとした流れ・・・そんな風景です。
おそらく自分の幼少時代の記憶から引っ張り出されてきたものでしょう。
「一握りの罪」はこのように、メロディーや演奏、アレンジに非のうちどころのない大変な名曲です。
ただ、ジュリーの歌詞を読み歌を聴くと、そんな感想だけで考察記事を終えられる曲ではもちろんありません。
個人的には「よくぞこのテーマで、詞曲がガッチリ噛みあったなぁ」と考えていて、ジュリーの歌詞と泰輝さんのメロディーに僕はいささかの乖離も感じません。
これほどまでの「言いたいこと」が、こんなに美しい声で、メロディーで、演奏で歌われることは奇跡です。ジュリーの音楽制作環境は、かつてないほど充実していますし、そもそも、そうした環境も含めてここまでの「境地」を手にした歌手というのは他にいないのではないか、と思います。
しかし「一握り人の罪」については一方で、「美しい曲なのに歌詞が重くて・・・」と仰るファンも大勢いらっしゃいます。それもまた正直な感想なんだろうなぁ、とも思うのです。やはり、内容が内容だけにね・・・。
繰り返すようですが、僕個人は本当に皮肉なことに、「一握り人の罪」、そして続くシークレット・トラック「みんな入ろ」の歌詞をストレートに受け取ることができる体勢が思いもかけず整った(そうならざるを得なかった)タイミングで、今回の新譜を聴いたのでした。
この先書くことはジュリーの歌詞の読解と言うより僕個人の思いであろう、ということは最初に申し上げておきます。それでもきっとご批判もあるでしょうが・・・。
僕の心をざわつかせているのは、「みんな入ろ」に登場する「せんちゃん」が今まさに「僕は入らない!」と駄々をこね始めている、という問題です。
「せんちゃん」・・・日本最南の原発。
遠い遠い田舎の片隅のことで、みなさまあまりこの土地をご存知ではないでしょう。
僕の故郷、鹿児島県の西部に位置する、県内で3番目の人口を擁する町が「薩摩川内市」。市の最西部、東シナ海に面して建てられた九州電力川内原発が「せんちゃん」です。「川内」は「せんだい」と読みます。
川内原発再稼働については昨年から話がくすぶっていて(3年前の震災以前には増設の是非を巡る問題もあったようです)、「まさかなぁ」と思っていたら、今年に入ると「再稼働有力」との情報を全国紙でも見かけるようになりました。
気が気でない中で僕はジュリーの『三年想いよ』を聴き、その翌日、再稼働具体化が公式に発表されました。
地元の反対派の方々の「まるで出来レースじゃないか」という怒りの声をネットで知りました。
ただ、県はどうやらやる気満々。そして、県人の意識としてはどちらかと言うと推進派、或いは「再稼働やむなし」の声の方が大きいとされているではありませんか。まずそうした全国紙報道が果たして真実なのかどうか、と疑ってしまっている現状です。
確かに、多くの鹿児島県人には保守的気質があります。僕はそれを特に嫌だと感じたことはないけれど、他県では考えられないような絶対男性上位の考え方などは今でも根強いです。
話せばみな穏やかで暖かい人達でのんびりしていますが、目的が一致した時の強い集団団結力もあります。今、そうしたことが再稼働に向かってしまっているのでしょうか。
しかし・・・2012年に南大隅(県本土の南東部)に核廃棄物処理場誘致の話が持ち上がった時には、地元の方々を中心に反対運動が起こり、県として拒否したという経緯もあります。
何故今回、川内原発再稼働推進の機運となっているのか・・・まだよくは分かりません。「取り戻せない平穏な暮らし」を想像してみようとする人が県内にどれほどいるのだろうか・・・それも分かりません。
もちろん、強い反対の声も多く上がっています。
その中に、ジュリーが選挙応援した彼も噛んできています。実名を出せずにごめんなさい。彼の名前を出して政治的なことをweb上に書くと、すぐ荒れてしまうのだそうです。まぁ、それでも覚悟はしておかなければいけないのでしょうが・・・。
実は僕はこれまで、彼をあまり快くは思っていませんでした。ジュリーが応援した人なのに、何故そんなことするかなぁ、何故そんなこと言うかなぁ、と感じたことが度々ありました。
でも正直、今回の彼の行動は嬉しかった。
鹿児島では今、彼は相当叩かれていると思います。
再稼働反対派の人達からさえ疎んじられている状況も、もしかするとあるのかもしれません。鹿児島は、都会からやってきた人が物事を仕切る、ということに強い抵抗感を抱く土地柄ですからね・・・。
ただ、彼が前面に立つことで、今月行われる鹿児島2区の補欠選挙が全国的なニュースとなっています。新聞によってずいぶん扱いの差がありますけどね。
それでも、「何で彼がわざわざ鹿児島までしゃしゃり出てるの?」という興味本位の疑問から、川内原発再稼働をとりまく差し迫った現況を初めて知る人もいるかもしれません。これまでは、全国的にはほとんど詳細報道が無かったのです。
