沢田研二 「Fridays Voice」
from『Pray』、2013
1. Pray~神の与え賜いし
2. Uncle Donald
3. Fridays Voice
4. Deep Love
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先週の日曜日に新宿サザンシアターに足を運び、音楽劇『哀しきチェイサー2 雨だれの挽歌』を観劇してきました。
日を改めてレポート記事を書くかどうかは・・・すみません止めておきます(汗)。
みなさまにとってはお馴染みのキャスト・・・でも僕はなにせ音楽劇への参加自体初めてのことで、登場人物と役者さんのお名前の一致すら難しく・・・観劇後にカミさんに聞くまで、すわさんの配役すら判別できず、という情けない状態にあります。
でもせっかく参加したのですから、ほんの少しだけでも感想を書いてから、本題に入りますね・・・。
舞台を観ながらずっと筋を追っていて・・・この物語がどうやって「雨だれの挽歌」という曲の世界(阿久さんのエキセントリックなフレーズ遣いも含めて)に帰結するのかなぁ、と考えていたものですから、エンディングで唐突に「ホテルの~♪」とジュリーが歌い始めてちょっとビックリしました。
でも、オリジナル通りの歌詞で「雨だれの挽歌」の生歌が聴けたことはやっぱり良かった!
お芝居のストーリーは「ホテル」とも「虫」とも「メトロ」ともまったく関係ありませんでしたが・・・。
(註:のちに、「雨だれの挽歌」の歌世界は舞台の物語のその後・・・つまり新さん逃走中の情景描写ではないか、とのお説を教えて頂きました。なるほど!)
それと、やっぱりジュリーは帽子が似合いますね~。
あと、大変失礼ながら、南野陽子さんってあんなに歌が上手かったですっけ・・・?
音程がしっかりしていましたし、何よりジュリーとのハモり部が良かったです。ジュリーが主旋律で、南野さんはアルト・パートですよね?
お姿のみならず声がとても美しかったのには驚きました。ジュリーのヴォーカルと相性の良い声質だ、とも感じました。
そうそう、三田村代議士役の俳優さんが歌ったブルースっぽいナンバーが良かったです。
ジュリーも1曲、ラグタイム・ブルース風のナンバーを歌いましたね。期せずして、こんなところでラグタイムが(汗)。
さて。
つい最近、東京メトロの副都心線が東急東横線と相互乗り入れになりまして、横浜方面から新宿まで観劇にお越しのみなさまは、「揺れながらメトロまで♪」・・・ということで、「雨だれの挽歌」を脳内リピしながらのお帰りにも、早速ご利用なさったかと思います。
僕は通勤などで副都心線をよく利用するのですが、24日にサザンシアターを目指して利用した際、最近聞き覚えが無くなっていた車内アナウンスがふと耳に止まりました。
「節電のため一部車内の電気を落とし、ご迷惑をおかけしております」
と・・・。
今さらながらに思います。
一昨年は、どの電車に乗っても同様のアナウンスを耳にしました。それが最近、ほとんど聞く機会がありません。
いや、ひょっとすると、アナウンスを聞いても心に留まらなくなってしまっていたのか・・・だとすれば僕は自分を恥じなければなりませんが・・・。
24日の車内アナウンスを聞いて、少なくとも東急東横線の車両については、今なお節電対策に取り組んでいらっしゃることが分かりました。
しかし他路線はどうなのでしょうか。震災前の状態にに心構えが戻ってしまっていることがありはしないでしょうか。
僕自身への自戒と共に今改めてそんなことを思うのは、ドナルド・キーンさんの言葉を知ったからですし、ジュリーの新譜を聴いたからです。
今日のお題は、新譜3曲目。
政治や思想と関係なく・・・あれから2年が経ち、節電すら意識から遠ざかることがあり得る僕のような非・被災者にとって、痛烈なメッセージがこの曲に込められていることを決して見逃してはなりません。
「Fridays Voice」、僭越ながら伝授です!
