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2013年4月

2013年4月28日 (日)

沢田研二 「ラム酒入りのオレンジ」

from『思いきり気障な人生』、1977

Omoikirikiza

1. 思いきり気障な人生
2. あなたに今夜はワインをふりかけ
3. 再会
4. さよならをいう気もない
5. ラム酒入りのオレンジ
6. 勝手にしやがれ
7. サムライ
8. ナイフをとれよ
9. 憎みきれないろくでなし
10. ママ……

--------------------

先日『火曜曲』にて放映された「サムライ」の映像、ファンのみなさまの間で凄い反響ですね。ちょっと珍しい映像だったとか・・・?
僕は観てなかったんですけど、カミさんが言うには「やっぱりキレイよな~」と。
僕としては正直、「う~ん、カッコイイ、と思うのはエキゾの頃なんだけどなぁ」という感じなんですよね。
要は「サムライ」の頃のジュリーって、「カッコイイ」というより「美しい」ということになるのでしょう。そして僕にはそれを理解する芸術的、美的センスが無い、と(涙)。

ただ、以前いつもお世話になっている先輩方と一緒に『夜のヒットスタジオ』を鑑賞させて頂いていた際、先輩が「(カメラワークが)まるで女優さんを撮ってるみたいでしょ」と何度か仰っていました。たぶん「サムライ」の時も仰っていたと思う・・・その点は僕にも伝わります。とにかくひっきりなしに接近して、嘗め回すように撮っていますからね。

やっぱり、ジュリーという歌手は特別だったのでしょう。
持って生まれた才能と美貌、そして「時代を味方につける」という、ごくごく限られたほんの僅かな歌手だけに天が授ける運命。
今日は、まさにそんな条件がすべて楽々とクリアされていた頃のジュリー・・・阿久=大野時代の幕開けのアルバムからのお題です。

「サムライ」も収録されている『思いきり気障な人生』。周囲にこのアルバムを絶大に支持されている先輩も多いのですが、収録曲中、ひょっとしたら先輩方の間で一番人気なのでは?と日頃から考えていた曲を採り上げたいと思います。
「ラム酒入りのオレンジ」、伝授です!

リリース当時は、もちろんこの曲もライヴで歌われ多くのファンを虜にしたのでしょうが、テレビで歌ったりしたことはあったのかなぁ。
文句なしに楽しい曲ですよね。

阿久さんのこの「自分以上のワルイ女に惚れました」路線は次作『今度は、華麗な宴にどうぞ。』の「女はワルだ」や、シングル「OH!ギャル」のB面「お前のハートは札つきだ」に引き継がれコンセプト的にも楽曲的にもエスカレートしていきますけど、77年のこの時点では大野さんのつけた曲、船山さんのアレンジ、ミュージシャンの演奏、そしてジュリーのヴォーカルがとにかくピュアです。「若々しい」と言い換えても良いのですが、「ピュア」というのが一番ピッタリくると僕などは思っています。
先輩方の間でこの曲の人気が高いのも、”ピュアなジュリー”をタイムリーで敏感に感じとられていたからではないかなぁ・・・。

♪ オレンジみたいなひとと思って
          E                    C#m

  唇ふれてみたら
  A              B7

  めまいがしそうなラムの匂いに
           E                  C#m

  心を奪われたよ ♪
  A    B7      E

出だしのこの詞は阿久さん得意のシチュエーション。
つまり
「純な娘と踏んで軽い気持ちで手を出したら、逆にこっちの純情を弄ばれることになってしまった」
という、黄金パターンの導入になってます。
この手のシチュエーションが当時の年齢のジュリーに絶妙に合ってしまうのは周知の奇跡としても、「奪われたよ~♪」の「たよ~♪」のメロディーの起伏は、大野さんが既にジュリーのヴォーカルを引き出す作曲パターンを完全に確立していることを物語っていて、今さらながら阿久=大野=ジュリーの組み合わせが真に「時代に選ばれた」最強のコンビだったんだなぁと驚くばかりです。

これが例えば「奪わ~れた~♪」で「シシド#~シミ~♪」というメロディーだったらジュリーの声はここまで無垢に伸びないのではないでしょうか。
「シシド#~シ、ミ~♪」と、ひとつ準備音を登場させておいてから高音に跳ね上げるのが、「ジュリーが歌う」ことを念頭に置いた大野さん会心のアイデアだと思います。
2番の「どうでもよくなってる~♪」はさらに伸びが良いですし、ジュリーのこの部分のヴォーカルは聴いていて本当にスカ~ッ!としますよね。

さて、この曲は他アルバム収録曲と比較しても「底抜けに楽しい」というだけに留まらず、毛色の違ったアレンジやミキシングが見られます。
トラックを書き出してみますと

左サイド・・・エレキギター2トラック(ひとつは間奏部のみのリード・ギター)、ベース、ラテン・パーカッション
センター・・・ドラムス(スネアだけ注意すると右寄りのミックスに聴こえます)、パーカッション(1’04”などで登場するハンドクラップのような音)
右サイド・・・ピアノ、エレキギター(間奏部リード・ギター)

となっており、ギターだけでなくベースやピアノがハッキリと左右いずれかのサイドに振られているのが大きな特徴。
しかもですね・・・ベース、かなりゴキゲンな演奏なのに、メチャクチャ音量が小さいんです。強く意識しなければほとんど聴こえません・・・。
このようなミキシングも、ジュリーがいよいよ時代をモノにした、ということの表れなんですよね。”歌の神”の存在に周囲がまだ気づいておらず演奏寄りのミキシングとなっている『JULIEⅡ』とは真逆のことが起こっています。
ミキシングにおいても
「とにかくジュリーの声を一番目立たせろ!」
という手法。これは次作『今度は、華麗な宴にどうぞ。』で究極にまで突き詰められることになります。

もうひとつ、この曲の大きな特徴は、ラテン・パーカッションの存在。もちろん他収録曲でもパーカッションの活躍は見られるのですが、この曲の場合は完全に、「ドラムスを押しのけて」という感じで主を張っています。
おかげで僕はドラムスのトラックについて、スネアとクラッシュ・シンバル以外の細かい演奏が聴き取れませんよ・・・。
ただ、パーカッションを強く押し出したこのアレンジ、ミックスはバッチリ曲のコンセプトにも合っていますので、細かいことは気にせず素直に熱いリズムに身を委ねるのが聴き方としては正解なのでしょう。

間奏のリード・ギターは左右いずれも後録りのトラック。これは同じ音階を(船山さんのスコアを読みながら?)2度に渡って演奏し、それをミックスで左右に振っているもので、演奏者は同一と考えられます。
「同じ人が同じタッチで2度弾いて、細かいところでちょっとズレている」ってのが良いんですよね~。

ところで、ほとんどのジュリーファンの先輩方はご存知でしょうが、この曲は作曲者の大野さん自身のヴァージョンが存在します。これがなかなかお洒落で良いのです。
テンポはゆったり、アレンジはしっとりで、クールで奥手な大野さん(僕の勝手なイメージですが)がしたたかな女性に振り回されて困惑している絵が浮かんでくるような・・・。
ジュリーの「どうでもよくなってる♪」と大野さんのそれとはヴォーカルから受ける歌詞のニュアンスがずいぶん違って聴こえ、別物の曲の良さが感じられますね。大野さんの歌は決して上手いとは言えませんが、作曲者ならではの楽曲解釈はとても興味深いところです。

ジュリーのヴォーカルについては・・・時代時代でそれぞれ神がかっているわけですが、77年は「売れている」オーラがそこに加わります。
そしていつの時代も共通するのが・・・「恋に落ちた男」のウキウキ、ヤケンパチを何故こうもいとも簡単に表現できてしまうのか、というね・・・。
『思いきり気障な人生』は、ジュリー達がとにかく忙しくて時間が無い中をバ~ッと制作した、と聞きますけど、ジュリーは容易くこの歌の主人公になりきっているように思えます。邪推ですが、バンドのステージ、生のLIVEに重きを置くジュリーは、「ラム酒入りのオレンジ」のような”楽しい曲”がアルバム収録曲候補としてお披露目された瞬間、「来たぞ!」という感じで大いに張り切り、瞬時に歌の世界に飛び込んでいけたのではないでしょうかねぇ・・・。

いや、阿久=大野時代の3枚のアルバムは、ホントに「時間無かったんだなぁ」と伝わるヴォーカル・テイクが多いんですよ。
ほとんど一発OKが求められる態勢でレコーディングされていたんじゃないかな。
例えば

♪ こうなればもっと堕ちてみたいよ
       E                     C#m          C

  あの娘を道づれ に ♪
  B                 A  B7

この辺りはジュリーが、「ちょっと唾飲んじゃった」みたいな感じで歌っているんですよね。
「堕ちてみたいよ♪」の独特の歌い回しは、そんな事情から自然発生した表現だったのではないか、と僕は考えています。そういうことも含め、ジュリーは歌の天才ですし、特にこの当時は短い時間で本テイクを重ねていくことに対しても、怖れなどまったく無かったでしょうね。
「ラム酒入りのオレンジ」のヴォーカルは、この時代のジュリーに「登りつめていく勢いがある」ことも伝えてくれるトラックだと思います。

さて。
それではこの曲が、今後生のLIVEで聴けるかどうかと言いますと・・・残念ながらまず無理でしょうね(涙)。
もちろんジュリーはこの曲は覚えているでしょうし、70年代後半のレパートリーの中では気に入っている曲のひとつではないかと推測しますが、現在のステージ・セットリストに採り上げる必然性は感じていないでしょう。音楽劇の新たなタイトルにでもなれば、話は違ってくるんでしょうけど・・・。

ただ、ファンとしての妄想は自由です。
鉄人バンドの演奏による「ラム酒入りのオレンジ」・・・これは相当楽しそうですよ!

トラックの説明でも触れた通り、この曲はドラムスよりラテン・パーカーションの方がリズムのメイン・サウンドとして強調されています。老虎ツアーでパーカッションの真髄を魅せてくれたGRACE姉さんがパーカッション・セッティングで臨めば、その点忠実に原曲の雰囲気を再現できそうです。
そしてGRACE姉さんはコーラスも。
「堕天使の羽音」「探偵~哀しきチェイサー」「銀河のロマンス」といった近年のステージ・セットリストで証明されたGRACE姉さんの女声ならではの柔らかでジュリー・ヴォーカルとの相性も良い歌声を思い起こせば、「ラム酒入りのオレンジ」の重要なコーラス・パートも問題なくこなしてくれそうです。

ピアノはもちろん泰輝さん。ギターも柴山さんと下山さんの2本でピッタリ。
こう考えると、ステージ編成的には鉄人バンドにもってこいの曲なんですよね。さすがにナイでしょうが、実現したら相当良さそうだ・・・。

最後に、いかにもヒヨッコならではのお話を。
後追いジュリーファンの僕は、当然『思いきり気障な人生』というアルバムをCDでしか持っていないのですが、そのCDについている歌詞カード・・・「何でこういう曲並びになってるのかな?」とずっと疑問に思っていたんです。
1ページに2曲ずつ掲載。その組み合わせが

「思いきり気障な人生」と「ママ・・・」
「サムライ」と「さよならをいう気もない」
「再会」と「ナイフをとれよ」
「憎みきれないろくでなし」と「あなたに今夜はワインをふりかけ」
「ラム酒入りのオレンジ」と「勝手にしやがれ」

となっていますよね。
収録曲順とまるで関係なくて。一見、無秩序に載っているようにずっと感じていたんです。
何か意味があるのかなぁ、それともただのお遊びでランダムに載せたのかなぁ、と。

で、まさに今回「ラム酒入りのオレンジ」の記事を下書き中に、演奏者の確認のために歌詞カードのクレジットのページを見て、初めて気がつきました。
ページの真ん中に「折り線」って書いてある・・・!
そうか・・・これは2分の1でひとつなんだ。つまり歌詞カードは正方形ではなく縦に長い長方形で1ページということなんですね。

このCDを購入して、もう8年くらい経つのかな?長い間ずっと気づかず、この度ようやく歌詞カードを折りましたよ。
ところが・・・どう折ったら曲順通りにめくれるような仕上がりになるのか、全然分からん!

Orange1

きっと僕にセンスが無いのだ、と思いカミさんに相談したら、「これ、曲順通りに折り曲げるのは不可能やで」とあっさり言われました。

途方に暮れてクレジットのページを眺めていると、改めて気がつく「断切線」という小さな小さな3文字。
あと1年気づくのが遅かったら、そこに字が書いてあることすら読み解くことができなくなっていた(最近、老眼が凄まじいスピードで進んでいます涙)と思う・・・ギリギリ間に合った!