薩摩川内市は、僕の実家がある霧島市と隣接しています。隣接と言っても、2つの市共に、近年になって合併して大きくなった市で面積も広いですから、川内原発と僕の実家では結構な距離がありますけど。
とは言え、万が一今回の福島原発のような過酷事故が川内で起きてしまったら、霧島市にも重大な影響が必ずあります。
「鹿児島」は「カゴシマ」と記されるようになり、南風が吹く日に桜島の噴火があれば、「死の灰」などとメディアに書きたてられ騒がれるのでしょう。
川内のすぐ北にある「出水」という町は鶴が渡ってくることで全国的に有名な所ですが、どう対処するのでしょうか。
そのまたすぐ北は、もう熊本県の水俣です。
毎日流れてくるであろういたたまれない故郷のニュースに、僕は黙って耐えられるだろうか・・・実家も含め、近辺に暮らす肉親や友人達は、どうするのだろうか。
こうして書いてみると、僕はいかにも鹿児島のことしか考えていない身勝手な奴のようです。
それを否定などできません。恥ずかしいことですが・・・「もし自分の故郷が」と考えて初めて思い至ることがあり、今まさに福島の事故後苦しんでいらしゃる方々への気持ちもまた変わってくる、ということが確かにあるのです。僕のような人間は、そうでもしないとなかなか辿り着くことのできない気持ちです。
福島については事故後に世間で色々な考え方が複雑にせめぎ合っていて、その中には僕の思いとはかなり違うものもあり戸惑うことがあります。
それだけに、今年ジュリーがツアーで南相馬に行く、と知った時は嬉しかった・・・。
ただ、鹿児島公演が無いことが残念です。あったら、無理してでも参加したと思います。こんな時だけにね。
まさか「東電」を「九電」に変えて歌ったりはしないと思いますが、ジュリーの宝山ホール公演を主催している南日本新聞は、ジュリーのメッセージをきちんと伝えられる懐がありますから、川内原発再稼働に反対する一般の方々も、LIVE翌日の南日本新聞を読んで大いに力を得られただろうになぁ、と思ってしまいます。
さてここで、ジュリーが歌った、過去の「誇大でない現実」について思い出してみましょう。
30年ほど前・・・ちょうど、ド田舎の「寂れた」町から華やかな都会へと上京した僕が大学生活を送っていた頃になりますが・・・テレビ朝日の『朝まで生テレビ』という討論番組が、深夜枠では異例の高視聴率を得て放映されていました。
司会の田原総一朗さんを筆頭に、錚々たるパネリストがレギュラー、ゲストに顔を揃え、様々な社会問題をそれぞれの立場、考え方から徹底討論するという内容で、この番組で知名度を上げたパネリストは数知れず。つい最近、東京都知事となった人もその一人。僕は当時、レギュラー・パネリストの中で一番分かり易く、かつ核心を突いた話をしてくれる人、と好印象を持っていたものでしたが・・・。
番組では「何度採り上げてもなかなか結論が出ない」ということで、数回にわたり討論テーマとして採り上げられていたのが、「原発」の問題でした。
本当に「今だから」言えることは・・・あの頃の議論は争点がズレまくっていたんだな、と。
「何だかよく分からないけど、とにかく怖いから建設そのものに反対」という考えでは、誰も深い議論に入っていくことはできませんでした。どちらかと言うと、「大きなリスクとどう共存していくのか、またはするべきなのか否か」が大きな争点となっていました。
「怖いか怖くないか」ではなく、「必要なのか必要でないのか」が論点でした。討論番組ならばそれは必然の流れだったかもしれませんが、「怖さ」を実感しよう、想像してみようとした人は少なかったように思います。
推進側はもちろん、反対側の多くの人達にしても、30年後の過酷事故を予測できたはずもなく、「事故が起こったら」と必死に声を上げた僅かな参加視聴者は、「博識な知識人」達の議論の中で次第に萎縮していくしかなかった・・・そんなシーンがまざまざと思い出されます。
東電側も信じた
G G(onF#)
受け入れ側も信じた
Em Em7
安全神話鵜呑みに
C G11(onB)
一握り人の罪
Am Dsus4 D
どちらの立場としても、当時は結局「過酷事故は起こらない」と「信じる」しかなかった。そう思い込んだ上で、話を進めていくしかなかった・・・それが「安全神話」の正体だったのかもしれません。
でも・・・もちろん「知識人」の議論とは別のところで、「安全なはずがないだろう」とシンプルに考えた著名人は当時から大勢いたはずです。今考えれば、RCサクセションの「サマータイム・ブルース」はそういう曲だったわけですし。
それをキャッチできなかった僕らの責任は重い、と思います。他でもない「安全圏」に身を置くと信じていた僕らが「気づき」に向かおうとしていなかっただけではないか、と思います。
かつて土地の人々の反対意見を「機動隊投入」で封じた・・・?そんなことがあったんだっけ・・・?