前回記事でドナルド・キーンさんの連載についてご紹介した『東京新聞』は、僕の知る限り、あの原発事故について最も腰を据えて報道を継続している新聞です。
2011年3月に開始された『レベル7』というタイトルでの一連の原発事故検証記事は、長期に渡りトップ1面での連載でした。
その後も機を見るたびに掘り下げた検証記事が掲載され、『レベル7』は今も、『二年後の迷走』というまた新たな切り口で連載が続けられています。検証は多角的で、反原発の立ち位置のみならず、原発マネーに支えられてきた地域の財政危機や推進派の果てない苦悩についても網羅。そういうことを知った上でこの問題をどう考えるのか、というのはとても大事なことではないかと思います。
一方、今回ジュリーが「Fridays Voice」の題材とした「毎週金曜日の声」について、当初に限っては『東京新聞』での報道がありませんでした。
しかし、「これだけの人が集まって声を上げているのに、まったく報道がなされないのはどういうことか」という読者の声が紙面に寄せられたのを機に、謝罪と今後の方針表明が掲載され、その後詳細な報道が開始されました。
僕には、『東京新聞』を読んでいなければ知りえなかった情報がたくさんあります。
電源立地地域対策交付金の仕組みや現状(運転が停止された今も、満額の8割が国から支払われています)など・・・。そして先日、まだ厳しい寒さの続く頃でしたが・・・毎週金曜日の集会とは少しだけ離れた場所で、オリジナルの脱原発ソングを雨の日も雪の日も毎日坂道の路上で歌い続けている方々の存在を紙面で知りました。
「花は咲く、とは歌っていられない」人達がいる・・・そんな文章をそこで目にしました。
いえいえ、僕は何も「花は咲く」をはじめ幾多生まれている「復興支援ソング」を否定しようなどという気持ちは、いささかもありません。
特に「花は咲く」・・・歌詞もさることながら、素晴らしいメロディーに心から感動し胸をしめつけられます。
しかし・・・しかしです。
その一方で、僕の愛する”ロック”というジャンル・・・その担い手たる現在の日本のアーティストやバンドについて、物足りない気持ちがあることも事実です。「復興支援ソング」とは別の役割がロック・ミュージシャンには課せられているはずだ、という思いが消えないのです。
それは何もロック・ミュージシャン皆が皆、脱原発を歌って欲しいなどということではなく・・・全然別のメッセージ、ことによれば真逆のメッセージもあるかもしれませんが・・・あの未曾有の大震災や、あれだけの事故が起こって、それについての自身の考えや思いをそれぞれの立ち位置から自らの楽曲に託し世に問うことが、何故こうも避けられているのか、というやるせないような気持ちです。
もちろん、ジュリー以外にも何人かのロック・アーティストやバンドはそうしています。ロック以外のジャンルでも、さだまさしさんがLIVEで原発問題に言及したとも聞きました。
でも、「ロック」というジャンルでのトップ・アーティストの総数から考えると、あまりにも作品での発信が少ない・・・。
確かにそれは、勇気の要ることです。僕のような何の力も持たない末端の者にとっては、今回この程度の記事を書き発信することすら、勇気を振り絞って臨まねばなりません。
ただ・・・ロック音楽で名実を為したトップの人達ならば、色々な考え方、色々な角度から自らの思いを作品に託してくれる・・・そしてそれら多くのメッセージが公に飛び交うことになる・・・そう思っていました。
ところが現状はそうではありません。
原発事故の後、真っ先に「ずっとウソだった」と歌い動画を公開した斉藤和義さんも、「後に続く人達がいる、と思っていたのに」と後に語ったそうです。斉藤さんはむしろ、正反対の考えを持ったロッカー達の登場すら覚悟、想定していたかもしれませんが、それも無い・・・。
このように、意を表し発信した「当たり前の」創作姿勢を持つロッカー達が、世間からは単にレッテルを貼られるのみ、ロック界では無反応の中に沈み込んでいる・・・そんなふうに感じられる時もありました。