でも・・・歌詞カードをバラバラに切っちゃうのって、なんだか抵抗あるな~。
そこで、この機にみなさまにお尋ねしたい!
「実際に切って使ってるよ」と仰る方、どのくらいいらっしゃいますか・・・?

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2013年4月24日 (水)

沢田研二 「愛だけが世界基準」

from『新しい想い出2001』、2001

Atarasiiomoide

1. 大切な普通
2. 愛だけが世界基準
3. 心の宇宙(ソラ)
4. あの日は雨
5. 「C」
6. AZAYAKANI
7. ハートの青さなら 空にさえ負けない
8. バラード491
9. Good good day

---------------------

できる限り色々な時代から楽しいジュリー・ナンバーを採り上げる、ということで頑張っております。
昨夜は『火謡曲』で超絶に美しい「サムライ」の映像が放映されたようですが
(←観てない)、これはしたり、拙ブログではグンと時代を後にしてのお題で下書きを進めておりました。
近いうちに、アルバム『思いきり気障な人生』からも久々にお題を採り上げてみたい、と今になって考えているところです。

ということで、記事自体は短い文量で、なるべく更新頻度の方を上げて・・・と意を新たに、今日のお題はアルバム『新しい想い出2001』から。

1995年のアルバム『sur←』から勇躍開始された、ジュリーのセルフ・プロデュース期。
以降、自作詞による”人間・ジュリー”の発信に一層重きが置かれるようになりました。「歌いたいことを歌いたい」という長年のジュリーの渇望がいよいよ本格的にアルバム制作に反映されていきます。
そんなジュリーの志と並行するかのように、覚和歌子さんの作詞作品がジュリーの求める歌の内容とシンクロし始め、さらにはバンド・メンバーのGRACE姉さんも多くのジュリー・ナンバーの作詞を手がけるようになり・・・。
ジュリー=覚さん=GRACE姉さんの絶妙なトライアングルで作詞制作されたアルバムが次々に送り込まれる時代が到来します。

このトライアングル期(21世紀初頭)の3人の作詞アプローチには、ジュリー・アルバムならではの独特の統一感があり、どれがジュリーでどれが覚さんでどれがGRACE姉さんの作品なんだか・・・クレジットを1度見ただけでは把握しきれないほどの共通の味わいや言葉遣いが時にありますよね。
中でもその「どの曲が誰の詞やら」感を最も強く感じさせるアルバムがこの『新しい想い出2001』ではなかろうか、と僕は考えています。

僕が『新しい想い出2001』購入間もない段階でハッキリと「これはこの人の詞」とキチンと認識できていたのは、「心の宇宙(ソラ)」のGRACE姉さん、「バラード491」の覚さん、「Good good day」のジュリーの3曲だけかなぁ。
残りの曲は結構長い間ゴッチャになっていたかも・・・。「ハートの青さなら 空にさえ負けない」はタイトルだけ見てジュリーの作詞と決めてかかっていた、ということがありましたし、エロ全開の「C」もジュリーの詞のように思えたり、「大切な普通」が覚さんの詞のように感じたり・・・。

そして。
「この詞はジュリーかGRACE姉さんのどちらかだろう」といつも思ってしまい、クレジットを見るたびに「ええっ、覚さん?!」とその度に再確認していた曲(さすがに最近はそんなことはありませんよ!)が、今日のお題。
「愛だけが世界基準」、伝授です!

もちろん良い意味で、ですが・・・この曲の詞ではどこか子供っぽい言葉遊び、フレーズ並びが楽しめます。
タイトルからして「愛だけが世界基準」ですからね。
考えてみればこのアルバムでもう1曲「ハートの青さなら 空にさえ負けない」でも、覚さんは一歩間違えば直球過ぎて聴く側が戸惑ってしまうような曲タイトル(それが逆にクセになり、最後には強い思い入れを持つに至るわけですが)をつけています。
ちょっと昭和のアイドル・ソングをも彷彿させるようなタイトル・センス・・・覚さんにとって、これは「敢えて」なのでしょうね。

フレーズ使いについても

♪ hey またとない自由だい
  E     B                C#m    A

  hey say 今日からは一人だい
        E    B               C#m     A

  借りてた平和に 捨て台詞キメたから
           E        B          C#m           A

  今 ただ愛が世界基準 ♪
   E  B              D 

「hey、say」は「平成」にかけていますよね。今でこそ、そのものズバリ!の名前のアイドルグループも登場し、この単純なダブルミーニングは市民権を得て(?)いますが・・・2001年当時、この響きはどうだったんでしょ?
慣れるまでは「何か野暮ったいなぁ」と感じてしまった人も多かったのでは・・・?
無論覚さんとしてはそれも含めて確信犯。「キメたから♪」などもそんな感じの言い回しですね。

あと、いかにもジュリーやGRACE姉さんの作詞作品で使われそうな(と、僕が当初感じていた)フレーズも登場します。

♪ 金色 の   鎖を放たれた
  C#m  C#m7  A      E

  不安でも かなり僕ハイテンション ♪
  C#m   C#m7      F#m7  G#7

覚さんの「金色」は「きんいろ」で、ジュリー作詞なら「こんじき」と読ませるところなのかなぁ、とは思いますが(「
涙色の空」)、「かなり僕ハイテンション♪」はGRACE姉さんが好みそうな・・・という印象が僕にはあります。
続く

♪ カタギの道はずれたら もう戻れない
  C#m         C#m7              A       E(onG#)E(onF#)

  いいんだ   携帯捨てよう ♪
  C#m     C#m7    F#7      B

この部分・・・初めて聴いた時は、僕の中では完全にジュリーの語彙のイメージでした。なんたって「携帯捨てよう」ですよ!
思い起こせば、最初にこの曲を電車内で聴いた時、ここはまったく聴き取れませんでした。「携帯」というフレーズを歌詞で使う、ということ自体に頭が至らなかったのだと思います。

でも・・・2001年頃の携帯普及率ってどのくらいでしたっけ?下手すると僕はまだ持ってなかったかな・・・。
そう考えると、覚さんが「携帯捨てよう」と断じたこの詞は当時革新的だったのかもしれません。
その辺りは、タイムリーなジュリーファンの先輩がこのアルバムリリース時に「携帯」というフレーズをどう感じたか、を伺えばハッキリ分かるのでしょうね。

ただ、ここまで書いてきたことは当たり前ですがただの表面上のこと。何度も繰り返し聴けば、この「愛だけが世界基準」の歌詞がズバリ『新しい想い出2001』というアルバムのタイトルチューンとも言うべきコンセプトになっていることが分かってきます。
おそらくアルバム制作時にジュリーから覚さんに「21世紀に向けて」と歌詞内容についての要望があったんじゃないかなぁ。覚さんがそれに応えて生まれた曲こそが「愛だけが世界基準」だったのではないでしょうか。

20世紀の頃・・・本当にほんの少し前まで多くの人が「素晴らしい未来」「輝かしい新世紀」として想像をたくましくしてきた、”夢の21世紀”。
でも覚さんは「センチュリー橋を跨いだとたんに、何もかもまぶしくなんかはならない」のだ、と言い切ります。
待ち受ける困難・・・それこそ後にジュリーが使ったフレーズで言いますと、「手に負えぬ未来」への予見もあったでしょう。

♪ 線路に風が 吹いて 空の高さに気づく ♪
        A
   G#7  C#m     A      G#7  C#m

これまで自分の歩んできたかつて知ったる道のり(線路)から、その周囲に果てなく広がる世界(空の高さ)へまず一歩踏み出す瞬間の不安・・・ジュリーほどの人でもそれはきっとあるのでしょうし、僕のような凡人の身にとってはなおさらのこと。
そんな畏怖すべき現実を提示した上で、「信じるものがひとつあったら行ける」とするのが、1995年の「銀の骨」あたりから急速にジュリーの生き様そのものにリンクしてきた、覚さんならではのジュリー・ナンバーでの作詞スタンス。

「時代は変わったかい?」「世の中変わったかい?」と問いかける箇所には、「時代や世の中がどう変わろうとも」というニュアンスが込められているように思います。正に、揺るぎないマイペースで一歩一歩をしっかりと進むジュリーにピッタリの歌詞。
何度も曲を聴くうち、「なんだ、やっぱりこれは覚さんならではの素晴らしい詞じゃないか!」と、特に歌詞が2番、3番へと進んでいくに連れて、僕のような者にすらじわじわと感じられることとなるのでした。
「信じるものひとつ」・・・それはファンにとって、正にジュリーの歌のことなのですから・・・。

作曲の吉田光さんは、他に手がけたジュリー・ナンバーにおいては、プログレっぽい変態性(褒めてます!)を持つハードな作風が際立つのですが、この曲は正攻法のパワー・ポップ・チューンに仕上げられていますね。
転調も、吉田さんの得意技である風変わりなコード進行もここでは登場しません。その分、曲が進むに連れて高まりが増していくようなシンプルかつ力強い作品になっていて・・・何より、アルバムのトータル・イメージに合っています。
覚さんも、吉田さんのこの曲だから「愛だけが世界基準」のような詞を載せたくなったのではないか、と想像するのですがいかがでしょうか。

CD音源の演奏で僕が惹かれるのは、まずドラムス。
特徴は、ハーフ・オープン・ハイハットの裏打ちです。高校生の頃聴いたローリング・ストーンズの「ハイ・アンド・ドライ」という曲をきっかけに、僕はこの手のドラム・アレンジが病みつきになりました。
「借りてた♪(だかだか!)平和に♪(だかだか!)」と、スネアのフィルが入る箇所も、裏打ちの抜けは僅か1打のみ。これは素人からするととてつもない神業に聴こえるんですよね~。

あと、いかにも白井良明さんらしいギター3トラックのアンサンブルも素晴らしいです。
前作『耒タルベキ素敵』では、まだピアノなど鍵盤楽器の活躍が目立っていましたが、21世紀のジュリーはここから怒涛のギター・サウンド期が始まり、アルバム『greenboy』まで継続します。それは同時に、アレンジを担当した白井さんの「ハード」というだけには留まらない、ギター・アンサンブルのアイデアが冴えまくった時期でもあるのです。まさに職人技ですよ!

注目は、センターにミックスされたリード・ギターのトラックです。
まずイントロでフィードバック気味に導入。そこに「う~、や~、た~!」のシャウトが来て他トラックが絡んできますよね。凄いのはその後。
リードギターは他トラックが鳴り出してからしばらくの間その歪んだ音を引っ張れるだけ引っ張っておいて、途中から「シ~ミレ#ミレ#シシ♪」(これで2拍分)というハード・サイケな速弾きに切り替え、歌メロに入って後もずっとそのフレーズを延々と繰り返しているのです。
何が凄いって、これだけのカッコ良いギター・トラックが、ほとんどジュリーのヴォーカルの裏で聴こえるか聴こえないかくらいの設定で鳴っていて、黒子のアレンジ効果として徹底されていることです。
普通はこれだけの演奏ならば、左右どちらかにミックスを振って音量も上げ、ギタリストの主張を押し通すところ、白井さんはそうではないんですよ・・・これは「ジュリーのヴォーカルと楽曲の良さを生かす」という演奏トラックになっているのですね。

また、右サイドのセカンド・リードのトラックも渋い。これは最近の記事でたまたま言及の機会が多かった、ワウ・ギターの演奏です。エンディングでこのギター・トラックだけが残るのですが、最後の最後にかなりの”ムックリ・サウンド”にまで昇華しています。
是非、「Pray~神の与え賜いし」の柴山さんのワウ・ギターの音色と聴き比べてみてくださいね。

最後に。
この「愛だけが世界基準」、この先LIVEで聴く機会はありそうに思うんですよ。と言うより、アルバム『新しい想い出2001』収録曲はすべて可能性があると僕は思っています。今のジュリーの生き方と齟齬が生じている曲は1曲たりともありませんからね。
”人間・ジュリー”の魅力がギュッと詰まった、隠れた名盤。ジャケットが地味だったり、アルバムとしては収録曲数が9曲と少なめだったりして、これまで聴くのを敬遠している方がもしいらっしゃったら、この機に強くおススメしておきたいです。

ただ、このアルバムからジュリーが久々にセットリストに採り上げるとするなら、「Good good day」や「大切な普通」「C」あたりが先に来るんじゃないかな、というのが僕の予想。
でも、「愛だけが世界基準」もいつかきっと順番が来る・・・それに僕としては、今の鉄人バンドのスタイルで是非聴いてみたい曲のひとつですからね。
想像するに・・・柴山さん、泰輝さん、GRACE姉さんが元気よく追っかけシャウトをするその影で、うつむきながら一人黙々とヴォーカル後ろの”隠れ速弾き”に集中する下山さんの姿が目に浮かぶようではないですか!