と、僕が格別常識知らずで酷いのかもしれませんが、僕はそんなレベルで「一握り人の罪」を突きつけられているという状況。
とすれば、当時「自分は外野」と決めこむことに何の疑問も持っていなかった僕のような者こそ「一握り人」に含まれるのかもしれない、と・・・考えは堂々巡るのです。
結果、各地に原発は作られました。次々に。反対意見は軽んじられて。それは厳然たる事実。
ジュリーの作詞には、初聴時に耳で聴こえる言葉と、文字(歌詞カード)とが違うというパターンがままあります。当然、ジュリーはダブル・ミーニングとして敢えてそうした手法を採り入れているかと思いますが、「一握り人の罪」にも強烈にそれがありました。
原発に乞われた町
G G(onF#)
原発に憑かれた町
Em Em7
神話流布したのは誰
C G11(onB)
一握り人の罪
Am Dsus4 D
このはじめの2行・・・僕には「原発に壊れた町」「原発に疲れた町」と聴こえました。
「最初に歌詞カードを見ずに聴いた」と仰るみなさま、ほとんどそう聴こえたのではないでしょうか。
ある先輩が仰っていました。「文字ではなく、耳に聞こえる言葉の方がジュリーの心の叫びなのでは」と。
そうかもしれません。
また、解釈の仕方によっては、「乞われた町」「憑かれた町」は、寂れた土地に東電がやってきた頃のことを表し、「壊れた町」「疲れた町」は今現在の状況を表している、と考えられなくもありません。
ジュリーはどんなふうにこの歌詞を作っていったのでしょう。最初に「壊れた町」「疲れた町」と書いて、後から当てる漢字を変えたのかな・・・それとも最初から2つの意味を持たせることを決めていたのか・・・。
「詞を作っている時、被災した方の心が痛むかなと思って、だんだん柔らかい言葉に変わってくる。それでも『痛いけれどよく言ってくれた』という歌詞が残っていたら、僕は救われると感じる」
これまで何度も引用してきましたが、先の3月2日付の毎日新聞夕刊に掲載されたジュリーの言葉が、「一握り人の罪」を聴くと胸を突くように思い出されます。
だからこの曲は、痛いけど柔らかい。僕はたまたま故郷の問題があって、今回こういう記事を書いてしまったけれど、本来はああだこうだと考えるよりもまず、柔らかな歌に身を委ねるべきなのでしょう。
大切なのは理屈じゃなくて人の心なんだ、シンプルなことなんだ、とジュリーに言われたように思います。
額に皺の寄るような話を長々としてしまいました。
改めて最後に、僕が「一握り人の罪」という名曲に特に感動させられた点を2つほど挙げて、記事の締めくくりとしましょう。
ひとつは、これはもうほとんどのジュリーファンのみなさまが同じように感じられているのでしょうが・・・1番の「嗚呼無情」でのジュリーの「嗚呼」というヴォーカルです。
息を飲むしかないですね。(レコーディング音源としては)本当に久々にジュリーの「ああ」が降臨しました。
LIVEで思い出されるのは、昨年の『Pray』ツアー、セッットリストの大トリで歌われた「さよならを待たせて」。今年は、それ以上の「ああ」が「一握り人の罪」の生歌で聴けるはずです。感嘆よりも、深い悲しみをたたえたものにはなるのでしょうが・・・。
もうひとつは、「狂った未来」に「待った」をかけ、続く歌詞フレーズ「繰り返すまい明日に」に視界がパッと開けるような光を投げかけてくれた、泰輝さんの素晴らしいアレンジ・アイデアです。
「一握り人の罪」のサビのメロディーは、1番、2番にそれぞれ2回連続して、合計4回登場します。当然すべて同じメロディーになっているのですが、2番の最後のリフレインのみ、それまでとはコード進行が一変し、ジュリーの声が一層美しい響きで伝わってきます。
「理屈は分からないけど、最後のサビが特にグッとくる」と仰るかた、いらっしゃいませんか?
