from『Pray』、2013
1. Pray~神の与え賜いし
2. Uncle Donald
3. Fridays Voice
4. Deep Love
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ジュリーの今年の新譜『Pray』の楽曲考察記事も、いよいよ最後の1曲となりました。
『Pray』収録曲のタイトルが発売に先立ち発表され、その時点で、今年もまた昨年同様に考察記事の執筆が大変な作品であろうことは、覚悟していました。
実際に曲を聴いてそれは確実となり、1週間に1曲ずつじっくり腰を据えて書いていこう、と決めました。そして、3曲目「Fridays Voice」への敬意も込めて「毎週金曜日の更新」を自分へのノルマとして課すことに。
ここまでの3曲・・・歌詞について、演奏について、ヴォーカルについて・・・といった感じで、考察の項目ごとに日程を組んで計画的に下書きしながら記事を仕上げてきました。
ところが先月の終わりに、勤務先の直属の上司である勤務先会社の部長が緊急入院するアクシデントがあって、いきなり忙しくなってしまって・・・。
新譜最後のお題「Deep Love」の下書きになかなか集中してとりかかれなかったばかりか、頂いていたコメントへのお返事すら遅れ気味になってしまいました・・・。
僕以外にもそういうジュリーファンは多いかもしれません・・・新譜4曲の中で一番胸に突き刺さり、ジュリーの深い思いを感じながら聴いている曲、それが「Deep Love」。
それだけに、執筆にはじっくり時間をかけたいところだったのですが・・・止むを得ません。
今日の記事は、これまで更新してきた新譜3曲の記事と比較しますと、バ~ッと一気に書いているような感じです。そのぶん考察が行き届かず、粗い記述になっている箇所などありえるかと思いますが、とにかく『Pray』から最後の1曲・・・全力で書かせて頂きます。
「Deep Love」、僭越ながら伝授です!
今回僕はこの新譜『Pray』を銀座の山野楽器さんまで買いに出かけ、帰宅途中の電車の中でまず何度か繰り返して聴いたわけですが・・・歌詞カードに目を通したのは家に着いてからのこと。
ジュリーの明瞭な発音、流れるような歌声もあって、車中でほとんどの歌詞が聴き取れた中(いや、「Uncle Donald」の改行まではさすがに分かりませんで、普通に「人は変われる♪」と聴き取っていましたけど)で、「うん?これは何と言ってるんだろう」と迷った箇所が、この「Deep Love」の
♪ 深情けだ 動画が悲しい ♪
Dm7 G Csus4 C
という一節です。
1度目に聴いた時には、「深情け」すら聴き取れず。「動画」のフレーズに至っては、歌詞カードを見るまでサッパリでした。
曲を最初に聴いた時点で
「あぁ、今回は最後の曲で一番キツイのが来たなぁ」
とは感じていて・・・いざ歌詞カードの「動画」というフレーズを確認してすぐに頭に浮かんだのが、僕の中でトラウマのようになっている、あの震災直後にテレビで見た、泣き叫びながら母親を探し求める女の子の映像でした・・・。
まさかあの映像が動画になって公開されているなんて思いませんが、そのいたたまれない映像が脳裏に甦ったのは、昨年の「恨まないよ」を初めて聴いた時にも体験したことです。
「うっ!」と胸がつまって目も耳もそむけたくなるような感覚が、今年の新譜からもやはり襲ってきました。
しかしそこで立ち止まるわけにはいきません。
ジュリーが何を思い、何を伝えようとして歌っているのか少しでも理解しようと、何度も何度もCDを通して聴きました。その度に、最後の「Deep Love」で胸が締めつけられるようでした。