さて、次回お題も現時点ではまだ未定ですが・・・だいたいこのくらいの文量で(最近の僕の記事としてはかなり短め。それでも充分長いけど・・・)で、矢継ぎ早の更新をしていけたら、と考えております。
なるべくなら、お題楽曲のリリースされた時代を縦横無尽、自由に飛び回る感じで書いていきたいところです。
引き続き頑張ります!

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2013年4月20日 (土)

沢田研二 「渡り鳥 はぐれ鳥」

from『NON POLICY』、1984

Nonpolicy

1. ナンセンス
2. 8月のリグレット
3. 真夏のconversation
4. SMILE
5. ミラーボール・ドリーマー
6. シルクの夜
7. すべてはこの夜に
8. 眠れ巴里
9. ノンポリシー
10. 渡り鳥 はぐれ鳥

--------------------

最近、大長文ばかり続いてすみません・・・。
何とか「記事は簡潔に、その分更新頻度の方を上げて行く」という方針に切り替えたいとは常から考えているのですが・・・毎回の風まかせ筆まかせ状態です。さて今後どうなりますか。

今日は、2週間ほど前に突然我が家でプチ・ブームとなったシングル・ナンバーをお題に採り上げます。
それまで僕の中ではさほど重要でなかった・・・と言うか、隠れた存在だったその曲を大いに見直す機会がたまたま訪れ
「やはりジュリー!どんな曲でも軽く見てはいけない!」
と反省して、新たに「名曲」と脳内インプットされたナンバー。

軽快、自由、そしてほのかな哀愁。
こんな素敵なシングルがあったんだなぁと、改めて自分も子供心に覚えている80年代のカッコ良いジュリーに思いを馳せております。
「渡り鳥 はぐれ鳥」、伝授です!

まずですね・・・僕はこの曲の作曲者である新田”ヨロシク”一郎さんのことを、つい先日までほとんど何も知らなかったのです。本当に、「渡り鳥 はぐれ鳥」の作者として名前を覚えていた、というただそれだけ。
もちろん新田さんが、あのキャンディーズのバック・バンドから進化した「スペクトラム」というバンドのリーダーであることも知りませんでした。まったくお恥ずかしい次第です。

で、このたび新田さんのことを色々と調べることになったきっかけというのが・・・。

2週間ほど前でしたか・・・ふと隣の部屋からカミさんが声をかけてきました。
「”スペクトラム”って、何かジュリーと関係ある人がいたバンドだったっけ・・・?」

どうやらカミさんはSNSか何かで、友人達と好きなアーティストの話題の最中だったらしく、友人のひとりが「スペクトラムのファン」と言ってきたみたいで。
僕は
「なんとなく聴き覚えあるなぁ・・・そうだったかもなぁ」
と情けない返答。

「スペクトラム・・・スペクトラム・・・あ、これや!」
と、ゴソゴソとYou Tubeで検索ヒットさせたらしく、カミさんの部屋のPCから突如豪快なイントロが流れてきました。
瞬間、僕は思わず飛び上がりましたよ。

「じぇじぇじぇ!そ、その曲は・・・!」

嗚呼・・・懐かしき我が少年時代の憧れとリンクする、力強いイントロ。「スタン・ハンセンのテーマ」に間違いありません。
http://www.youtube.com/watch?v=dAWmbUEJfg8

それにしても驚いた・・・。
あのスタン・ハンセンのテーマが元々、「サンライズ」というタイトルの日本人バンドによる歌モノだったとは・・・20数年後の今になって知る、衝撃の事実。

あ、スタン・ハンセンってみなさまご存知でしょうかね。
「ウエスタン・ラリアート」
(←ハンセンの場合は「ラリアット」とは言いたくない)という必殺技で一世を風靡した、かつてのトップ中のトップ・プロレスラーです。
カウボーイ・スタイルのコスチュームで登場し、「不沈艦」のニックネームで多くのプロレスファンや選手に怖れられ、そして愛された伝説の男。
現役時代はメチャクチャ怖かったですよ~。引退後は人が変わったように温厚なオジサンになりましたが・・・確かプロレスラーになる前は学校の先生をしていたんだっけ・・・。要は、強くて優しい、男の中の男なのです!
当時のプロレス雑誌には時折、試合のみならず選手のオフ・ショットなども掲載されていたものでしたが、ハンセンの写真で僕が一番心に残っているのは、巡業移動中に駅で故ブルーザー・ブロディとふたり仲良くうどんを立ち食いしている時の、穏やかで優しそうな表情。左手で上手に箸を持ってね・・・試合での怖いハンセンしか知らなかったから、すごく新鮮に感じました。

プロレスラーのテーマ・ソングというのは、選手入場時に会場内に流れます。しかしハンセンの場合はね・・・ブルロープを振り回し、お客さんが逃げまどってできたスペースを全速力で駆けて入場してくるのです。時間にしてほんの数秒・・・毎回、本当にアッという間だったんです。
リング・インして猛進の勢いのままに「ウィ~~~ッ!」と雄叫び一発する頃には音響さんが音楽を止めますから、「スタン・ハンセンのテーマ」はいつも、イントロのホーン・セクションひと回し目くらいまでしかお客さんやテレビの前のファンの耳には届けられなかった、というわけ。
もちろんテーマ・ソングは「サンライズ」原曲そのままではなくインストゥルメンタルに編曲されているはずで、ハンセンの入場時にAメロ部までじっくり聴くことができていれば、「あぁ、たぶんここは本来歌メロがあるんだろうな」と当時から気がついていたかもしれません
(後註:記事up直後、会場使用ヴァージョンを発見。イントロ以外は原曲とは全然違う雰囲気になってました)
でも「じっくり聴く」なんてのはハンセンのあの荒ぶる入場シーンではどだい無理。
だからこそ、あのイントロ・メロディーの衝撃が強くいつまでも鮮明に記憶に残っていた、とも言えますけどね。

おっと・・・長々とスタン・ハンセンについて語ってしまいましたが(汗)。

この「サンライズ」という曲を久々に聴いて、やっぱり素晴らしいなぁ、と思いました。スペクトラムの演奏は本当に凄いし、何より曲が良いのです。
そしてそこで初めて、スペクトラムのリーダー兼トランペット奏者、作曲家としての「新田”ヨロシク”一郎」さんの名前を見つけ、大興奮。
これはもう、「サンライズ」のような名曲を生んだプロフェッショナル、新田一郎さんが作曲しているジュリーのブラス・ロック「渡り鳥 はぐれ鳥」を再考察しないわけにはいきません。

必然、怒涛の映像検索。僕は1984年当時の「渡り鳥 はぐれ鳥」の映像を探しまくりました。

結論・・・これは素晴らしい名曲ですよ!
http://www.youtube.com/watch?v=utq2TYrvCJQ

(up主様に感謝!)

この曲はジュリーファンの間でも好き嫌いが分かれているようですね。いや「嫌い」というのは言葉が悪い・・・この曲が苦手、という先輩方は
「曲がどうと言うより
、なんだか見ているのが辛かった」
とよく仰います。
その当時のジュリーの歌い手としてのスタンスに対する、ちょっとしぼむような胸のざわめき・・・そんなファン目線での思い出とシンクロしている感じなのでしょうか。ずっとジュリーファンを続けてきた故の、タイムリーな「時代」の感覚なのかな。

先輩方のお気持ちを紐解きますと、どうもこういうことになるらしいです。
シングルの売れ行きにも翳りが見え始めていて・・・それはそれで良いのだけれど、そろそろヒットとかアイドルとか関係なく、アダルトな歌で勝負していくスタイルに移行しても良いのに、無理に派手な路線を続けようとしている・・・それがセールスに結びつかずに空回りしている・・・そんなふうに見えていた、と。

確かに、手元にある歌本『YOUNG SONG』の当時の号を見てみても、この曲はアー写無しのモノクロ・ページに追いやられてしまっている・・・ジュリーにとってそういう時期が来ていたのだ、という事実は否めません。

560


よく考えますと、僕もこの曲はタイムリーで知っています。
おどけたチャーミングな振付で歌うジュリーをテレビで観ながら、僕も先輩方と似たような感覚を持っていたかもしれない、と思い起こさないでもないのです。

でも、ちょっと待って!

じゃあ、「渡り鳥 はぐれ鳥」という曲を、何歳くらいのジュリーが歌ったらしっくりくると思いますか?
弟キャラを持ちつつも、30代から40代へと年を重ね・・・一般の社会人で言えば、仕事も遊びも「男」が際立つ、そんな充実一途、熟したパッションに満ち溢れた年齢のジュリー。
この曲を歌うにふさわしかったのは、やっぱり1984年のジュリーではないでしょうか。当時のジュリーが持つ独特の色気があってこその、この軽妙なプロモート。
「渡り鳥 はぐれ鳥」の歌詞中の主人公も、ちょうどそのくらいの年齢なのでは・・・?

♪ 港町 おいら渡り鳥
  E               F#m7

  口笛であのドアを叩く ♪
     B7                    E

先にリンクさせて頂きましたこの曲の映像を観ておりますと、とにかくジュリーを中心とした演奏陣の配置が、見た目としてまずカッコイイ!

当然中央には、熟した男の色気がムンムンのジュリー。
そのすぐ左で小刻みに身体ごとリズムを刻みギターを弾く柴山さん、右にはドシッと落ち着き払いながらも超絶の指弾きを披露するベースの建さん。
少し開いた感じで左に陣取りキメのフレーズを連発するキーボードの西平さん、渋い!
そして右に開いてエレクトリック・ドラム(エレドラ特有のタムの音がいかにもこの時代、って雰囲気です)のユカさん。
この、右端にドラマーがいる、というポジションが個人的には新鮮でした。ホーン・セクションの存在によってそういう配置になるわけですが、先にご紹介したスペクトラムの映像もしかり・・・バンドの絵的にカッコイイと思うんですね~。

で、そのホーン・セクション・・・後方の高いステージで振付と共に豪快に炸裂するブラスが”BRASSTICS”のみなさま・・・?

不勉強な僕は、どのパートがどなたなのやらお名前の判別がつかないのですが・・・編成は、向かって左からテナーサックス、トランペット、トロンボーンですか。
いやはや大変にゴキゲンなブラス・ロックですよ・・・さすがは「サンライズ」の新田さんの作曲作品!
エキゾティクスのメンバーも、こうして見るとこの曲、かなりテンション高めじゃあないですか~。

♪ おまえの望み通りに
  E                   F#m7

  冬になる前に帰ったと
     B7                     E       C#m B

  鼻歌混じり 見慣れ た
  E                  F#m7  G#m7

  階   段   登った ♪
  F#m7   G#m7       C#m

三浦徳子さんの歌詞も、僕はこれまで深く味わうことがないままこの曲を聴いてしまっていましたが、いやいやこれは・・・情景が鮮やかに浮かんでくる素晴らしい詞だったんですね。
この詞に登場する「港町」は横浜とか神戸のような大きな街ではなく、地方の小じんまりした港を連想させます。
そんなひなびた風景の中に一見不釣合いな伊達男が現れて町の娘達を虜にし、すぐに去っていく・・・そんな気ままな旅の途中で「いつかのあの娘は元気かな」とひょっこり思い出の町に戻ってきた主人公
(←でも、娘の顔も名前もよく覚えてない)。と、そんなシチュエーションでしょうか。

そして僕は「港」というフレーズをジュリーに歌われると、条件反射的に自分が全ジュリー・アルバムの中で最も愛する『JULIEⅡ』の主人公をイメージし、勝手にストーリーを組み立ててしまう、ということが判明いたしました(汗)。
かつて年上の女性と一途な禁断の恋に落ちた少年は、10数年後の「渡り鳥 はぐれ鳥」ではずいぶんな浮気者、イカした恋の放浪者に成長(?)したようです。

僕はおそらく「ブラスロック」というアレンジからも、ジュリーの歌う「港」を瞬時に連想しているのだと思います。
例えば『JULIEⅡ』の「港の日々」や「許されない愛」、さらには『JULIEⅥ~ある青春』の「悲しき船乗り」・・・いずれもアップテンポのブラス・ロックです。そんな力強いブラス・アレンジの中に、かつてジュリーが演じた船乗りの少年の成長を、その後幾多のジュリー・ナンバーの変遷に重ね合わせて見てしまっているのでしょうね・・・。
これは本当に個人的な、特殊な楽しみ方だなぁと自分でも呆れます。

さて・・・果たしてこの「渡り鳥 はぐれ鳥」、この先LIVEで生で聴く機会は訪れるでしょうかね・・・。
「OH!ギャル」や「どん底」よりは可能性あり、とは思いますがなかなか厳しいのでしょうか。そんな意味でもやっぱりこの曲は、30代のジュリーが歌うのが一番しっくりきていたのではないか、と思ってしまいます。

でも最近では、1997年の『サーモスタットな夏』ツアーで歌われ、DVDで映像も残されています。
DVD購入時点では僕はまだまだジュリーの歴史についての知識が浅くて、普通に「多くのヒット曲の中から今回はこれを選んだ」感じだったのかなぁと考えながら観ていましたが、今にして分かる・・・「渡り鳥 はぐれ鳥」が採り上げられたこの年のセットリストは、かなり貴重だったんですね!
演奏中、手が空いた時に泰輝さんが繰り出す狂乱のダンスも、この年の「渡り鳥 はぐれ鳥」映像の大きな見所。でもこれはもう観ることは叶わないでしょうね。今のジュリーがツアーでこの曲を採り上げたとしても、泰輝さんは左手でベースラインを弾かなければならないでしょうから・・・。

最後に・・・記事のお題とはまったく関係ありませんが、オマケ画像をご紹介します!