原発に怯える町 原発に狂った未来
G B7 Em Dm7 G7
繰り返すまい明日に 一 握り人の罪
C G11(onB) Am Dsus4
嗚呼無情
D G
太字で表記したコードネームが、変化している箇所です。特に「未来」に当てられた「Dm7→G7」が本当に素晴らしい!
この進行自体は、ポール・マッカートニーの「ブルーバード」や「もう一人の僕」「ア・サートゥン・ソフトネス」などの曲で僕も会得しているつもりでいましたが、超王道の「G→Em→C」の進行をこんなふうに変換させる手法があるんですね。
「最後の1回だけ」というのが泰輝さん会心のアイデアだと思います。ジュリーや鉄人バンドのメンバーは、曲が提示された段階ですぐにこの変化に気づいて「いいねぇ!」と大絶賛だったんじゃないかなぁ。
今年もまた、色々と考えさせられる新譜でした。
感じるものは人それぞれ違うでしょう。でも、この4曲が夏からのツアーでどんなふうに再現されるのか、それを大きな楽しみに今は待ちたいと思います。
そうそう、ぴょんた様のブログを拝見して「あ、そうかも!」と目からウロコだったのが、1曲目「三年想いよ」に登場する、歌メロと同じ音階を弾くリード・ギター・トラックについて。
ぴょんた様は、1番後の間奏が下山さん、アウトロ1回し目が柴山さん、2回し目以降が2人のユニゾンではないか、と推測していらっしゃいました。これ、改めて聴き直してみると、確かにそんなふうに感じるんです。
それなら、ギタリスト2人が各2トラックを担当してレコーディングしたことになり、作業バランス的にも納得。LIVEではすべて柴山さんが弾くかもしれませんが、CD音源についてはぴょんた様の仰る通りかもしれない、と手を打ちました。さすが、そのあたりは愛情が考察を深める、ということでしょうね。僕の場合はどうしても、理屈から型にはめようとして考察してしまうから・・・いやいや勉強になりました。
僕はこれからもこの名盤を繰り返し聴きまくって過ごしますが、ブログの方は一転しまして、LIVEではなかなか聴けないようなジュリーの様々な時代の名曲をお題に採り上げ、楽しい内容の楽曲考察記事をしばらく続けていく予定です。
なるべく短めの文章で(汗)、そのぶん更新頻度を上げていければ、と思っています。
よろしくお願い申し上げます!
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コメント
DY様 こんばんは。
まだ全部ちゃんと読んでないのですが、「JULIE Ⅳ」の「くわえ煙草にて」
について。CDには入ってないんですね。
CDを買ってレコードをしまいこんでしまったので記憶ですが・・・曲名の前に番号の代わりに「?」マークが付いてる・・・。
「シークレット・トラック」と聞いて「あー、そう言うんだ」と今更知りました。
スタジオで井上バンドのメンバーと打ち合わせしている雰囲気。そして最後にジュリーが弾き語りで確信に満ちた歌い方で
「今僕は倖です。何よりも歌がある。」
で締めくくってたと記憶しています。
童謡は・・・深く聴くと悲しく怖い歌がたくさんあります。
「しゃぼん玉」
「ちいさい秋みつけた」
背景や学校で教わらなかった2番以降を聴いて衝撃を受けた曲です。
半分しか読んでない段階でのコメント、失礼しました。これからじっくり読ませていただきます。
投稿: nekomodoki | 2014年4月 3日 (木) 23時06分
追伸
レコードが見つかったので溝の区切りを見たら6曲分でした。B面は6曲ですから6曲目の「お前なら」につながっているということになるのかな。でもだったらCDもそうしてくれればいいのに、と思うのですが。
投稿: nekomodoki | 2014年4月 3日 (木) 23時19分
DYさん、お邪魔します。記事のお題と関係ない枕になることをお許しください。
私は小学生の頃、本気で科学者になることを夢見ていました。大人向けの有名科学雑誌を購読していたこともあります。しかし、中3になってから、数学が絶望的に苦手であることが判明し、私のリケジョへの夢は儚く潰えました。それから、長い年月が経った3.11後のある日…TVの報道特集で、日本で初めて原発が稼働した時、開発者はもちろんのこと、日本の科学者たちが目を輝かせて喜んだことを知りました。個人的には、その気持ちは分かります。鉄○ア○ムだって、世に出たときは、原子力で動く設定だったんです!手塚先生が、自ら掲げる「反戦」というテーマとア○ムの設定が矛盾することに気づいたのは、かなり後でした。でも、手塚先生の作品に、原発の危険性を描いたものはありません(放射能の恐ろしさを描いた作品は何点かあります)。安全神話は理系の夢の産物だったのです。それを知る私は、楽曲のタイトルと詞が心に刺さりました。でも♪嗚呼 無情♪で救われました。科学が誤った選択をしたことも含めて、ジュリーは、無情という言葉を使ったのだと信じています。
投稿: 74年生まれ | 2014年4月 4日 (金) 01時24分
追伸です。
東京新聞の手塚先生へのインタビュー、読みました。手塚先生は、一個人としては原発に反対だったけど、原子力その物は全否定していなかった…手塚先生が3.11後の原発事故の時に、ご存命だったら、どう思っただろう、と今でも、ときどき考えます。
投稿: 74年生まれ | 2014年4月 4日 (金) 02時08分
DY様へ
御伝授有り難うございました。
新譜を毎日聴き乍ら、少しでも“ジュリーの想い”に近づけたら…と、思っております。
◇『三年想いよ』 意図的に?