なんとか平静を保てるようになってきて、詞と曲が同時に頭に入ってくるようになった頃、ようやくこの「Deep Love」のタイトルが、「深情け」というフレーズをジュリーなりに英訳したものなのだ、と気がつきました。「深情け」の反対の意のフレーズとして「薄情」と歌っていることも、追ってすぐに分かりました。
「深情け」というのは普通、あまり良い言葉としては使いません。言うまでもなくジュリーはそれを承知で敢えて歌っているのですが、「深情け」の対義語を「薄情」とするなんて、いかにもジュリーらしい感性だなぁ、と考えていたら・・・。
突然、ストンと腑に落ちました。
こうして記事を書いている今でも、その瞬間が胸に甦ってくるようです。
「そうか!」という感覚。とても悲しい歌なのに、それがむしろ救われていくような閃き。
ジュリーの歌っているテーマとはかけ離れた個人的な勝手な思いが、この曲の歌詞とメロディー、歌声に何故かリンクして、「すべてが分かった」と思ってしまった、その感覚・・・。
これがもし京極夏彦さんの小説『鉄鼠の檻』作中であれば
「大悟。ただいま大悟いたした」
と、高らかに宣言してしまっていたところです。
これまで何百曲ものジュリー・ナンバーを聴いてきて、「そうか~」と僕なりに思うことは何度もあったけど、ここまで鮮烈な感覚は初めてでした。しかもそれが、歌詞の内容とはまるっきり関係のない個人的な体験、思いが映し出されたような感じだっただけに、本当に驚きました。
僕はそのことから、ジュリーが「Deep Love」に込めて歌った「絶対に忘れない」という思い、「薄情になんてなれない」というその心情が真に「分かった」ように感じられるのです。最も、曲本来のテーマの根っこのところまではまだまだ辿り着いていませんけどね・・・。
このことは、記事に書くべきかどうか迷いました。
でも、僕が「Deep Love」という曲にどんな思いを持ったのか・・・純粋に楽曲考察を含め、そのことを簡単にでも説明しておかないとその先の話が全然伝わらないと思いますので、少しだけですが書くことにします。
ジュリーの歌詞の本質とは解釈が逸れますが、まずは先にそのお話から始めさせてください。
僕には、昨年の初夏を最後に連絡をとり合うことがなくなってしまったジュリーファンのある先輩への思い入れが、ずっととり残されたままになっています。
その先輩は昨年の『3月8日の雲』リリースを機に、ジュリーから離れていきました。僕は最後まで、先輩をなんとか引き止めようと必死でした。時間が経てば戻ってこられるかもしれないと思い、自分に考えうる限り、出来うる限りのことをしようとしました。
しかし先輩の傷は僕の想像が及ぶ以上に深く、僕が精一杯傾けたつもりだった思いは届くことなく、先輩は去っていきました。
その後僕は、「何故忘れられないのか」「何故あきらめられないのか」「何故ふっきれないのか」と苦しむことになりました。
今思えば、考え方が逆だったんですね・・・。
僕のその苦しみは、「忘れなきゃ」「あきらめなきゃ」「ふっきらなきゃ」と無理に思い込もうとするものだったのです。
本当は、そんなことを考えるまでもなく、忘れられるはずがないのですよ・・・。
ならば、たとえ深情けであろうと、忘れないでいることが自然、それが当たり前。
「深情け」というのが一般的にあまり良い言葉として使われないのは、それが双方にとって辛い情けであるからなのでしょう。しかしジュリーは「Deep Love」でこう歌います。
深情けだ・・・でも「忘れる」なんてのは薄情なんだ、と。
僕のこの思いは、ジュリーの詞の内容とはまったく関係のない個人的なものです。でも僕はその先輩のことを考えたおかげで、この曲本来のテーマに一歩強く踏み込んでいくことができた・・・それは確かです。
その上で、聴く人によっては深く踏み込むのを躊躇われるかもしれないほどの、ジュリーの鮮烈で、深情けで、真っ正直な歌詞・・・「Deep Love」の真のコンセプトについて、及ばずながら改めて考察してみましょう。