Img575

我が家が利用しているパルシステムの最新チケット・インフォメーションに掲載されていました。
まぁ、ジュリーのツアーは毎年掲載されるんですけど、今回からようやく写真が変わりましたよ・・・(ずっと『ワイルドボアの平和』の写真が使われてた)。
これなら、まごうことなき近影ですね!
この写真は、『北海道新聞』などで今年から各地で使われ始めているようです。

僕は和光のチケットをもう既に澤會さんに頼んでありますが・・・この会場、現在の住まいからは、超地元なのです。
来い恋コイ、地元神席!!

ということで次回のお題は・・・決めてません(汗)。
以前から、あるJ先輩のために書こうと決めている曲があるんですけど、そろそろじゃないのかな?と楽しみに待っているところなんですけどね・・・。タイミングが合えばその曲のお題になりますが、まだそれは先に延びて全然別の曲になるかもしれません。

暑かったり寒かったり、地震があったり・・・など、何かざわざわしてしまっているこの頃。
拙ブログではそんな中、ツアー初日までできるだけ楽しい記事を頑張って書いていきたいと思っています!

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2013年4月16日 (火)

沢田研二 「不良時代」

from『JULIEⅣ~今 僕は倖せです』、1972

Julie4

1. 今 僕は倖せです
2. 被害妄想
3. 不良時代
4. 湯屋さん
5. 悲しくなると
6. 古い巣
7. 
8. 怒りの捨て場
9. 一人ベッドで
10. 誕生日
11. ラヴ・ソング
12. 気がかりな奴
13. お前なら

---------------------

申し訳ありません!
今日は楽曲考察記事ではなく、旅日記シリーズです。

これは数ヶ月ほど前・・・母親の13回忌の日程がハッキリした時から、この曲のお題で僕の故郷のことを書こう、と決めていたのです。
そして、去る13日~14日の1泊2日で、我が故郷・鹿児島県は隼人町(現在は市町村統合して「霧島市」の一角となっていますが)に帰省して参りました。

『ジュリー祭り』でも採り上げられたこの大名曲「不良時代」のお題がこのような記事になり、また怒られるかもしれませんが・・・たぶん男性ジュリーファンなら少し分かってくださるような気がします。ジュリーの「不良時代」に自分の10代を重ね合わせ、当時のことを思い返してみたくなるこの心境・・・。

さらに僕のように高校生までを田舎で過ごし、上京してその後ずっと都会に暮らす、という人生を歩んでいる者にとっては、10代の思い出と重なる「不良時代」という曲がそのまま故郷の風景や懐かしい友人達との日々・・・そんなイメージに染められているのです。

しょうもない記事となりますが・・・ゆる~い感じでおつき合い頂ければ、と思います。
よろしくお願い申しあげます!


☆    ☆    ☆

僕の故郷、鹿児島県霧島市隼人町。
九州の南の果ての県とは言え、交通の便には恵まれている方だと思います。羽田から飛行機で2時間弱、これで空港から実家まで距離があると不便極まりないのですが、鹿児島空港の山を下れきればすぐそこが我が町、隼人町。

ズバリ「隼人」という地名出身ということもあってか、僕は「九州男児ですね」と言われるより「薩摩隼人ですね」と言われる方が全然嬉しい。まぁこれは、鹿児島県出身の男性ほとんどがそうなのかもしれない・・・のですよピー先生。僕はこの点、トッポのこだわりがよく分かるなぁ~。

今回も、天気に恵まれた2日間だったことは何よりでした。考えてみれば、1周忌、3回忌、7回忌とも素晴らしい晴天で・・・この13回忌も相変わらず、76歳になるというのに調剤薬剤師としてバリバリ現役の元気な父親の仕切りで無事とり行うことができました。
前回7回忌の時と違うのは・・・僕と次弟が妻帯者となり家族が2名増えていることのみ。

実家に寄りしばし歓談の後、午後3時からの13回忌法要は、実家から車で5分・・・母や祖父母が眠っている、錦織寺別院にて行われました。

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現在の住職は、僕の中学校の2年後輩。まぁ、今は僕の方が全然若く見える・・・と思いますけどね!
お寺はその中学校のすぐ近くにあり、懐かしい場所です。この近辺は、僕が中学生だった頃と景色もほとんど変わっていないのが嬉しいです。

法要は滞りなく終わり、父、僕等長男夫婦、次男夫婦、三男夫婦と子供2人の計9名は地元の有名焼肉店『なべしま』で会食。
で、本来長男夫婦はその後実家に泊まるべきところ、長年父一人の生活の場となっている実家はとてもそういう状態ではなく。
母が健在だった頃はキレイに片付いていたんですけどねぇ・・・。まぁ、この息子にしてこの父親あり、といったところでしょうか。

結局僕ら夫婦は、車で15分ほどの隣町、日当山(ひなたやま)というところに泊まりました。

日当山は霧島市においても有名な温泉街です。過疎地でひなびたところですけどね・・・それが良い。九州は宮崎県にお住まいのジュリーブロガー、J一郎様が見事”泉人”の称号を得るまでの過程で、何度もこの日当山温泉街を訪れていらっしゃいました。
そのJ一郎様のブログにはまだ登場しておりませんが、僕らが今回の宿とした『清姫温泉』も日当山温泉街宿のひとつです。

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この『清姫温泉』は敷地内に宿泊場、食堂、宴会場、そして大衆浴場の4つのこじんまりした建物から成っていて、昔ながらのレトロな雰囲気が楽しめます。
良くも悪くも「レトロ」・・・もちろん「悪くも」というのはそれも込み込みで旅情を満喫できるという意味で、夜中にすぐ近くからひっきりなしに牛の鳴き声が聞こえてくるという・・・。これはむしろ田舎旅の本懐と言うべきでしょう。

写真を撮り損ねましたが、湯、朝食ともに素晴らしかったです。

大衆浴場の湯は小さく3種類に分別されていて、僕はもっぱら「あつ湯」にじっくりつかりました。近所(たぶん)のオジサン達がお湯だけ入りに次々に「こんばんは~」と声をかけながら入ってきて、何とも言えないのどかな雰囲気。

朝食のオススメは何と言っても味噌汁です。僕にとっては懐かしい味・・・他地方出身の方々は一瞬ビックリするかと思いますが・・・かなり甘みの強い味なのです。僕は朝からそんなにバリバリ食べられない性質なのですが、カミさんはご飯をおかわりしていました。食堂のオバチャンは何の疑問も持たずに僕の前におかわりのご飯を持ってきていましたけどね!

翌朝、飛行機の時間までどう過ごすかをあれこれ考えながら、まずは近辺を散歩。
写真に思いっきりカミさんが写っているのでupは控えますが、すぐ近くに『野鶴亭』という温泉宿があり、敷地の一角にある足湯を道ゆく人に「ご自由にお入りください」と解放してくれています。無論、今回僕らもそちらで足湯を堪能してきました。

少し歩くと

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これが天降川。「あもりがわ」と読みます。
霧島から降り錦江湾に至るこの川は、僕の少年時代とは切り離せない原風景のひとつです。

さて、宿に置いてあったパンフレットなど検討し、肥薩線(肥後人吉と薩摩隼人を結ぶ、一応JR線。ちょうど空港に近づく感じで山を登っていく路線です。まぁ近づく、とは言っても空港のそばに駅があるというわけではないのですが・・・)の『嘉例川(かれいがわ)』駅の駅弁が有名、という情報を得ました。
これは地元出身の僕も初耳で、昼食はそれにしようということになり、肥薩線に乗車することに。

肥薩線出発駅である『隼人』駅すぐ近くの実家で育った僕ですが、実は肥薩線にはほとんど乗ったことがありません(電車と言えばおもに、鹿児島市内へと至る日豊本線を利用していました)。
初めて乗ったのが、高校生の家出の時ですよ!と言っても1夜だけのことでしたから、家族は家出なんて思いもしなかったでしょう。バンドにうつつを抜かしていた僕は、親に無断で音楽仲間の家に泊まることも多かったですから・・・。

ただ・・・今日はジュリーの「不良時代」のお題で執筆しているわけですが、そうやって無断外泊を繰り返したりする僕の素行を、当時母親は「このままだと不良になってしまう」と父親にこぼしていたらしいです。
心配する母に父は「俺とお前の子供が不良になるはずないだろう」と言い切ったのだとか。何を今さら女房を口説いてんのか、って話ですが、そんないきさつを初めて聞いたのは母が亡くなった直後だったので、何か胸に来るものがありました。
ちなみに家出の理由は、祖父が母をどうでも良い理由でいじめていたので、僕が祖父に喧嘩を仕掛けたら、逆に母に酷く怒られてしまいイジケた、というものでした。
この家出のことについては、今日のお題「不良時代」と共に「遠い旅」を聴くたびに何故かまざまざと思い出されるのです・・・。

そんな思い出のある肥薩線。
『隼人』を始発に、『日当山』『表木山(ひょうきやま)』『中福良(なかふくら)』『嘉例川』」と、どんどん標高が上がっていきます。
当然今回は実家近くの有人駅『隼人』ではなく、次の無人駅で宿の最寄りである『日当山』から乗車することになりました。

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日当山駅。
閑散とした空き地の中に忽然と駅舎がある、という感じ。

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こちらが駅構内。
人っ子ひとりいません。「ホントに電車来るの?」と不安げなカミさんでしたが、しっかりと定刻に、ワンマン運転のディーゼル1両編成の列車がやってきました。
後部ドアから入り、整理券を取ります。「バスかよ!」なんて言わないでください。それは都会の理屈ですよ~。肥薩線はほとんどが無人駅ですから、これが無いと乗車成立いたしません。
さらに、乗客は僕ら2人きりです!
珍しくこんな時間の乗客を迎え、車内アナウンスをする運転手さんの声が心なしか張り切っているような気が・・・。

次駅の『表木山』で、早速田舎の単線ならではの体験・・・「対向列車の通過待ち」が約10分間というね。

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運転手さんも一旦車外に出て、のんびりと駅の草をむしったりしていましたよ~。

その後も山、山、山・・・な景色を列車は進み、誰ひとり乗車して来ないまま、『嘉例川』駅に到着。
で、ビックリ!ホームに人がたくさんいます(と言っても7、8人ですけどね)。
皆さん乗客ではなく、『嘉例川』駅に観光に来られた人達。明治時代に建てられた駅舎がそのまま残っているという『嘉例川』駅・・・実は鉄道名所として全国的に知られているようです。NHKの人気旅番組、鶴瓶さんの『家族に乾杯』で、結構最近紹介されたのだとか。

僕らはホームに人がいるのを見てビックリしましたが、ホームの人たち(無人駅ですからホームには自由に出入りできるというわけです)も「おおっ、電車に人が乗ってる!しかも降りてきた!」みたいな感じでテンション上がってた・・・(汗)。


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味わい深い『嘉例川』駅舎。
駅構内は資料陳列コーナーもあります。

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最大の目的だった名物の駅弁は、何と品切れ。残念・・・。

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駅前の広場を出ればそこはいきなり、急傾斜の坂道。
高台から線路を見下ろすと、珍しく2両編成の列車が通過。ただ・・・それでもこの時間(お昼時)は誰ひとり乗車していなかったなぁ・・・。

その後、バスの停留所を間違えたりして冷や汗をかきながらも、無事山頂の空港に辿り着き、羽田へと帰還したのでありました。
ひょんなことで肥薩線の旅が叶い、大変有意義な帰省でした。