…それとも「コトの本質」に目を向ける力がない? …世の中、当たり障りのない歌詞・フレーズを並べるだけの“キレイ事”復興応援ソングばかり…耳に障らない? 歌しか認めない風潮・・・ 実は、危険なんですよね。
ジュリーの想いが、どうぞ、一般ピープルに届きます様に!!
♪一縷 …今も『Deep Love』を聴くと、涙が溢れ出ます。
◇『櫻鋪道』 道路に面した拙宅の庭の八重桜が、もうすぐ満開…今年も近所の人に仰いで頂ける(ホッ!) …「ここで見せて貰えば、花見に行かんでも良いわ〜」と御世辞? を言って頂ける(爆)、“いつもの春”がまたやって来て・・・ 平和に感謝!! 福島の櫻鋪道に想いを馳せ乍ら。
◇『東京五輪ありがとう』 新譜の中で、いちばん気に入って直ぐに覚えました。声も好き…歌詞を替えたら? 充分ラブソングになる名曲!! そして? 何回も聴いていたら? 下山さん作曲の…♪Don't cry Donald 〜“♪忘れてならない 何年たっても〜”「静かな民」は“希望の灯”〜 が脳裏に甦りました。
カズさんの作曲、GOOD JOB
ジュリーの“気持ち中心”の?
楽曲なら、この様な“心地好い仕上り”にならなかったかな?
◇『一握り人の罪』と『みんな入ろ』 “攻めの歌詞”すぎて、毎日聴いてもやっぱり? 心が粟立ち、ささめきます。それでも、ジュリーが歌いたい歌を作ることを続けてほしい…福島で、被災地で、起き続けていることを“正しく伝える歌”を書けるのは…今は、ジュリーしかいないのは残念ですが…真摯に理解してくださる“良質な音作り環境(*プロフェッショナルな仲間) ”に恵まれて…ジュリーの天命なのだと思えるから。
Jファンの“希望の灯”・・・ DY様の御伝授、感謝しています。
投稿: えいこはん | 2014年4月 4日 (金) 07時11分
nekomodoki様
ありがとうございます!
「しゃぼん玉」の2番は本当にドキリとしますよね。子供の頃に2番まで歌った記憶もありますが、深くは考えていなかったように思います。その怖さに気づいたのは、大人になって仕事で童謡に触れるようになってからのことです。
「ちいさい秋みつけた」については、「おへやは北向き、くもりのガラス」の箇所ですか。
なるほど確かに「秋の訪れ」以上の何かを感じますね。
レコードに送り溝が無いということは、「くわえ煙草にて」は今回の「みんな入ろ」と同じ収録スタイルでのシークレットトラックということになりますね。
わざわざ調べてくださり恐縮です。ありがとうございました。
☆
74年生まれ様
ありがとうございます!
僕も数学はダメでした。確率や統計だけは何故か得意でしたが…。
東京新聞の手塚さんの記事、お読みでしたか。
僕はあの記事連載を読んで、一度は「atom power」の考察記事を書こうとしたんですよ。
ただ、できませんでした。どんなに真摯に書いたとしても、ジュリーの詞の意図はこうだったんじゃないか、と書いても、あの時は「まだ書く時期ではない」と思ってしまいました。その気持ちは残念ながら未だに続いていて、あの新聞記事はまだ僕のデスクの片隅に取り置かれたままです。
「書こうか」と思える日が早く来ると良いのですが…。
☆
えいこはん様
ありがとうございます!