無論、僕にとってそれはまず他でもない、ジュリーのことになるわけです。
本来、邦洋問わず、成熟したロック・ミュージシャンがその時々の自国の社会問題について曲の題材とし、自らの考えを歌に託して世に出すというのはごく自然な、当たり前の姿勢と言えます。
例えば1972年、北アイルランド問題から派生した”血の日曜日事件”に揺れたイギリス。
ビートルズ解散後間もない頃で「犬猿の仲」と言われていたジョン・レノンとポール・マッカートニーが、揃ってそのテーマを自作曲で採り上げました。
まず、ウイングスを結成したポールが「アイルランドに平和を」というシングルを素早くリリースし、曲は放送禁止問題に発展します。
「GIVE IRELAND BACK TO THE IRISH(アイルランドに平和を)」メロ譜。
『YOUNG SONGS』昭和47年7月号より。
ちなみにこの号の『YOUNG SONG』の表紙は、ズバリこれ。
それまで互いの作中においてもポールといさかいの絶えなかったジョンは、この曲について「歌詞が稚拙」とひとくさりしながらも、ポールの創作、リリースの姿勢に対してはエールを送ると共に、自らも「ザ・ラック・オブ・ジ・アイリッシュ」という、アイルランド問題を採り上げた曲をリリースします(アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』に収録。このアルバムにはもう1曲、ズバリ「血まみれの日曜日」というタイトルの、同じテーマを扱った曲も収録されています)。
「THE LUCK OF THE IRISH(ザ・ラック・オブ・ジ・アイリッシュ)」
ギターコード付ピアノ3段譜。
『LENNON THE SOLO YEARS』より。
「ザ・ラック・オブ・ジ・アイリッシュ」の歌詞には
「もしあなたがアイルランドに生まれていたならば、死んだ方がマシだと嘆くでしょう」
という過激な一節がいきなり登場します。
「重い」どころではありません。
この歌詞を、当時正に渦中にあったアイルランドの人達が実際に聴いたら・・・。
多くのリスナーがそう考え、あまりの直球表現に曲に対峙することができなかったかもしれない・・・と、昨年からのジュリーの新譜を体験している方々ならば、誰しもが想像できるところでしょう。
ジョンの「ザ・ラック・オブ・ジ・アイリッシュ」の詞は確かに当時、聴き手が正面きって向かい合うにはキツい、しんどいものだったと考えられます。
でも、当時まだ6歳、80年代にさしかかろうかという頃にようやくビートルズ・ファンとなった僕の場合、この曲を初めて聴いた時に心に残ったのは、穏やかで心安らぐワルツのメロディーでした。詞の内容とその背景を知ったのは、アルバムの歌詞カードを熟読してからのことです。それでも「あぁ、いい曲だなぁ」という考えに変わりはありませんでした。
僕は「ワルツの穏やかなメロディー」という共通点から、今回のジュリーの新譜1曲目である「Pray~神の与え賜いし」を、将来そういう曲としてあらゆる世代に知られていって欲しい、と願っています。たとえ今は、聴くことすら辛いという人達が多かったとしても・・・。
また、ポールの「アイルランドに平和を」で先に添付紹介させて頂いた『YOUNG SONG』でのこの曲のスコア冒頭には、こんな一文が添えられています。
(本文まま転載)
この曲、イギリスで放送禁止になった。「アイルランドはアイルランド人へ…」という内容のためだ。そうでなくても、南北アイルランド問題で頭の痛い英国政府。こんな歌を歌われたんでは、反体制派のヤングが増える、と恐れたわけ。ところが、政府の処置は逆効果。かえって、アイルランド問題に興味をもつミュージシャンやファンが増えてしまった。
文章通りをそのまま鵜呑みにはしないまでも(”血の日曜日事件”への言及がまったく無いなど、ある意味不完全、不自然な記述とも言えます)、聴き手それぞれの受けとり方がどうあれ、少なくとも世間での「無関心が問題」という状況は避けられていたということでしょう。