☆    ☆    ☆

旅日記のみではナンですので、最後に「不良時代」という曲についてのお話を少し。

先日再放送もあった拓郎さんの番組、『吉田拓郎の千夜一夜』第1回・・・ジュリーとの対談で僕が最も興味をそそられた話題は
「ジュリーは70年代初めのフォークソング・ブームをどう見ていたのか」
という拓郎さんの質問。
ジュリーは「うらやましかった」と答えていましたね。

これは少し考えてみれば、大いに納得です。
当時フォークシンガー達は自作曲で、自分の歌いたいことを歌い、それが支持されてきた・・・ジュリーはその頃から「自分の詞で歌えれば」と発言していたわけですから、そういう目で拓郎さん達に憧れの視線を持っていたのでしょう。

そして・・・僕は「不良時代」という曲は、そんなジュリーのフォークソング・ブームへの憧れが色濃く反映された代表例だと考えています。
堯之さん達のアレンジによってロックの要素が味付けされていますが、純粋にジュリー作詞・作曲の段階では、この曲はモロにフォークのアプローチで作られたんじゃないかなぁ。

例えば

♪ 仲間と一緒に ぐれていた若い日 ♪
  D          G       D   A        D

この辺りのメロディー。
フォークシンガーがこの曲をカバーしていたら間違いなく、「仲間と~♪」の「と」の部分は鼻で抜くファルセットで「とお~♪」になると思います。
そういった、いかにもフォーク、な歌い方にふさわしい旋律になっているんですよ。

また、アルバム収録曲中「不良時代」が唯一でしょうね・・・いわゆる「普通の」コード進行の曲は・・・。
他の曲では、ジュリーの採り入れたコードの組み合わせが斬新で、それがいかにもロック畑・・・鋭角的なんですが、「不良時代」だけは驚くほどに素直な進行。逆に新鮮に感じてしまうほどです。

従って、「不良時代」は採譜もいたって簡単。
ところが・・・僕の手元には4種類の「不良時代」のスコアがあるのですが、すべて表記に違いがあるんだよなぁ・・・。

まぁこの曲で採譜に苦心しそうな箇所を敢えて挙げるとすれば、「今よみがえる♪」から始まる展開部でしょうか。

その部分最後の「顔も道も家もすべて♪」のキメ部で最も的確と言うか、文句のない採譜をしているのがこちらのスコア。

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↑ 『沢田研二・イン・コンサート』より

「G→D(onF#)→Em→D」。これはベース音が「ソ→ファ#→ミ→レ」と下降していく楽曲全体のアレンジをも1本のギター・コードで表現しているという理屈です。
CDと同時に弾いてもバッチリ合います。
ちなみに「D(onF#)」は、ローコードの「D」に加えて親指で6弦2フレットを押さえるフォームがおススメです。

続いてこちらはどうでしょうか。


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↑ 『沢田研二のすばらしい世界』より

「G→Bm→E7」となっています。
弾いてみると全然違う曲になっちゃってますが、メロディーとは合っています。アレンジの拡大解釈としてはなかなか味の良い採譜と言え、ギター1本で弾き語るのならば、この進行はアリだと思います。
ただ、CDを流しながら同時には弾けませんね。

次に、これ。


Furyou4

↑ 『沢田研二 ビッグヒット コレクション』より

該当の1小節すべて「G」のコードで貫いていますね。でもこれはメロディーと合うばかりでなく、本来ジュリー作曲の時点ではこうだったのではないか、と考えることもできます。
『沢田研二・イン・コンサート』で表記された進行は、堯之さん達のアレンジ段階で練られていったものだった可能性があるのです。
ですからこの「G」で通す採譜もアリですね。

問題なのは、コレですよ・・・。


Furyou5

↑ 『沢田研二のすべて』より

いや、このスコアはオリジナル音源のニ長調をハ長調に移調して初心者向けにしてあるので、「Am」が登場するのは当然です。
ただ・・・「はじめての恋♪」の「恋」から4小節ブッ続けで「Am」で押し通すというのは・・・。
どんなに感情を込めてエモーショナルに弾いて歌ったとしても、この曲のメロディーの素晴らしさはまったく伝わらないです・・・。
まぁ、採譜ひとつとっても大らかな時代だったということでしょうね・・・。


ということで。
次回更新からは再び通常の楽曲考察記事に戻ります。
『ジュリー祭り』に選ばれなかったシングル・・・僕が生で聴いたことのない有名曲のお題を予定しております。
どうぞお楽しみに!

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2013年4月10日 (水)

沢田研二 「憂鬱なパルス」

from『REALLY LOVE YA !!』、1993

Reallyloveya

1. Come On !! Come On !!
2. 憂鬱なパルス
3. そのキスが欲しい
4. DON'T SAY IT
5. 幻の恋
6. あなたを想う以外には
7. Child
8. F.S.M.
9. 勝利者
10. 夜明けに溶けても
11. AFTERMATH

--------------------

先日執筆を終えた『Pray』収録全曲の考察記事では、昨年に引き続いて大長文連発となってしまいました。おつき合いくださったみなさまに感謝・・・温かいコメントもたくさん頂きまして恐縮です。

今後の更新予定ですが・・・夏からの『Pray』全国ツアー開幕まで、ジュリー・ナンバーのお題づくしで、なるべく長文になり過ぎないようにしながらできるだけ多くのお題を採り上げ記事を書いていきます。
5月いっぱいまでは完全に自由お題。6月に入りましたら恒例の”全然当たらないセットリスト予想”シリーズに取り組みます。全国ツアーを前にした数ヵ月というのは、毎年拙ブログの更新頻度が上がる時期なのでございます。

ツアーが始まりますとしばらく拙ブログではセットリストのネタバレ禁止期間とさせて頂きますので、その時にピー先生の「楽しい時は歌おうよ」や、ザ・タイガースのナンバー・・・あと、ジュリーファンも応援している若いアーティストの旬な作曲作品など書く・・・ことになるといいなぁ、と考えています。

ということで、今回は久々の自由お題となりますが・・・。
先日の「
Deep Love」の記事にて、「次は思いっきりセクシーなジュリーの曲を」とmomo様にコメントを頂きまして。
さぁ困りました。僕はどうもその辺りのセンス(主に美的センス)が著しく欠けているようで、はてどの曲を採り上げたらよいやら・・・。

少年時代にテレビでタイムリーにジュリーを観ていて「色っぽいなぁ」と感じたことのある曲は、「
麗人」。中性的なヴィジュアルが逆に「男」を際立たせているように思えて、エキゾティクスのスリリングな演奏(まぁ、当時は専門的なことはまるで分かっていませんでしたが)も合わせ、じっと画面に魅入っていたものです。
ただ、「セクシー」だと感じていたかというと・・・その頃そこまで熱心に観ていたわけではなかったかなぁ。

でも、今の僕は確かにジュリーに「セクシー」な魅力も感じています。一体どのくらいの時期から、どんな曲でそう感じ始めたんだろう・・・?
遡って記憶を辿ってみると、たぶんそれは、初めて「ライヴの」ジュリーを映像で観た時だったように思います。
やっぱりね、僕のようなセンスに劣る者でも、ジュリーがそのセクシーな魅力を爆発させるのはまずLIVEステージである、ということはどうにか嗅ぎ取れていたようです(当然、本格的にジュリー堕ちしたドーム参加以降、あらゆる時代のジュリーのステージ映像を観て「セクシーなジュリー」を数々認識させられることになります)。

その具体的な時期は、『ジュリー祭り』参加よりも数年ほど前の、いわゆる”第1次ジュリー堕ち期”の終盤。2006年くらいでしょうか。
ジュリーファンの盟友・YOKO君と競うようにしてポリドール時代のアルバムをすべて聴き終え、「今度は映像作品に手を出してみるか」ということで僕が最初に購入したDVD作品が『REALLY LOVE YA !!』でした。
僕にとってこれは、アルバムよりも映像を先に観た、という初めての作品でしたね。
楽曲の素晴らしさに感動し、すぐにCDも買った(当時はまだ普通に定価で売ってました)ほどですが・・・やっぱり1曲1曲についても、映像のインパクトの方が強かったのです。

ミック・ジャガーばりのブチ切れた無我のアクションで突き抜けるように歌う「F.S.M.」。
優しさ溢れるヴォーカルに加え、柴山さんのスライド・ギターも素晴らしい「夜明けに溶けても」。
額に汗を浮かべ髪を濡らして、美しい表情で何かを求めるように熱唱する「幻の恋」。

『REALLY LOVE YA !!』から僕はまずこの3曲にガツン!とヤラれてしまいましたが、もちろん他アルバム収録曲も名曲ばかりです。
その中から僕の感性で「セクシーなジュリー」をテーマにするとしたら、この曲でしょうか・・・。
これはいつもコメントをくださる何人かの方々が「大好きな曲」と挙げていらっしゃるのを拝見していた曲ですので・・・今回「リクエスト」にお応えする、という形で書かせて頂きます。
「憂鬱なパルス」、伝授です!

まずこの曲は、いかにも吉田建さんプロデュース期らしい、良い意味での”虚像としてのスーパースター・ジュリー”という狙いが他を圧倒して特に強く前面に押し出されたナンバーなのですね。
歌詞も曲もアレンジも、ロック・アートの雰囲気に満ちています。ジュリー自身がそれをどう受け止めていたかはともかく、やはりこういったアプローチは建さんがジュリーに求めてやまないところだったのでしょう。
前作『Beautiful World』では一歩後退したかに見えたそのコンセプトが、『REALLY LOVE YA !!』では「これが最後!」と言わんばかりの建さん気合のアレンジと共に復活。
「プロデューサーが絵を描き、ジュリーがそれを演じきった」アルバム・・・『RALLY LOVE YA !!』は現時点でその最後の作品となっていると思います。

元々『REALLY LOVE YA !!』がファンの間で特に人気の高いアルバムと言えそうですが、収録曲中でガッチガチにロックなアプローチが目立つナンバー2曲・・・”動”の「憂鬱なパルス」と”静”の「AFTERMATH」は、多くのジュリーファンの先輩方に特に高い評価を得ているようですね。
このアルバムから「セクシーなジュリー」を求めるならばこの2曲のいずれか、ということになるのではないでしょうか。今日は「憂鬱なパルス」を採り上げましたが、「AFTERMATH」も近いうちに書いてみたい曲です。
この2曲の比較対照には、面白いポイントがたくさんあります。「AFTERMATH」のお題記事ではきっと、今書いている「憂鬱なパルス」の記事から参照しての考察が度々展開されることでしょう・・・。

さて、「憂鬱なパルス」。
森雪之丞さんの詞は抽象的ながらも官能的で、フレーズの組み合わせから浮かび上がるイメージは、宇宙規模の孤独。つまり、ギラギラにグラム・ロックしてます!
僕は森さんの作詞について、自らの不勉強故、ジュリー・ナンバーのおかげでようやく正当な評価に至った、という情けない経緯があります。
今では大いにリスペクトする作詞家さんの一人。

森さん作詞のジュリー・ナンバーで一番好きなのは『単純な永遠』収録の「気にしてない」。次に『PANORAMA』収録の「君の憂鬱さえも愛してる」。続いてこの「憂鬱なパルス」でしょうか。本当に素晴らしい!
「君の憂鬱さえも愛してる」については少し色が違いますが、「気にしてない」「憂鬱なパルス」に見られるように、森さんの「言葉使い師」たる最大の魅力は、その「アブナさ」ではないでしょうか。あと、良い意味で「突き放した」ような感触があるのも森さんの詞の特性かと思います。

極彩色で尖った無数のカード(フレーズ)が、歌世界で幾重にも舞っているような感覚。メロディーの抑揚を最大限に生かす語感。
深い意味があるのか、まったくの無意味なのか。そのスレスレのところで聴き手に眩暈を呼び起こす・・・これは真の天才にしか許されない手法でしょう。

僕がタイムリーで流行歌として知っていた森さんの作詞作品には、実はそんな魅力を感じたことがありませんでした。語呂遊び的な要素の印象の方が強く、どちらかと言うと「好みではないな」と考えてしまっていて・・・今にして自分の不明をひたすら恥じるのみです。
森さん、ジュリー・ナンバーでこんな凄い刀を抜いていたんですねぇ・・・。

ジュリーはよくデヴィッド・ボウイと比較されることがありますよね?
ただ、そこでよく対象に挙げられるオールウェイズ期、エキゾティクス期のジュリーとデヴィッド・ボウイは、少なくとも楽曲コンセプトについては僕の中で全く重なりません。もちろんそう考察している方々は、たぶん僕の知らないヴィジュアル的な何かを見ているんだろうとは思うのですが・・・。