「人を失う苦しみ」で最も大きいのは、やはり肉親や、親しい友人を亡くすことだと思います。
僕はまだ若造ですが、すでに母親の死に立ち会っていますし、高校時代の同級生や、自分よりもひと回りも若い友人を亡くす、ということも体験していますから、それは分かります。
母親については、「どうしてもっと長生きしてくれなかったのか」という思いが消えることはありません。
生きていてくれれば・・・と思うことが、当たり前ですがたくさんあります。母は、カミさんのお母さんとはメチャクチャ気が合いそうなタイプだし・・・何より、僕がジュリーファンとなるのを待たずに旅立ってしまった、というのが残念でなりません。
僕にほんの少しの、いくばくかの音楽のセンスが仮にあるとすれば、それは間違いなく母親から受け継いだものです(父親はリズム感も音感も皆無)。母はよく自宅でオルガンを弾いていたし、歌がとても好きだったのです。
「ジュリーの歌のこういうところがね・・・」といったことを一度でも話してみたかったですし、母の世代を考えても、ザ・タイガースの話など思いもよらぬ共通の話題が生まれていたかもしれないのに・・・。
高校の同級生の友人は、今でも故郷に帰って彼の自宅を訪ねれば、まだそこにいるような感じがしてます・・・。彼については以前、「青春藪ん中」の記事にて少しだけ触れました。
仕事絡みで出逢った若い友人の突然の死については、「そっとくちづけを」の記事にいきさつを書いたことがあります。残された奥さんや子供さんのことを考えると、いたたまれなくなります。
いずれにしろ、「忘れる」ことなどできません。
ただ、僕の場合は実際に「お別れ」はしているわけで・・・その点がまず「Deep Love」でジュリーが歌った人達の思いとは、大きく違います。
♪ 一縷の望みは捨ててない
Fmaj7 G
帰らぬ君を理解すれば ♪
E7 Am
「帰らぬ君を理解する」とは、「大切な人が亡くなったことを受け入れる」ということでしょうか。
「理解すれば・・・」という表現に、「それはできない」という、後に続く言葉を敢えて飲み込む・・・歯を食いしばるようなジュリーの意志を僕は感じます。
♪ 薄情になんてなれない
Dm7 G7
区切りなんてつけない ♪
Em Am
亡くなっているのか、いないのかすら分からない家族、友人。「区切り」などつけられるはずもない・・・。
僕などには想像すらできない悲しみや葛藤を、ジュリーは正面きって歌っているのですね。
(註:余談ですが、先述の「帰らぬ君を」の箇所のコード表記について、ここでは一応「E7」としましたが実は自信がありません。
実際にCDと一緒に弾いて歌ってみて、ルートは「ミ」の音で合っているようですし、ギター1本での伴奏で一番流れが自然だった「E7」で弾き語ることに問題はありませんが・・・メロディーに「ファ」の音が登場するのが気になるんですよね・・・。
もしかしたら「Fdim」か「Ddim」が正解かもしれません。僕のつたない実力ではその辺りの特定は無理でした。プロが採譜したスコアを見てみたい、という思いはこの曲に限らず募る一方なのですが・・・)
さてそれでは、泰輝さんの作曲についてはどうでしょうか。
僕は先の楽曲内容予想記事でこの「Deep Love」を、「短調だけど穏やかに聴こえるバラード」と予想しました。泰輝さん作曲の過去のジュリー・ナンバーで言うと「涙色の空」のような曲だろう、と・・・。
予想は半分当たり、半分外れたという感じです。
まずこの曲は果たして短調なのか・・・歌メロは「ラ・ド・ミ」の和音から始まりますからイ短調なのかと思えますが、イントロ、そして歌メロの各着地和音やメロディーから紐解いていきますと、これはどうやら全体的にはハ長調のようです。
しかし、こんなに悲しいハ長調ってあるものでしょうか・・・。ハ長調でこの切なさの極みのような表現って、もうビートルズの「レット・イット・ビー」の域にまで行ってますよ!