(ちなみに、詞についてはジョンからひとくさりされてしまった「アイルランドに平和を」ですが、ポールはこの曲で、自ら出しうる限りの高音のメロディーで絶唱しています。それこそがポールの思いなのだ、というのは僕が以前から考えていたことで、それが昨年リリースされたジュリーの『3月8日の雲』収録曲への考察に繋がっています)
また、邦楽のタイムリーな体験で言うと、正に原発の問題・・・忌野清志郎さん率いるRCサクセションが「さっぱり分かんねぇ」「電力は余ってる」「もういらねぇ」と歌った「サマータイム・ブルース」をリリースした時。
厳密には話が前後しますが、何せネット情報など無い時代。僕が実際に体験した順序に話を進めていきますと・・・。
まず、愛読していたロック雑誌に掲載されるはずだったRCサクセションの広告が、急遽強引に差し替えられた、といういきさつがロックファンの間で話題となりました。
清志郎さんの歌詞の内容が、レコード親会社にとって不利益をもたらすものとされアルバムの発売が中止となった、という事実がほぼ公となり、僕も含め多くのロック少年のアンテナはそのことにより逆にフル稼働を始めます。
すぐ後に僕らは、RCサクセションの『カバーズ』というアルバムが、内容に問題有りとされレコード親会社にリリースを拒否された「サマータイム・ブルース」「ラブ・ミー・テンダー」の清志郎さんの歌詞をそのまま生かした形でレコード会社を変えてまで発売に踏み切ることになったらしい、という情報をキャッチ。
「さすが清志郎!カッコイイ!」
ということになります。
結果、RCサクセションのキャリア中唯一オリコン・チャート1位を獲得することになるアルバムは、日本ロック界の絶賛を持って迎えられたのです。
もちろんこれは、分別の確立していない一般の少年の「カッコイイ!」という一言で済ませてよいテーマではありません。
ただ、ロックを愛する少年達はそういうバンドやアーティストに触れることで成長し、最終的にどのような考えを持つに至るにしろ、無関心とは手を切り、「自分で考える」ことを学んでいきます。
いやいや、「学ぶ」なんて言うと天国の清志郎さんはきっと怒りますね・・・。
「”教えた”なんてつもりはない。一緒に考えた、ってことだ」・・・と、これは『ロックジェット』の杉山章ニ丸さんのインタビューをお読みになった方なら、ニュアンスを分かって頂けるのではないでしょうか。
でもやっぱり「考える」ということは「学ぶ」ことに繋がるはずですし、要は「自分はこう」というところを自然に目指していかないと、難しい問題にはなかなか正面から向き合うことができません。
僕が何故こんなことを長々と語っているか・・・それはジュリーの昨年からの創作テーマというものが、ロック・アーティストとして決して特別なことではない・・・いやいや、もちろん特別な人こそがそういうことをできるわけなのですが・・・正攻法だと言いたいがためなのです。自然なことなのだ、と。
日頃親しくさせて頂いている長いジュリーファンの先輩方の中にも
「何故ジュリーはそうまでしてまでそのことを歌わなければならないのか」
と、ジュリーの苦しみを想像して自らも苦しんでいる、というかたがいらっしゃいます。
でもそうではないと思うのです。
無論ジュリーは大きな苦しみと、それに打ち勝つ想像を絶する気力をもって作品を生み出しているのでしょうが、それがジュリーにとって自然なロック音楽の創作姿勢なのです。
『ロックジェット』で佐藤睦さんがジュリーの『Pray』『3月8日の雲』について、また編集後記にて書いていらしたことは、正に今僕が考えているようなことと本質的に近いような気がします。
「東日本大震災について、ハッキリ日本語にして歌った」(佐藤さんの文中の言葉です)ロッカーがいなければ、今のロックを聴く若者は一体どうすれば・・・。
いや、ロックを諦めるな、ロックを嘆くな。
日本には沢田研二がいる!