で、僕の中でジュリーとボウイがハッキリとシンクロするのは、圧倒的に吉田建さんプロデュースのJAZZ MASTER期です。特に『単純な永遠』は徹底されている、とすら思えます。
そういった狙いが、『REALLY LOVE YA !!』にはアイデアとして残されていて、「憂鬱なパルス」など収録曲のいくつかに引き継がれているような気がします。
これについては銀次さんの『G.S. I LOVE YOU』制作秘話を読んで、やっぱり僕の感覚は間違ってない、と思ったんですよね・・・。
銀次さんは建さんプロデュース期のジュリー・アルバムにおけるデヴィッド・ボウイ的アプローチを「自分自身がやり残したこと」と、ある意味羨望の気持ちで捉えていて、それが2000年『耒タルベキ素敵』の「アルシオネ」(銀次さんの作曲作品)で、ボウイのオマージュとして爆発したんじゃないかな・・・。

で、これが何の話に繋がるかと言うと・・・森雪之丞さんが1984年、『YOUNG SONG』のインタビューで、「影響を受けた人」として早川義夫さんと共にデヴィッド・ボウイの名前を挙げているのです。

それによりますと、森さんはボウイの初来日公演を観に行かれているんですね(羨ましい!)。
曰く


(本文まま抜粋)
初来日のステージを見たときは感激したなぁ。歌舞伎風の衣装で出てきて黒子がそれをどんどん取っていくんだよね。このとき僕のペンネームはぜったい歌舞伎の名前にしようと思って、次の日雪之丞と付けたんですよ。

Pulse

『YOUNG SONG』1984年7月号掲載の森さんのインタビュー。
デヴィッド・ボウイの話題以外でも、ロックに目覚めたのはビートルズがきっかけだったこと、クレイジー・キャッツの思い出、キング・クリムゾンを詩の面から高く評価するなど、森さんが個性的なロック・パーソンであることが分かる興味深いお話が満載。2013年の今、改めてジュリーをロックに語って欲しいプロフェッショナルのお一人です。


森さんは当然、プロの流行作詞家となってもデヴィッド・ボウイのアルバムはずっと聴いていたはずです。例えば、あの「スペース・オディティ」の主人公、トム大佐が実は・・・とボウイが過去の自分の輝かしい名曲を衝撃的に叩き斬った「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」の歌詞。それと同質のアブナさが、「憂鬱なパルス」の歌詞には感じられます。

「ロック・スターを演じる」歌い手が心を壊されていく・・・というシチェーションをさらに歌で「演じる」ジュリー。それこそが「憂鬱なパルス」の真髄。
アブナいジュリー=セクシーなジュリー、ってことにもなるのかな。森さんはやはり、ジュリーに自らの憧れのスターの姿を重ねていたのかもしれませんね・・・。


「憂鬱なパルス」のアブナい魅力は、森さんの歌詞だけに留まりません。佐橋佳幸さんの曲がまた、変態チックというのか・・・危険なムード満載です。
むしろ、佐橋さんのこの強力な曲がまずあって、森さんの歌詞が引き出された、という感じだったのでは・・・(この時期のジュリー・ナンバーがほぼ曲先であったことは確実と考えられます)。

大体この曲、何調で採譜すればいいんですかね・・・。
まず、サビを歌うジュリーのアカペラ導入部はニ短調。引き続いてパンキッシュなギター・リフが噛んできますが、ここは「D7→G7→C7」でニ長調ですか。
このギター・リフが冒頭、1番と2番の間、2番と間奏の間、と曲中のキメ部として三度登場していますから、スコアは基本これにあわせてニ長調の表記とするのが適当なのでしょう。まぁ、「ド#」「ファ#」に臨時のナチュラルが付きまくることにはなりますが・・・。

さらに

♪ ホテルのペルシャ絨毯
  G7

  転がる影が ワインで 
  C    C(onB) Am    Am(onG)

  血を流して る 退屈さ ♪
        Dadd9   G7      A7+9

歌メロ最初の「G7」・・・これがギターリフを受けてのニ長調のサブ・ドミナントかと思って油断していると、次節でとんでもないところに跳んで退廃的に美しいハ長調のクリシェへ。
従ってこの「G7」はハ長調のドミナントとして使われているもので、ギターリフの残像で聴き手をハメようという、佐橋さんが仕掛けた第一の罠のようです。

そうかと思えば2回し目では

♪ 裸になった天使が
  G7

  マッチで燃やす翼は     俺の孤独と
  C      C(onB)  Am Am(onG)  Dadd9  G7

  ナ・ニ・シ・テ・ア・ソ・ブ・ノ ♪
  E7               A7

この、「ナニシテアソブノ」の進行が歌詞に負けず劣らずアブナい。
1回し目で「A7+9」のジミヘン・コードに着地しているのはまだ可愛いくて、「あぁ、同ルートのハードな着地点を狙ったんだな」と思えますが・・・ここに登場する「A7」はサビのニ短調のドミナント。その直前に「E7」にカッ跳んでいくあたりから第二の罠が仕掛けられています。

サビでは、和音はそのままに「レ→ド→シ→シ♭」とルートだけがガクンガクンと下降していくという、元々サイケデリック・ロックで頻繁に使われ出し、その後定跡化した進行です。
この手の進行は先日執筆した「Uncle Donald」のサビでも採り入れられています。2曲から受けるイメージはずいぶん違いますけどね。

佐橋さんって、ネットでお顔を拝見すると、どちらかと言えば”カワイイ系”のイケメンなんですが・・・実はその温和な表情の奥に凄まじい攻撃性を忍ばせていらっしゃるようです。その辺りに、美しい奥様(松た○子さん)をゲットなさった秘密が隠されているのかも・・・
(←単なる一般人のヤッカミ)

もちろん吉田建さんのアレンジも危険でエグい!
不協スレスレ・・・とまでいかないまでも、一歩間違えばアンサンブルとして成立しない音階のピアノ・ソロと、建さん自身のベース演奏が特に尖りまくってます。
あとは、先に触れた「気にしてない」などもそうなのですが・・・尖ったコード進行のロック・ナンバーに、一見不釣り合いなストリングス(シンセですけどね)を絡ませる、という建さんの手法が僕の大好物で。
「憂鬱なパルス」では、無機的とも言うべき単調な旋律のストリングスが、表拍をひとつひとつ分断するようにサビ部を刻み続けるのです。また、Aメロでは同じ手法がたった2小節、突飛な箇所に顔を出します。「レ」の音の刻みが合う進行部だけを選んで挿入されているわけです。
こうしたアレンジは、元を辿ればビートルズの「アイ・アム・ザ・ウォルラス」に繋がる、最高にアブナいロック・ナンバーの象徴的手管だと思います。

そして”アブナい曲”を歌わせたら天下一品のジュリー。これはキャリアによる表現力の向上と言うよりも、完全に天性・・・ザ・タイガース時代の「美しき愛の掟」や洋楽カバー、ソロデビュー間もない『JULIEⅡ』の「純白の夜明け」「許されない愛」の頃から既に発揮されていた、ジュリーの持つ天賦の才でしょう。

僕にとって「セクシーなジュリー」とは、ステージ上の汗とワンセットかもしれません。少し息切れしているくらいの状態ですね。
CDだけでは分からない声の出し方・・・例えば「ゆ・う・つ・な・パ・ル・ス♪」と細かくブレスするように区切って歌うジュリー。もちろん佐橋さんの作曲段階からその歌い方は確定しているところなのでしょうが、CDとDVDではその部分の印象が全然違います。一語一語叩き斬るようなヴォーカルは、ジュリーの激しい動きと汗でさらに説得力を増しているようです。
いわゆる”歌唱”というものではなく、ロックではこういうヴォーカルを「上手い」とするわけで・・・やっぱりジュリーはロックの人であり、「憂鬱なパルス」は最高にロックなナンバーなのです。

CD音源の演奏についても大いに語るべきところは残されているのですが、またまた長くなってきましたので・・・最後にひとつだけ。
2番の「何十万の孤独が闇に濡れてる、退屈さ♪」の直後に噛みこんでくるリード・ギターは、先日「Pray~神の与え賜いし」で少し解説したワウ・ギター演奏の典型的な音色です。”ムックリ・サウンド”まで踏み込んではいませんが、演奏の最後に指を離す瞬間の”ぎゅわん”という歪みがワウ・ギターならではのニュアンス。
これは柴山さんのレコーディング・トラックなのかなぁ・・・。でも、今の鉄人バンドで「憂鬱なパルス」が演奏されるとしたら、このパートは下山さんが弾くような気がしています。

ちなみにこのワウ・ギター、まったく同じ設定でエンディングのサビ繰り返し部のヴォーカルの後でもギャンギャン鳴ってます。
注意しないとほとんど聴き取れないのが勿体無いようにも思いますが、ヴォーカル・アルバムのミックスとはかくあるべし、かもしれませんね・・・。

さて、次回更新のお題はもう決めています。
普段の楽曲考察とはスタイルを違えた記事になりそうなのですが・・・今回の「セクシーなジュリー」に続いて今度は「純真なジュリー」とでも言いましょうか。若きシンガーソング・ライター作品としてのジュリー・ナンバーを採り上げる予定です。
『ジュリー祭り』でも歌われたこの曲・・・と言ったら、さすがにバレバレかな~?

それでは。
暑くなったり寒くなったりで、僕は遂に風邪をひいてしまいました。まぁなんとか寝込まずに来ていますが。
みなさまもどうかお気をつけて!

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2013年4月 5日 (金)

沢田研二 「Deep Love」

from『Pray』、2013

Pray

1. Pray~神の与え賜いし
2. Uncle Donald
3. Fridays Voice
4. Deep Love

--------------------

ジュリーの今年の新譜『Pray』の楽曲考察記事も、いよいよ最後の1曲となりました。

『Pray』収録曲のタイトルが発売に先立ち発表され、その時点で、今年もまた昨年同様に考察記事の執筆が大変な作品であろうことは、覚悟していました。
実際に曲を聴いてそれは確実となり、1週間に1曲ずつじっくり腰を据えて書いていこう、と決めました。そして、3曲目「Fridays Voice」への敬意も込めて「毎週金曜日の更新」を自分へのノルマとして課すことに。
ここまでの3曲・・・歌詞について、演奏について、ヴォーカルについて・・・といった感じで、考察の項目ごとに日程を組んで計画的に下書きしながら記事を仕上げてきました。

ところが先月の終わりに、勤務先の直属の上司である勤務先会社の部長が緊急入院するアクシデントがあって、いきなり忙しくなってしまって・・・。
新譜最後のお題「Deep Love」の下書きになかなか集中してとりかかれなかったばかりか、頂いていたコメントへのお返事すら遅れ気味になってしまいました・・・。

僕以外にもそういうジュリーファンは多いかもしれません・・・新譜4曲の中で一番胸に突き刺さり、ジュリーの深い思いを感じながら聴いている曲、それが「Deep Love」。
それだけに、執筆にはじっくり時間をかけたいところだったのですが・・・止むを得ません。
今日の記事は、これまで更新してきた新譜3曲の記事と比較しますと、バ~ッと一気に書いているような感じです。そのぶん考察が行き届かず、粗い記述になっている箇所などありえるかと思いますが、とにかく『Pray』から最後の1曲・・・全力で書かせて頂きます。
「Deep Love」、僭越ながら伝授です!