今回の新譜はまず、曲調の穏やかさ、柔らかさ、ポップ性がジュリーの直球の歌詞を聴きやすくしていると思います。
柴山さんもそうですが、各メンバーがもう、何の不安もなく自作のメロディーに取り組み、ジュリーがどんな剛速球を投げ込んできても受け止めることができるようです。
特にここ3作は、いくらジュリーの信念が強くとも、それだけではこれほどの作品にはなりえなかったでしょう。
そして、僕は今年の『三年想いよ』はいよいよ結実したな、到達したな、という感想を持っています。
鉄人バンドやレコーディングスタッフさんはじめ、ジュリーに近い方々の思いもビシビシ感じることのできる名盤だと思います!
投稿: DYNAMITE | 2014年4月 4日 (金) 12時59分
DY様
歌詞については、
まず、
原子力発電を推進するという
「国策」
が決定され、
次に、
この国策を実行するために、
「原発村の住人」
に安全だという立場で発言することを義務づけるとともに、
「利権」
を与えることで推進派を増やすという手法を採っただけで、
そもそも、鵜呑みにできるだけの
「安全神話」
すら、最初からなかったような
「直感的なイメージ」
がどうしても払拭できない私には、
東電側や受入れ側が
「安全神話を信じた」
という部分が、
原発村の住人や利権を得た一部の人間も
「安全神話に騙された犠牲者である」
という風に聴こえてしまうので、
まだすんなりと耳に入って来ない面もあります。
ただ、歌詞のテーマそのものについては、私の事前予想の範囲内かな?とも思います。
一方、曲想は全く読めませんでした。
ただ事前予想コメには書くほど私の中で整理できてなかったので触れませんでしたが、「曲先」、かつ、タイトルが批判的な意味を連想させるような「造語」だったことから、「ビート優先」、「語感優先」で、サビにタイトルが連呼されるパターンの激しめの日本語ROCKもありえるかな〜?とは、ボンヤリと考えてました。
ところがフタを空けてみれば、なんとフォーク調
見当違いも甚だしい(苦笑)
歌詞の内容が従来以上にヘビーな分、単なるアジテーションとしてではなく、問題提起として、ちゃんと伝えたいというのが、やはり、ジュリーの意図でしょうか
投稿: Mr.K1968 | 2014年4月 4日 (金) 21時51分
あらためまして、DYさん、「三年想いよ」全曲伝授、お疲れ様でした。
「一握り人の罪」での歌唱を最初に聴いた時『おお!こうきたか!』と思いました。過去の「誇大でない現実」を語る手法は「我が窮状」で確立した表現。抜くべくして抜いた刀ですよね。でも、1番の「投入」と2番「国を」では、ジュリーの怒りを感じました。「投入」の「う」は濁点が付いた「う゛」になっていて(耳で、このような母音を聴いたのは、初めてです)、「国を」は、込められた怒りの凄まじさに、正しい意味で鳥肌が立ちました。でも、その後に続くサビでは、あえて柔らかく歌うところに、ジュリーの進化を感じます。
ボーナストラックの「みんな入ろ」は、頭より心に直接、入り込む楽曲だと思います。あえて、児童合唱団の子どもたちに“歌わせている”ことも、その効果を増幅しています。ジュリー自身も含めて、大人が歌ったら、頭で考えてしまう曲になっていたでしょう。個人的な感想ですが、ジュリーは無垢な子どもたちの歌声に乗せて言葉を解き放つことによって、ある種の呪(しゅ)をかけたように感じました。ジュリーにしか作れないものであり、私は、こういうものを生み出すジュリーの感性に惹かれ続けています。
投稿: 74年生まれ | 2014年4月 6日 (日) 09時49分
お返事遅れて申し訳ありません。
☆
Mr.K1968様
ありがとうございます!
本当に、この曲がアコースティック・ギターがメインのバラードというのは意表を突かれましたね。タイトルからはどうしても激しいロック・ナンバーを予想していまいましたが…。
ギタリストの下山さん作曲「櫻舗道」がピアノメイン、ピアニストの泰輝さん作曲「一握り人の罪」がアコギメインというのも、鉄人バンドのさらなる進化の証と言えるアレンジだと思います。
仰るように、きちんとこの問題を提示するにはしっかりバラードで歌う必要をジュリーは考えたのかもしれません。それはまた、それだけヴォーカリストとして傑出している、ということでもありますね。
☆
74年生まれ様
ありがとうございます!