そう書いていらっしゃるのでは・・・と僕は解釈します。
タイムリーな社会的問題を詞のテーマとし、自分の思うところを曲に託す。
震災を歌うことにしろ原発を歌うにことにしろ、それはきっとジュリーにとって、ごくごく当たり前で自然なことなのでしょう。
先頃ファンの間で話題となった新聞記事の中で、「反原発の旗手となること」を問われて、「いやいや」とジュリーが首を振ったのは、「自分は当たり前のことを当たり前にやっているに過ぎない。特別なことをしようとしたつもりはない」ということではないでしょうか。
後追いファンの僕が言うのもおかしいですが・・・思えば、ジュリーが自らの意志でそういう創作活動ができるようになるまで、長い時間がかかりました。
ただ、ジュリーの辿ってきたこれまでの歴史を俯瞰すれば、今のジュリーの創作姿勢は必然とも感じます。
本当は今、もっと他のロック・バンドやロック・アーティストがそれぞれの立場からそれぞれの考えを託した曲をどんどん発信していく・・・あれだけのことが起こったのだから、そういった流れこそが自然なことだ、とジュリーは泰然と考えているように僕には思えます。
(その一方で、もしかするとジュリーは、多くの若いロック・アーティスト達が声を上げるようになれば、原発事故のテーマで作品に取り組むことから一度はスッと退くのかもしれない、とも思うのです)
ですから、『3月8日の雲』『Pray』収録曲の歌詞の内容や、その思想のあり方についてリスナー同士が議論するのはともかく、ジュリーの創作姿勢そのものを是か非か、と言いたてるのはまったくナンセンスではないか、と僕個人は思っています。
昨年の「F.A.P.P」、今年の「Fridays Voice」。
まず素晴らしい曲ではないですか。そして、凄まじいまでのジュリーの感性ではないですか。
僕のような凡人の感性では、TVに映る東京電力福島第一原発の現在の映像を観ると、「怖い」「いたたまれない」という気持ちが先走り、目をそむけようとします。
でもジュリーはガキッと目を見開いて、そんな映像を直視しているようです。目をそむけたり、映像を観て頭に浮かぶことから逃げたりはしていません。
それは「Fridays Voice」の詞でハッキリと分かることです。
♪ 可哀想な原発 行き場のない原発
E G#m7 C#m E7
危険すぎる手におえぬ 未来
A G#m7 C#m
止めるしか原発 ♪
F#m7 B
視覚的には、特に3号機と4号機でしょう。
無残な姿を晒すそれらの映像からジュリーが感じとったのは、放射能の呻き声。
♪ 放射能は呻いた こんな酷い支配を
E G#m7 C#m Emaj7
意に介さぬ人が嗤う 何故怖れない ♪
A E F#m B
「何とかしてくれ」「俺達をもっと恐れてくれ」
そんな呻き・・・いや悲鳴です。
ただ、これはまず音楽です。楽曲やアレンジ、演奏が優れていなければ、いくらジュリーの感性が素晴らしかったとしても、話にはなりません。
昨年に引き続き、原発をテーマとしたジュリーの歌詞を担うことになった柴山さん・・・またしても期待に違わぬ名曲を誕生させてくれました。
リリース前の新曲内容予想記事で僕は、作曲が柴山さんということと、「Fridays Voice」というタイトルから受けるイメージとして、力強くも軽快なポップ・ロック・チューンであろうと予想しました。
また、昨年の「F.A.P.P」や、『ROCK'N ROLL MARCH』収録の「やわらかな後悔」で魅せてくれた、ギタリスト・柴山さんならではの目まぐるしい転調構成にも期待して新曲を待っていました。
予想はまったく外れました。
一度も調号変化の無い、直球王道のバラード・・・!今年のジュリーの新譜で柴山さんは、渾身の豪速球・ストレートを投げ込んできたのです。