(カミさんは、サビのコード進行でビージーズの曲を思い出す、と言っていましたが・・・)
もちろんこの曲のメロディーが深い悲しみをたたえているのは、ジュリーの歌詞によるところが大きいです。
でも泰輝さんはきっとこの曲を、ピアノを弾きメロディーを口ずさみながら作曲したはず・・・。つまり、作曲段階のピアノのフレーズがそのままレコーディング作品に残されている、と考えるべきなのです。
歌の出だしの
♪ Deep Deep Deep Love 忘れ られないさ ♪
Am G C Fmaj7 G C
のピアノのタッチから既に、この曲は悲しみの歌詞が載る運命を背負っていたのでしょう。
ただ、個人的には「涙色の空」との共通点はやはり強く感じるところです。
これはまた後述もしますが、収録曲4曲の中で唯一、泰輝さんの演奏がピアノ1本のトラックに絞られていること・・・これは、泰輝さんがこの曲を作曲した時点で、メロディーとピアノ演奏が完全に関連づけられていたことを意味します。
鉄人バンドの他のメンバーの演奏についても、結果としてリード・ギターの追加トラックがありますが、まずは「涙色の空」のような「完全一人1音体制」を目指してアレンジが練られていったのではないでしょうか。
今回の新譜収録曲のアレンジで、「ひとつだけ鉄人バンドのメンバーにアレンジ秘話を尋ねてもよい」という望みがもしも叶うなら、僕はこの「Deep Love」について泰輝さんにその辺りを聞いてみたいところだなぁ・・・。
では、その鉄人バンドの演奏やアレンジについて・・・今回もすべてのレコーディング・トラックを書き出してみましょう。
泰輝さん・・・ピアノ
柴山さん・・・エレキギター(右サイド)
下山さん・・・エレキギター(左サイド)
GRACE姉さん・・・ドラムス
エレキギター(リード・ギター)・・・柴山さんか、下山さんか・・・特定ができません。とてもよく似た音色設定のトラックが2つあって、ひとつはセンター、ひとつは左サイドのミックスとなっています
まずは、泰輝さんのピアノ。
先に述べたように、今回の『Pray』収録曲中、泰輝さんのキーボード・トラックがただ1つだけ、という構成になっているのは、この「Deep Love」ただ1曲のみです。他の3曲ではそれぞれ異なった音色に分けて2トラック以上をレコーディングし、アレンジに幅を持たせる役割を担った泰輝さんが、自作のこの曲だけはピアノ1本のトラックに絞って熱演している・・・これはやはり必然性あってのことだと思います。
「Pray For East Japan」の思いを込め、泰輝さんは自身のピアノでこのバラードを作曲しました。
いざレコーディングで、どうアレンジしていくのか・・・そこで泰輝さんは自分のピアノ1本の音以外を、鉄人バンドの他のメンバーにすべて託したのでしょうね。
この曲で泰輝さん自身の出したい音、というのはピアノだけで完結していたのだと僕は考えます。
その意味でも泰輝さんの「Deep Love」の作曲、アレンジ手法は、「涙色の空」にかなり近いものと言えると思います。
ピアノは、基本的に1小節の中に3つの強いタッチを意識している箇所が多いようで、それが1拍目、2拍目、そして2拍目の裏の裏に配され、3拍目にシンコペーションする感覚があります。同じ直球の音色でも、縦にキッチリ強弱を配分した感じの「Fridays Voice」とイメージが随分異なるのはそのためでしょうか。
次にギターです。
まずは演奏者がハッキリしている左右2つのバッキング・トラックから考察していきましょう。
柴山さん、下山さん・・・お二人の左右のバッキングについては、音色を完全に違えて役割を分担していますね。
柴山さんは、ハードなディストーションとサスティンで設定したコードの突き放しがメインとなっていて、主に小節の頭で「ジャ~ン!」と重い音を出します。これはベースレスをカバーすると同時に、暗鬱とした悲しみを表し、海のうねりをただ立ち尽くして眺めている・・・そんな情景をも連想させます。
悲しみをたたえた海・・・「恨まないよ」の歌詞にもあるように、あの日を境に嘘のように穏やかに静まり返った海。