僕はジュリーの社会性の高い歌詞を大いに支持しますが、「我が窮状」はジュリーの考え方を聴き手に提示し問いかけたもの、「一握り人の罪」はなかなか語られない事実を歌い伝えたもの、とそれぞれ作詞アプローチが異なるように感じています。
「みんな入ろ」は、やはりこの問題について、次の世代の子供達に未来を託すという気持ちがあったのかなぁと思います。そしてそのまた先の世代へと、ずっと伝えていきたい、伝えて欲しい、という願いでしょう。
単に「子供たちが歌う」手法だと、かえってあざとくなることもあり得ますが、「一握り人の罪」に続くことでテーマにいささかの雲りもなく、シンプルに伝わってくるものがありますね。
投稿: DYNAMITE | 2014年4月 7日 (月) 09時12分
DYさん、『三年想いよ』の完成、おめでとうございます。入魂のご考察ですね!
初聴でまず好きになったのがこの曲です。
間奏部のオルガンラインの何と甘美なこと、そしてアコギとの素晴らしいコンビネーション。
最後のサビのコード進行も素敵です。
この美しいメロディーに載っているのが原発の問題。
でも、ギャップを感じませんでした。DYさんと同じように、「詞曲がガッチリ噛み合っている」と感じます。
行政側に端を発した原発にからむ利権の授受は、しくみを作った側に罪があるとしても、それに従った(従わざるを得なかった、さまざまな圧力をかけられたにせよ)弱い立場である受け入れ側の選択により成立するわけで、そこに罪を憎むよりさらに深い、行き場のない悔しさや悲しみがあるように思います。
『一握り人の罪』は、我々(敢えて我々と書きます)が犯した取返しのつかない過ちが感情過多にならずに語られ穏やかな曲調に載っていることで、同じ過ちを犯してはならないというジュリーのメッセージが、一層心に沁みてくるようです。
P.S.「悪名」楽しかったです! ジュリーも柴山さんも元気元気、ドラムスの音もカッコよかったです♪
投稿: Gin Rickey | 2014年4月 7日 (月) 21時37分
DY様 こんばんは。
子供のコーラス、で思いだした曲が
「この僕が消える時」
ひとつ共通点があって、ジュリー自身がいなくなったあとの世界に向けて歌ってるってことです。
「こんな消え方でいいのかなぁ?」
見たいな感じですし。
「一握り人の罪」
良くも悪くも自分達の世代がやったことの結果はすべて未来を生きる者が引き継いで背負っていくしかない・・・。
だからこそ、自分の世代の過ちは事実をたんたんと検証しなければならない。
歌詞もメロディもそんな風に語っているかのように感じました。
「鉄腕アトム」が原子炉を内蔵したロボットという設定なのは知っていましたが、当時は原爆という間違った利用法に対しての、それが正しい利用法、という感覚だったように思います。(破壊のための爆弾と工事のための爆薬、の違いというような理解)
悪用やヒューマンエラーを考えなければ、ですが。
ただ「atom power」については私は「原子力」というよりは文字通り物質の最小単位である原子それ自体のことを指しているのではないかとも思ったのですが。
すべての物質はこれから出来ているのですし、結合によって様々な姿に変えても無くなることはないのですから。
投稿: nekomodoki | 2014年4月 7日 (月) 21時41分
Gin Rickey様
ありがとうございます!
嬉しいですね…僕も本当に、純粋にそう思うんですよ。「詞曲ガッチリ噛み合っている」と。
普通このようなテーマの詞であれば、どんな曲でもなかなかメロディーの素晴らしさって詞と分離して頭に入ってくるもののように思えますが、「一握り人の罪」は詞曲同時にスッと染みてくると言いますか…。僕が変わっているのかなぁと思ってしまうところだったので、すごく安心しました。
『悪名』は残念ながら参加を断念しましたが、DVDで映像に残ることが幸いです。曲も多く歌われると聞いていますが、柴山さん達の音楽はこの劇のための書きおろしなのかなぁ、ということをはじめ、気になることがたくさんあります。
☆
nekomodoki様
ありがとうございます!
「この僕が消える時」については、ある先輩も同じことを仰っていて…なるほどなぁ、と思います。子供の声はさすがに分かりますが、「ジュリーのいなくなった後の世界」という共通点にはまったく思い至りませんでしたよ…。
そして…なるほど「atom power」については、小さな物質単位としての「原子」ですか。
「基本の力」「元々備わっている力」「誰しも持つ力」ということになりましょうか。
これまた考えてもみませんでしたが、言われてみますとジュリーならそんなことを考えそうな気がしますね。目からウロコです!