今回僕はこの新譜『Pray』を銀座の山野楽器さんまで買いに出かけ、帰宅途中の電車の中でまず何度か繰り返して聴いたわけですが・・・歌詞カードに目を通したのは家に着いてからのこと。
ジュリーの明瞭な発音、流れるような歌声もあって、車中でほとんどの歌詞が聴き取れた中(いや、「Uncle Donald」の改行まではさすがに分かりませんで、普通に「人は変われる♪」と聴き取っていましたけど)で、「うん?これは何と言ってるんだろう」と迷った箇所が、この「Deep Love」の

♪ 深情けだ 動画が悲しい ♪
     Dm7         G          Csus4   C

という一節です。
1度目に聴いた時には、「深情け」すら聴き取れず。「動画」のフレーズに至っては、歌詞カードを見るまでサッパリでした。

曲を最初に聴いた時点で
「あぁ、今回は最後の曲で一番キツイのが来たなぁ」
とは感じていて・・・いざ歌詞カードの「動画」というフレーズを確認してすぐに頭に浮かんだのが、僕の中でトラウマのようになっている、あの震災直後にテレビで見た、泣き叫びながら母親を探し求める女の子の映像でした・・・。
まさかあの映像が動画になって公開されているなんて思いませんが、そのいたたまれない映像が脳裏に甦ったのは、昨年の「恨まないよ」を初めて聴いた時にも体験したことです。
「うっ!」と胸がつまって目も耳もそむけたくなるような感覚が、今年の新譜からもやはり襲ってきました。

しかしそこで立ち止まるわけにはいきません。
ジュリーが何を思い、何を伝えようとして歌っているのか少しでも理解しようと、何度も何度もCDを通して聴きました。その度に、最後の「Deep Love」で胸が締めつけられるようでした。

なんとか平静を保てるようになってきて、詞と曲が同時に頭に入ってくるようになった頃、ようやくこの「Deep Love」のタイトルが、「深情け」というフレーズをジュリーなりに英訳したものなのだ、と気がつきました。「深情け」の反対の意のフレーズとして「薄情」と歌っていることも、追ってすぐに分かりました。

「深情け」というのは普通、あまり良い言葉としては使いません。言うまでもなくジュリーはそれを承知で敢えて歌っているのですが、「深情け」の対義語を「薄情」とするなんて、いかにもジュリーらしい感性だなぁ、と考えていたら・・・。

突然、ストンと腑に落ちました。

こうして記事を書いている今でも、その瞬間が胸に甦ってくるようです。
「そうか!」という感覚。とても悲しい歌なのに、それがむしろ救われていくような閃き。
ジュリーの歌っているテーマとはかけ離れた個人的な勝手な思いが、この曲の歌詞とメロディー、歌声に何故かリンクして、「すべてが分かった」と思ってしまった、その感覚・・・。
これがもし京極夏彦さんの小説『鉄鼠の檻』作中であれば
「大悟。ただいま大悟いたした」
と、高らかに宣言してしまっていたところです。

これまで何百曲ものジュリー・ナンバーを聴いてきて、「そうか~」と僕なりに思うことは何度もあったけど、ここまで鮮烈な感覚は初めてでした。しかもそれが、歌詞の内容とはまるっきり関係のない個人的な体験、思いが映し出されたような感じだっただけに、本当に驚きました。
僕はそのことから、ジュリーが「Deep Love」に込めて歌った「絶対に忘れない」という思い、「薄情になんてなれない」というその心情が真に「分かった」ように感じられるのです。最も、曲本来のテーマの根っこのところまではまだまだ辿り着いていませんけどね・・・。

このことは、記事に書くべきかどうか迷いました。
でも、僕が「Deep Love」という曲にどんな思いを持ったのか・・・純粋に楽曲考察を含め、そのことを簡単にでも説明しておかないとその先の話が全然伝わらないと思いますので、少しだけですが書くことにします。
ジュリーの歌詞の本質とは解釈が逸れますが、まずは先にそのお話から始めさせてください。

僕には、昨年の初夏を最後に連絡をとり合うことがなくなってしまったジュリーファンのある先輩への思い入れが、ずっととり残されたままになっています。
その先輩は昨年の『3月8日の雲』リリースを機に、ジュリーから離れていきました。僕は最後まで、先輩をなんとか引き止めようと必死でした。時間が経てば戻ってこられるかもしれないと思い、自分に考えうる限り、出来うる限りのことをしようとしました。
しかし先輩の傷は僕の想像が及ぶ以上に深く、僕が精一杯傾けたつもりだった思いは届くことなく、先輩は去っていきました。

その後僕は、「何故忘れられないのか」「何故あきらめられないのか」「何故ふっきれないのか」と苦しむことになりました。
今思えば、考え方が逆だったんですね・・・。
僕のその苦しみは、「忘れなきゃ」「あきらめなきゃ」「ふっきらなきゃ」と無理に思い込もうとするものだったのです。

本当は、そんなことを考えるまでもなく、忘れられるはずがないのですよ・・・。

ならば、たとえ深情けであろうと、忘れないでいることが自然、それが当たり前。
「深情け」というのが一般的にあまり良い言葉として使われないのは、それが双方にとって辛い情けであるからなのでしょう。しかしジュリーは「Deep Love」でこう歌います。
深情けだ・・・でも「忘れる」なんてのは薄情なんだ、と。

僕のこの思いは、ジュリーの詞の内容とはまったく関係のない個人的なものです。でも僕はその先輩のことを考えたおかげで、この曲本来のテーマに一歩強く踏み込んでいくことができた・・・それは確かです。

その上で、聴く人によっては深く踏み込むのを躊躇われるかもしれないほどの、ジュリーの鮮烈で、深情けで、真っ正直な歌詞・・・「Deep Love」の真のコンセプトについて、及ばずながら改めて考察してみましょう。

「人を失う苦しみ」で最も大きいのは、やはり肉親や、親しい友人を亡くすことだと思います。
僕はまだ若造ですが、すでに母親の死に立ち会っていますし、高校時代の同級生や、自分よりもひと回りも若い友人を亡くす、ということも体験していますから、それは分かります。

母親については、「どうしてもっと長生きしてくれなかったのか」という思いが消えることはありません。
生きていてくれれば・・・と思うことが、当たり前ですがたくさんあります。母は、カミさんのお母さんとはメチャクチャ気が合いそうなタイプだし・・・何より、僕がジュリーファンとなるのを待たずに旅立ってしまった、というのが残念でなりません。
僕にほんの少しの、いくばくかの音楽のセンスが仮にあるとすれば、それは間違いなく母親から受け継いだものです(父親はリズム感も音感も皆無)。母はよく自宅でオルガンを弾いていたし、歌がとても好きだったのです。
「ジュリーの歌のこういうところがね・・・」といったことを一度でも話してみたかったですし、母の世代を考えても、ザ・タイガースの話など思いもよらぬ共通の話題が生まれていたかもしれないのに・・・。

高校の同級生の友人は、今でも故郷に帰って彼の自宅を訪ねれば、まだそこにいるような感じがしてます・・・。彼については以前、「青春藪ん中」の記事にて少しだけ触れました。

仕事絡みで出逢った若い友人の突然の死については、「そっとくちづけを」の記事にいきさつを書いたことがあります。残された奥さんや子供さんのことを考えると、いたたまれなくなります。

いずれにしろ、「忘れる」ことなどできません。

ただ、僕の場合は実際に「お別れ」はしているわけで・・・その点がまず「Deep Love」でジュリーが歌った人達の思いとは、大きく違います。

♪ 一縷の望みは捨ててない
     Fmaj7            G


  帰らぬ君を理解すれば ♪
     E7               Am      

「帰らぬ君を理解する」とは、「大切な人が亡くなったことを受け入れる」ということでしょうか。
「理解すれば・・・」という表現に、「それはできない」という、後に続く言葉を敢えて飲み込む・・・歯を食いしばるようなジュリーの意志を僕は感じます。

♪ 薄情になんてなれない
     Dm7            G7

  区切りなんてつけない ♪
        Em              Am

亡くなっているのか、いないのかすら分からない家族、友人。「区切り」などつけられるはずもない・・・。
僕などには想像すらできない悲しみや葛藤を、ジュリーは正面きって歌っているのですね。

(註:余談ですが、先述の「帰らぬ君を」の箇所のコード表記について、ここでは一応「E7」としましたが実は自信がありません。
実際にCDと一緒に弾いて歌ってみて、ルートは「ミ」の音で合っているようですし、ギター1本での伴奏で一番流れが自然だった「E7」で弾き語ることに問題はありませんが・・・メロディーに「ファ」の音が登場するのが気になるんですよね・・・。
もしかしたら「Fdim」か「Ddim」が正解かもしれません。僕のつたない実力ではその辺りの特定は無理でした。プロが採譜したスコアを見てみたい、という思いはこの曲に限らず募る一方なのですが・・・)

さてそれでは、泰輝さんの作曲についてはどうでしょうか。
僕は先の楽曲内容予想記事でこの「Deep Love」を、「短調だけど穏やかに聴こえるバラード」と予想しました。泰輝さん作曲の過去のジュリー・ナンバーで言うと「涙色の空」のような曲だろう、と・・・。

予想は半分当たり、半分外れたという感じです。

まずこの曲は果たして短調なのか・・・歌メロは「ラ・ド・ミ」の和音から始まりますからイ短調なのかと思えますが、イントロ、そして歌メロの各着地和音やメロディーから紐解いていきますと、これはどうやら全体的にはハ長調のようです。
しかし、こんなに悲しいハ長調ってあるものでしょうか・・・。ハ長調でこの切なさの極みのような表現って、もうビートルズの「レット・イット・ビー」の域にまで行ってますよ!
(カミさんは、サビのコード進行でビージーズの曲を思い出す、と言っていましたが・・・)

もちろんこの曲のメロディーが深い悲しみをたたえているのは、ジュリーの歌詞によるところが大きいです。
でも泰輝さんはきっとこの曲を、ピアノを弾きメロディーを口ずさみながら作曲したはず・・・。つまり、作曲段階のピアノのフレーズがそのままレコーディング作品に残されている、と考えるべきなのです。
歌の出だしの

♪ Deep Deep Deep Love 忘れ  られないさ ♪
  Am   G              C          Fmaj7   G      C

のピアノのタッチから既に、この曲は悲しみの歌詞が載る運命を背負っていたのでしょう。

ただ、個人的には「涙色の空」との共通点はやはり強く感じるところです。
これはまた後述もしますが、収録曲4曲の中で唯一、泰輝さんの演奏がピアノ1本のトラックに絞られていること・・・これは、泰輝さんがこの曲を作曲した時点で、メロディーとピアノ演奏が完全に関連づけられていたことを意味します。
鉄人バンドの他のメンバーの演奏についても、結果としてリード・ギターの追加トラックがありますが、まずは「涙色の空」のような「完全一人1音体制」を目指してアレンジが練られていったのではないでしょうか。
今回の新譜収録曲のアレンジで、「ひとつだけ鉄人バンドのメンバーにアレンジ秘話を尋ねてもよい」という望みがもしも叶うなら、僕はこの「Deep Love」について泰輝さんにその辺りを聞いてみたいところだなぁ・・・。

では、その鉄人バンドの演奏やアレンジについて・・・今回もすべてのレコーディング・トラックを書き出してみましょう。

泰輝さん・・・ピアノ
柴山さん・・・エレキギター(右サイド)
下山さん・・・エレキギター(左サイド)
GRACE姉さん・・・ドラムス
エレキギター(リード・ギター)・・・柴山さんか、下山さんか・・・特定ができません。とてもよく似た音色設定のトラックが2つあって、ひとつはセンター、ひとつは左サイドのミックスとなっています

まずは、泰輝さんのピアノ。
先に述べたように、今回の『Pray』収録曲中、泰輝さんのキーボード・トラックがただ1つだけ、という構成になっているのは、この「Deep Love」ただ1曲のみです。他の3曲ではそれぞれ異なった音色に分けて2トラック以上をレコーディングし、アレンジに幅を持たせる役割を担った泰輝さんが、自作のこの曲だけはピアノ1本のトラックに絞って熱演している・・・これはやはり必然性あってのことだと思います。

「Pray For East Japan」の思いを込め、泰輝さんは自身のピアノでこのバラードを作曲しました。
いざレコーディングで、どうアレンジしていくのか・・・そこで泰輝さんは自分のピアノ1本の音以外を、鉄人バンドの他のメンバーにすべて託したのでしょうね。
この曲で泰輝さん自身の出したい音、というのはピアノだけで完結していたのだと僕は考えます。
その意味でも泰輝さんの「Deep Love」の作曲、アレンジ手法は、「涙色の空」にかなり近いものと言えると思います。

ピアノは、基本的に1小節の中に3つの強いタッチを意識している箇所が多いようで、それが1拍目、2拍目、そして2拍目の裏の裏に配され、3拍目にシンコペーションする感覚があります。同じ直球の音色でも、縦にキッチリ強弱を配分した感じの「Fridays Voice」とイメージが随分異なるのはそのためでしょうか。

次にギターです。
まずは演奏者がハッキリしている左右2つのバッキング・トラックから考察していきましょう。

柴山さん、下山さん・・・お二人の左右のバッキングについては、音色を完全に違えて役割を分担していますね。

柴山さんは、ハードなディストーションとサスティンで設定したコードの突き放しがメインとなっていて、主に小節の頭で「ジャ~ン!」と重い音を出します。これはベースレスをカバーすると同時に、暗鬱とした悲しみを表し、海のうねりをただ立ち尽くして眺めている・・・そんな情景をも連想させます。
悲しみをたたえた海・・・「恨まないよ」の歌詞にもあるように、あの日を境に嘘のように穏やかに静まり返った海。