そう言えば、今回の『Pray』歌詞カードの見開き3ページは、すべてバックが海の写真ですね。1ページ目は午後、2ページ目が夜、3ページ目が朝・・・という見方で合っているのかな・・・。
一方下山さんは、薄く歪み系の設定を加味したコーラス・エフェクトでしょうか。左サイド、キラキラとした「光」の音で奏でられるアルペジオは、右サイドの柴山さんのハードなバッキングとは対照的です。
ちなみにこの音色は、「Pray~神の与え賜いし」にもよく似た設定で登場します。
穏やかな音色ですが、スリーフィンガーを駆使して(いや、下山さんならフォーフィンガーかもしれない)ヴァースによって異なる弾き方のアルペジオが繰り出されます。跳ねるリズムに変わるサビ部のアルペジオには、激しさも感じます。
で、問題はリード・ギター・トラックなんです。
先の列記の通り、どうやらリード・ギターのトラックは2つ存在するようです。
まずひとつは、イントロと間奏。
もうひとつは
♪ 君の涙を瓶に集めたい ♪
Dm7 G C A7
というジュリーの絶唱に呼応するように、左サイドから狂おしく噛み込んでくるトラックです。
この2つのトラック・・・音色設定がソックリなんです。
歪み系の音に深めのディレイを足し、コンプレッサーのサスティンを効かせたリード・ギター。
最初にこの曲のイントロのリード・ギターを聴いた時、僕は迷わず「おおっ!柴山さんカッコいい!」と感動しました。完全に柴山さんの音だ、と思ったのです。
だってこれ・・・通称”いい風ギター”の音じゃないですか?白いボディーで、『世界のカブトムシ図鑑』にも載ってるやつ(←載ってません)。
『燃えろ東京スワローズ』初日が終わった後に、「(「いい風よ吹け」などで柴山さんが弾いていた)あのギターは何ですか?」とカズラーのみなさまに尋ねられて僕の頭に浮かんだのは、何故かヘラクレス・オオカブトだったという・・・情けない。
実際は、フェルナンデスのギターみたいです。
とにかく・・・柴山さんのあのギターの音だ、と何の疑いもなく思ったんですよ。間奏を聴いても変わらずそう思いました。
しかし何度か繰り返し聴くうち全体のアレンジに気持ちが行くようになって、ふと、ジュリーの絶唱に絡む左サイドのリード・ギターに耳を奪われます。
左・・・?
左サイドならばこのギターは下山さん?
じゃあ、同じ音色のイントロと間奏も、同一トラック下山さんの演奏なのか・・・それをミックス段階でPANを振ってる・・・?
これには悩みました。
自信が無いなりに至った結論は、わざわざミックスのPANをセンターと左に分けているくらいなのだから、いくら音色設定が似ていても、この2つは別トラック。そして演奏者も、柴山さんと下山さんに別れているのではないか、という大胆な推測です。
ここまでの『Pray』収録の3曲の記事で僕は「ユニゾン」のアレンジ・アイデアについて何度も書いてきましたが、この「Deep Love」では、「ギター兄弟の音作り」がユニゾン・・・とは言えないまでも、ハッキリとした意志をもってほぼ同じ音色設定になっている、というものです。
バッキングのトラックでは両極とも言える設定。しかしリード・ギターについては完璧に二人のギタリストの音色がシンクロしている・・・。
下山さんが柴山さんに「その音、どういう設定で弾いてる?」と尋ねtりとか・・・想像するだけでワクワクするではありませんか(僕だけかな?)。
そう考えながら聴くと、イントロと間奏は”いい風ギター”の音で、ジュリーのヴォーカルに噛んでくるところはストラトに聴こえる・・・何も根拠は無いんですけどね。
ただ、LIVEではすべてのリード・ギター・パートを柴山さんが「いい風ギター」で演奏することになるのでは、と予想しています。
GRACE姉さんのドラムスは、派手さこそありませんがエモーショナルな演奏です。泰輝さんのピアノの強弱のニュアンスを受け、常に「跳ねる」感覚を持ったテイクとなっています。
例えば、ロール気味に優しくも悲しげに曲の始まりを告げる、冒頭のフィル・イン。
さらに間奏部では、裏打ちで跳ねるキックが効いています。
このキックはベースレスであるが故にかえってアレンジで強調されているような印象があります。間奏が始まったばかりの2’49”あたりでは、キックが2拍目裏の裏で「突っ込む」感覚がモロに伝わってきて、最初に聴いた時にはドキリとさせられました。