投稿: DYNAMITE | 2014年4月 8日 (火) 21時00分
DY様
前の私のコメは、ちょっと言葉足らずだったかもれませんので補足します。
受け入れ側でも、十分な情報が与えられなかったり、選択の機会すらなかった人が大多数なのではないか? そして、この方達こそ「犠牲者」なのではないかというのが、私の直観的なイメージです。
一方、「利権」を受け取った一部の人間は、もし弱い立場で従わざるを得なかったとしても、自分が選択するという局面があり、なおかつ「利権」という経済的に大きな見合いがあるということになります。
フィクションかもしれませんが、大規模な公共工事の地元調整や選挙の票田づくりなどでは、この「利権」は、まず「自治会長」や「商店連盟会長」など、いわゆる影響力のある地元の有力者を落とす手段として用いられ、その「有力者」が手にした大きな「利権」のごく一部だけが、細分化されて他の多くの住民一人一人に再分配されることが多いと聞きます。
詳しいことを知らなくても、日頃お世話になっている地元の有力者から、突然、明日から収入が増えると言われれば、それを阻む人は少ないでしょうし、地方在住のご高齢の方たちなら、ありがたいと感謝することすらあるのではないか?と想像します。
受け入れ側では、この「有力者」こそ「一握り人」であり、上の例で言うところの「地方在住のご高齢の方たち」に該当する大多数の住民は「犠牲者」である、ただ今後は「犠牲者」だからと言って、怒り、悲しみ、嘆くだけでなく、「この過ちを繰り返さないようにしよう」というのが、ジュリーが言いたいことだと私は解釈してます。
ところが、「東電側」も「受け入れ側」も「信じた」という歌詞は、「信じた」という言葉に対して私が持つ「汚れを知らない、純粋無垢なイメージ」が強すぎて、「一握り人」も「心の底から安全神話を信じて純粋に選択した」という風に聴こえてしまい、先述した「ジュリーの言いたいこと」に対する私の解釈とイレギュラーを起こしてしまうので、まだ、「すんなりと耳に入らない」というのが、前の私のコメの主旨です。
ですから、決して歌詞と曲がバラバラで噛み合っていないという意味ではありません。
むしろ、バラードであるからこそ、ジュリーのヴォーカルの凄さが際立っていると思います。
投稿: Mr.K1968 | 2014年4月 9日 (水) 23時40分
Mr.K1968様
ありがとうございます!
いえいえ、Mr.K様の仰ること、よく伝わっていましたよ~。
僕自身、最初に聴いた時に「えっ、バラード?」と思いましたからね。
それは事前に歌詞の内容を知っていたからで、Mr.K様と似た予想が僕の頭にもありました。
周囲の何人かの先輩方に倣って、すべての事前情報をシャットアウトしてマッサラな状態でCDを聴けば、そこはまた違ったのかもしれません。
しかし仰る通り、聴きこむうちに「バラードだからこそ」と思えました。やっぱりジュリーはヴォーカリストだな、と改めて感じ入りました。
「繰り返すまい明日に」…この歌詞にすべてが集約される…そんなヴォーカル、そんなバラードになっていますね。
投稿: DYNAMITE | 2014年4月11日 (金) 08時58分
こんにちは。
発売日より遅れて届いたCDを聞き、
こちらでの記事も
読ませて頂きました。
ありがとうございました。
人は信じたいことを信じるので
「安全神話」も受け入れてしまうのでしょうか。
新聞やTVが伝えること・伝えないことを
ネットで探る日々です。
様々な人々の声・行動で気づかされます。
ジュリーの「これからの声」も
聞き続けたいと思います。
神奈川県民ホールは、
耐震補強のため9月末まで休館です。
コンサートが始まるのは
ずいぶん先のような気がします。
これからの記事、楽しみにしています!
投稿: m・h | 2014年4月12日 (土) 10時53分
m・h様
ありがとうございます!
「きっと大丈夫だろう」「専門家が安全と言うなら安全だろう」と皆が思い込もうとした、そう思い込まずにはいられなかった…それが安全神話ではなかったかと思います。
RCサクセションの「サマータイム・ブルース」で「日本の原発は安全です」の箇所が何故、思いっきりルーズに「いい加減に」歌う泉谷さんのシャウトと、いかにも「広告塔として言わされてます」みたいな感じのアイドル歌手の棒読みのユニゾンであったか、今ににして納得の思いです。
今回のツアー、神奈川県民ホールがファイナルにずいぶん近い日程だなぁと思っていましたが、なるほどそういう事情もありましたか。
僕はファイナルのフォーラムを申し込んだので日どりの誓い神奈川には参加しませんが…新生・県民ホール、素晴らしいステージになることでしょう!
投稿: DYNAMITE | 2014年4月12日 (土) 14時48分