そう言えば、今回の『Pray』歌詞カードの見開き3ページは、すべてバックが海の写真ですね。1ページ目は午後、2ページ目が夜、3ページ目が朝・・・という見方で合っているのかな・・・。

一方下山さん
は、薄く歪み系の設定を加味したコーラス・エフェクトでしょうか。左サイド、キラキラとした「光」の音で奏でられるアルペジオは、右サイドの柴山さんのハードなバッキングとは対照的です。
ちなみにこの音色は、「Pray~神の与え賜いし」にもよく似た設定で登場します。
穏やかな音色ですが、スリーフィンガーを駆使して(いや、下山さんならフォーフィンガーかもしれない)ヴァースによって異なる弾き方のアルペジオが繰り出されます。跳ねるリズムに変わるサビ部のアルペジオには、激しさも感じます。

で、問題はリード・ギター・トラックなんです。
先の列記の通り、どうやらリード・ギターのトラックは2つ存在するようです。
まずひとつは、イントロと間奏。
もうひとつは

♪ 君の涙を瓶に集めたい ♪
     Dm7     G         C        A7

というジュリーの絶唱に呼応するように、左サイドから狂おしく噛み込んでくるトラックです。

この2つのトラック・・・音色設定がソックリなんです。
歪み系の音に深めのディレイを足し、コンプレッサーのサスティンを効かせたリード・ギター。

最初にこの曲のイントロのリード・ギターを聴いた時、僕は迷わず「おおっ!柴山さんカッコいい!」と感動しました。完全に柴山さんの音だ、と思ったのです。
だってこれ・・・通称”いい風ギター”の音じゃないですか?白いボディーで、『世界のカブトムシ図鑑』にも載ってるやつ
(←載ってません)
『燃えろ東京スワローズ』初日が終わった後に、「(「いい風よ吹け」などで柴山さんが弾いていた)あのギターは何ですか?」とカズラーのみなさまに尋ねられて僕の頭に浮かんだのは、何故かヘラクレス・オオカブトだったという・・・情けない。
実際は、フェルナンデスのギターみたいです。

とにかく・・・柴山さんのあのギターの音だ、と何の疑いもなく思ったんですよ。間奏を聴いても変わらずそう思いました。
しかし何度か繰り返し聴くうち全体のアレンジに気持ちが行くようになって、ふと、ジュリーの絶唱に絡む左サイドのリード・ギターに耳を奪われます。

左・・・?
左サイドならばこのギターは下山さん?
じゃあ、同じ音色のイントロと間奏も、同一トラック下山さんの演奏なのか・・・それをミックス段階でPANを振ってる・・・?

これには悩みました。
自信が無いなりに至った結論は、わざわざミックスのPANをセンターと左に分けているくらいなのだから、いくら音色設定が似ていても、この2つは別トラック。そして演奏者も、柴山さんと下山さんに別れているのではないか、という大胆な推測です。

ここまでの『Pray』収録の3曲の記事で僕は「ユニゾン」のアレンジ・アイデアについて何度も書いてきましたが、この「Deep Love」では、「ギター兄弟の音作り」がユニゾン・・・とは言えないまでも、ハッキリとした意志をもってほぼ同じ音色設定になっている、というものです。
バッキングのトラックでは両極とも言える設定。しかしリード・ギターについては完璧に二人のギタリストの音色がシンクロしている・・・。
下山さんが柴山さんに「その音、どういう設定で弾いてる?」と尋ねtりとか・・・想像するだけでワクワクするではありませんか(僕だけかな?)。

そう考えながら聴くと、イントロと間奏は”いい風ギター”の音で、ジュリーのヴォーカルに噛んでくるところはストラトに聴こえる・・・何も根拠は無いんですけどね。
ただ、LIVEではすべてのリード・ギター・パートを柴山さんが「いい風ギター」で演奏することになるのでは、と予想しています。

GRACE姉さんのドラムスは、派手さこそありませんがエモーショナルな演奏です。泰輝さんのピアノの強弱のニュアンスを受け、常に「跳ねる」感覚を持ったテイクとなっています。
例えば、ロール気味に優しくも悲しげに曲の始まりを告げる、冒頭のフィル・イン。
さらに間奏部では、裏打ちで跳ねるキックが効いています。
このキックはベースレスであるが故にかえってアレンジで強調されているような印象があります。間奏が始まったばかりの2’49”あたりでは、キックが2拍目裏の裏で「突っ込む」感覚がモロに伝わってきて、最初に聴いた時にはドキリとさせられました。

こういった鉄人バンドの演奏は、泰輝さんの剥き出しのメロディーやピアノに添うものです。ただ、泰輝さん達鉄人バンドのその志が、ジュリーの歌詞とヴォーカルによってひと回りもふた回りも増幅されていることは確実です。

「Deep Love」のジュリーのヴォーカルは、慟哭です。
前作で言えば「恨まないよ」に最も近い・・・これは多くのかたがそう思われたのではないでしょうか。
1度目にこの曲を聴いた時、「モニュメントなどいらない」のところで「ジュリーが泣いている!」と強く感じました。不思議なことに、その後繰り返して聴くうち「泣いている」ように歌うジュリーに慣れた(というのも変な言い方なんですけど)のか、自然に歌とメロディーを追えるようになっていったけど、最初の頃はその部分のジュリーの声を聴くのに、グッと力を入れて心の準備しておかなければなりませんでした。

この曲のヴォーカルの最高音は、高い「ミ」の音です。
これは「Pray~神の与え賜いし」と同じ。「Uncle Donald」や「Fridays Voice」よりも1音低い音。
しかし、例えばサビ部の「見つけたい」「集めたい」の語尾でのロングトーンの絶唱などは、実際の高い「ミ」よりもさらに高い声で歌っているように聴こえます。
そんなふうに聴こえるのも、ジュリーが長い時間かけて身につけたヴォーカルの実力であり、現在のジュリーの大きな魅力。それが味わえる「Deep Love」は、やはりジュリーの代表曲となるにふさわしいでしょう。


そして、被災者ではない僕のような人間にとって何より大事なのは、大きな苦しみの中で試練に立ち向かって今この瞬間を生きている人達がたくさんいることを決して忘れず、気にかけ、思うことなのだ・・・と、僕はジュリーの歌からそんなことを考えさせられます。

それはまた、被災地のことに限らずとも常にそうなのだ、とも思います。人の痛み、苦しみを知った時、どう思うのか。どう声をかけるのか。
最近特に身の周りで、そういうことを考えさせられる出来事が多いのです。

冒頭で少し触れましたが、3月末に会社の直属の上司が心筋梗塞で倒れ入院、しばらくの間治療に専念することになったり・・・。
あと、つい先日には、常々応援していた将棋の元奨励会の若者が、27歳という年齢にして深刻な病を宣告されてしまいました。
QOLの著しい低下を承知で、僅かな可能性に賭けて手術を受けるか、それとも残された時間を苦しみを少なくする処置を受けながら有意義に過ごすことを選ぶか・・・想像を絶する葛藤の中で彼は先週、『詰将棋選手権』という公式の大会に出場しました。
そこへ、彼が以前教室で将棋を教えていた時の生徒であるチビッコ達が駆けつけてくれたのだそうです。彼はそんなチビッコ達の顔を見て勇気を振り絞ることができたのでしょうか・・・12時間にも及ぶという大手術と、その後の過酷な闘病生活に挑戦することを決断しました。

僕に何が出来るわけではありません。
しかし僕は、想像を絶する苦しみや困難に立ち向かい、生きるために懸命に頑張っている人に対して何も感じない人間にだけは、絶対になりたくありません。
僕にとって、「祈る」というのはそんな思いに直結するものです。

傷つき苦しみ、そこから這い上がって生きていこうと頑張る人達と実際に向き合ったとして、どんな言葉をかけるのか・・・それはとても難しいことです。
昨年、旧騎西高校に避難していらした双葉町の被災者の方々に手紙を書いた時にも、どういうことを書けばよいのか、本当に迷いました。自分がかけてあげたい言葉をかけるのではなく、相手がかけてもらいたい言葉を推し量って選ぶ方が良いのか・・・でもそれがどんな言葉なのかすら分かりませんでした。

ただ、音楽での発信はその辺りが少し違う、と思います。
敬愛するアーティストが、その人自身の飾らない言葉で発する個人的なメッセージが、聴き手の大きな力となります。
それぞれのアーティストが、それぞれの立場から「自分の」言葉やメロディーを歌に託す。ジュリーはその中で、最も厳しい道を自然に選んでいるのかもしれません。

先日、しょあ様がブログで紹介されていた小阪忠さんのお言葉を拝読しました。

「表現とは、表に現れる、と書く。それは中に持っているものを表に出すことであって、表面を取り繕うことではない。音楽もそう。アコースティック・ギターを使っているからフォーク、エレキだからロック・・・そういうことじゃない。大切なのは、中に何を持っているかだ」

これは正に、昨年からの・・・いやもっと以前からなのでしょうね・・・ジュリーの創作活動にピッタリ当てはまるなぁ、と思いました。
飾り立てたところでどうなるものでもない・・・真に、自分の中から溢れたことを歌詞にし、曲に載せ、歌う。そういうことなんだと思います。

僕は実は、ロックというのは半分は様式美だとしても構わない、と考えています。
ですから、例えば『ロックジェット』のような雑誌で今度は「沢田研二特集」が組まれたとして・・・現在進行形のジュリーを考察する以外にも、ギンギンにヴィジュアル際だっていた時代、「この衣装やパフォーマンスが凄かった」とか「こんなふうにカッコ良かった」といったように、若きジュリーの容姿、プロモート戦略などをロック的に捉えて語る人もたくさん出てきて欲しい、と思います。いや、きっと出てくるでしょう。僕はその時代のジュリーについてほとんど何も知らないに等しいですから、色々と教わりたいです。
当時「ロック」としてジュリーを語ることが躊躇されていたことに鬱憤を持つ著名人の方々、たくさんいらっしゃるはず。星のかけら様も書いていらしたように、ジュリーファンであることを何の躊躇いもなく世間に大いに誇れる時が、今間違いなく来ています。

でも、そうしてジュリーの全時代についてをロックに語れるのは、今現在のジュリーが最高にロックだから・・・ですよね。今、日本で一番ロックしているのはジュリーだ、と僕は堂々と言うことができます。

これから各界の様々なプロフェッショナルが、様々な分野、角度からジュリーのロックを語り始めるでしょう。
そうなったら僕のブログなどはまっ先にお役御免状態となるわけですが、せめて「語った楽曲の数」だけでもある程度の域には達せられるように、ひたすら頑張り続けるのみです・・・。「数だけでジュリーを語るようなさみしい男♪」を敢えて目指します!

最後に。
昨年、今年の作品の本質とは違うところを語ることになるのかもしれませんが・・・今のジュリーは自らと同世代、またはそれに近い年齢の聴き手を想定して創作やLIVEに打ち込んでいるように僕には思えます。
『ジュリー祭り』以前にジュリーが公に語った言葉がどのようなものであるか、僕はほとんど知りません。でも僕が本格的にジュリー堕ちしてから、ジュリーのちょっとしたMCや、新聞記事などのインタビューで発せられる言葉は、「長年共に歩いてきた」世代への思い、というかエールがあるような・・・。
僕よりもひと回り以上年長の世代・・・ジュリーはその人達を見ている、と感じることが多いです。

歌詞で言いますと、例えば本日のお題「Deep Love」の

♪ 君 生きた日々 風化  させないさ ♪
  Am G       C          Fmaj7  G       C

この一節(特に「君」という語りかけの部分)などは、僕よりずっと年上の人の気持ちを歌っているのかなぁ、と思います。
その世代の被災者の方々というのは、一番辛い方々かもしれない、とも思います。家族を失い、家を失い、それでも寡黙に、多くの被災者を先導して色々なことを立て直さなければならない・・・そんな世代なのではないでしょうか。

いつか僕がその世代の年齢に達した時、ジュリーの昨年、今年の2枚のCDから響いてくるものは、今の僕が感じているものとは大きく違っているかもしれません。
『3月8日の雲』『Pray』ともに、これから一生かけて聴き続ける作品になるんだろうな、と今は考えています。

ということで・・・どうにかこうにか『Pray』全曲の記事を書き終えました。

次回からはまた、自由お題での更新となります。
6月に入ったら恒例の”全然当たらないセットリスト予想”シリーズに突入しますが、今年はそこでなるべく明るい曲を採り上げるつもりでいます。
その前に、ジュリーのいろいろな時代の、タイプの異なるお題を少しずつ書いていければ・・・と考えています。よろしくお願い申しあげます!

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