こういった鉄人バンドの演奏は、泰輝さんの剥き出しのメロディーやピアノに添うものです。ただ、泰輝さん達鉄人バンドのその志が、ジュリーの歌詞とヴォーカルによってひと回りもふた回りも増幅されていることは確実です。
「Deep Love」のジュリーのヴォーカルは、慟哭です。
前作で言えば「恨まないよ」に最も近い・・・これは多くのかたがそう思われたのではないでしょうか。
1度目にこの曲を聴いた時、「モニュメントなどいらない」のところで「ジュリーが泣いている!」と強く感じました。不思議なことに、その後繰り返して聴くうち「泣いている」ように歌うジュリーに慣れた(というのも変な言い方なんですけど)のか、自然に歌とメロディーを追えるようになっていったけど、最初の頃はその部分のジュリーの声を聴くのに、グッと力を入れて心の準備しておかなければなりませんでした。
この曲のヴォーカルの最高音は、高い「ミ」の音です。
これは「Pray~神の与え賜いし」と同じ。「Uncle Donald」や「Fridays Voice」よりも1音低い音。
しかし、例えばサビ部の「見つけたい」「集めたい」の語尾でのロングトーンの絶唱などは、実際の高い「ミ」よりもさらに高い声で歌っているように聴こえます。
そんなふうに聴こえるのも、ジュリーが長い時間かけて身につけたヴォーカルの実力であり、現在のジュリーの大きな魅力。それが味わえる「Deep Love」は、やはりジュリーの代表曲となるにふさわしいでしょう。
そして、被災者ではない僕のような人間にとって何より大事なのは、大きな苦しみの中で試練に立ち向かって今この瞬間を生きている人達がたくさんいることを決して忘れず、気にかけ、思うことなのだ・・・と、僕はジュリーの歌からそんなことを考えさせられます。
それはまた、被災地のことに限らずとも常にそうなのだ、とも思います。人の痛み、苦しみを知った時、どう思うのか。どう声をかけるのか。
最近特に身の周りで、そういうことを考えさせられる出来事が多いのです。
冒頭で少し触れましたが、3月末に会社の直属の上司が心筋梗塞で倒れ入院、しばらくの間治療に専念することになったり・・・。
あと、つい先日には、常々応援していた将棋の元奨励会の若者が、27歳という年齢にして深刻な病を宣告されてしまいました。
QOLの著しい低下を承知で、僅かな可能性に賭けて手術を受けるか、それとも残された時間を苦しみを少なくする処置を受けながら有意義に過ごすことを選ぶか・・・想像を絶する葛藤の中で彼は先週、『詰将棋選手権』という公式の大会に出場しました。
そこへ、彼が以前教室で将棋を教えていた時の生徒であるチビッコ達が駆けつけてくれたのだそうです。彼はそんなチビッコ達の顔を見て勇気を振り絞ることができたのでしょうか・・・12時間にも及ぶという大手術と、その後の過酷な闘病生活に挑戦することを決断しました。
僕に何が出来るわけではありません。
しかし僕は、想像を絶する苦しみや困難に立ち向かい、生きるために懸命に頑張っている人に対して何も感じない人間にだけは、絶対になりたくありません。
僕にとって、「祈る」というのはそんな思いに直結するものです。
傷つき苦しみ、そこから這い上がって生きていこうと頑張る人達と実際に向き合ったとして、どんな言葉をかけるのか・・・それはとても難しいことです。
昨年、旧騎西高校に避難していらした双葉町の被災者の方々に手紙を書いた時にも、どういうことを書けばよいのか、本当に迷いました。自分がかけてあげたい言葉をかけるのではなく、相手がかけてもらいたい言葉を推し量って選ぶ方が良いのか・・・でもそれがどんな言葉なのかすら分かりませんでした。
ただ、音楽での発信はその辺りが少し違う、と思います。
敬愛するアーティストが、その人自身の飾らない言葉で発する個人的なメッセージが、聴き手の大きな力となります。
それぞれのアーティストが、それぞれの立場から「自分の」言葉やメロディーを歌に託す。ジュリーはその中で、最も厳しい道を自然に選んでいるのかもしれません。
先日、しょあ様がブログで紹介されていた小阪忠さんのお言葉を拝読しました。
「表現とは、表に現れる、と書く。それは中に持っているものを表に出すことであって、表面を取り繕うことではない。音楽もそう。アコースティック・ギターを使っているからフォーク、エレキだからロック・・・そういうことじゃない。大切なのは、中に何を持っているかだ」
これは正に、昨年からの・・・いやもっと以前からなのでしょうね・・・ジュリーの創作活動にピッタリ当てはまるなぁ、と思いました。
飾り立てたところでどうなるものでもない・・・真に、自分の中から溢れたことを歌詞にし、曲に載せ、歌う。そういうことなんだと思います。
僕は実は、ロックというのは半分は様式美だとしても構わない、と考えています。
ですから、例えば『ロックジェット』のような雑誌で今度は「沢田研二特集」が組まれたとして・・・現在進行形のジュリーを考察する以外にも、ギンギンにヴィジュアル際だっていた時代、「この衣装やパフォーマンスが凄かった」とか「こんなふうにカッコ良かった」といったように、若きジュリーの容姿、プロモート戦略などをロック的に捉えて語る人もたくさん出てきて欲しい、と思います。いや、きっと出てくるでしょう。僕はその時代のジュリーについてほとんど何も知らないに等しいですから、色々と教わりたいです。
当時「ロック」としてジュリーを語ることが躊躇されていたことに鬱憤を持つ著名人の方々、たくさんいらっしゃるはず。星のかけら様も書いていらしたように、ジュリーファンであることを何の躊躇いもなく世間に大いに誇れる時が、今間違いなく来ています。
でも、そうしてジュリーの全時代についてをロックに語れるのは、今現在のジュリーが最高にロックだから・・・ですよね。今、日本で一番ロックしているのはジュリーだ、と僕は堂々と言うことができます。
これから各界の様々なプロフェッショナルが、様々な分野、角度からジュリーのロックを語り始めるでしょう。
そうなったら僕のブログなどはまっ先にお役御免状態となるわけですが、せめて「語った楽曲の数」だけでもある程度の域には達せられるように、ひたすら頑張り続けるのみです・・・。「数だけでジュリーを語るようなさみしい男♪」を敢えて目指します!
最後に。
昨年、今年の作品の本質とは違うところを語ることになるのかもしれませんが・・・今のジュリーは自らと同世代、またはそれに近い年齢の聴き手を想定して創作やLIVEに打ち込んでいるように僕には思えます。
『ジュリー祭り』以前にジュリーが公に語った言葉がどのようなものであるか、僕はほとんど知りません。でも僕が本格的にジュリー堕ちしてから、ジュリーのちょっとしたMCや、新聞記事などのインタビューで発せられる言葉は、「長年共に歩いてきた」世代への思い、というかエールがあるような・・・。
僕よりもひと回り以上年長の世代・・・ジュリーはその人達を見ている、と感じることが多いです。
歌詞で言いますと、例えば本日のお題「Deep Love」の
♪ 君 生きた日々 風化 させないさ ♪
Am G C Fmaj7 G C
この一節(特に「君」という語りかけの部分)などは、僕よりずっと年上の人の気持ちを歌っているのかなぁ、と思います。
その世代の被災者の方々というのは、一番辛い方々かもしれない、とも思います。家族を失い、家を失い、それでも寡黙に、多くの被災者を先導して色々なことを立て直さなければならない・・・そんな世代なのではないでしょうか。
いつか僕がその世代の年齢に達した時、ジュリーの昨年、今年の2枚のCDから響いてくるものは、今の僕が感じているものとは大きく違っているかもしれません。
『3月8日の雲』『Pray』ともに、これから一生かけて聴き続ける作品になるんだろうな、と今は考えています。
ということで・・・どうにかこうにか『Pray』全曲の記事を書き終えました。
次回からはまた、自由お題での更新となります。
6月に入ったら恒例の”全然当たらないセットリスト予想”シリーズに突入しますが、今年はそこでなるべく明るい曲を採り上げるつもりでいます。
その前に、ジュリーのいろいろな時代の、タイプの異なるお題を少しずつ書いていければ・・・と考えています。よろしくお願い申しあげます!
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