そして、鉄人バンドの演奏とアレンジも、ジュリーと柴山さんの意気に応えた直球勝負となっています。
♪ We Are Fridays Voice ♪
A F#m C#m
最後、このサビのフレーズが延々と繰り返されます。
この構成に「なんだかサビが長いな」と意表を突かれたかたもいらっしゃるかもしれませんが、実はこれも王道です。バラードの大作で採り入れられることの多い楽曲構成なのです。
ジュリー・ファン、タイガース・ファンのみなさまにお馴染みの曲で例を挙げますと、ビートルズの「ヘイ・ジュード」がそうです。これなら分かりやすいですよね。
このサビ部、1番では1回のみ、2番では2回のリフレイン、そして最後に何度も何度も繰り返す、という構成になっています。
初めは少数だった「声」が次第に数を増やし2倍となり、遂には数えきれないほどの重なりとなっていく・・・柴山さんの作曲段階で、エンディングの延々と続くリフレインのアイデアは既にあったかと思いますが、1番を1回、2番を2回、と決めたのはジュリーの歌詞が完成してから後のことかもしれません。
全体通して直球のコード進行の合間で、「ちょっと捻っているかな」と思う箇所は、Bメロに登場するオーギュメントの和音。
♪ この国が いつか変わるため 今夜集まろう
E Eaug A
OH 静かに熱い覚 悟 ♪
F#m B G# G#sus4
(「あぁ♪」と歌っていますが、歌詞カードでは「OH」なのですね)
「変わるため 今夜♪」の箇所です。
オーギュメント・コードには主に大きく2通りの使い方があって、ひとつは曲のルート音への帰還の際に、ちょっと宙に浮いたような雰囲気を持たせる手法。この新譜では「Pray~神の与え賜いし」の「嗚呼♪」と歌う箇所にオーギュメント・コードが使われています。過去のジュリー・ナンバーで言うと、『JULIEⅥ~ある青春』収録の「二人の肖像」でやはり「アァ♪」と歌う箇所で登場していたり。
しかし「Fridays Voice」で採り入れられているのはもうひとつの手法で、これは「渚でシャララ」の「傷つけ合うより♪」の箇所で登場するポップ・チューン向きなやり方です(2通りの手法の紹介で、偶然にも加瀬さんの名曲が時代を超えて2曲並びました)。
ゆったりとしたバラードでこの進行が採用されるのは珍しいパターンじゃないかなぁ。じっくりと上昇していく感じ・・・はからずもジュリーの載せた歌詞で、多くの人の声が次第に集っていく雰囲気を表しているかのようですね。
さぁ、それでは今回も、鉄人バンドすべての演奏トラックを書き出してみましょう。
柴山さん・・・エレキギター(右サイド)、エレキギター(センター)
下山さん・・・エレキギター(左サイド)
泰輝さん・・・キーボード2種(ピアノ、ストリングス)
GRACE姉さん・・・ドラムス、タンバリン
最初に、柴山さんの右サイドのバッキングについて。
まず1番Aメロ2回し目。それまで泰輝さんのピアノ1本で進行していたところに、柴山さんの撫でるようなアルペジオが絡んできます。
音色は、ユラユラとした幽霊サウンド(←本当はちゃんとした呼称がありますが忘れました)の設定。
これはひと昔前ならば、ボリューム・コントロールを懸命にブルブルさせて作り上げるところですが、その後マルチ・エフェクターのパッチ一発で設定可能な音色となりました。巷でも、バラード・ナンバーをエレキギターでバッキングする際にはよく使われています。
ここでのアルペジオは基本、1小節の2拍目までを8分音符で弾きます。小節内の最後の音を「ポロン♪」と突き放すように弾いている箇所で、残響音が「揺れている」感じ・・・これは注意していればすぐに聴き取れるかと思います。
そしてBメロへと移行すると、柴山さんのギターが実は幽霊サウンドのみならず、ディストーションをも加えたハードな音色だったことが判明します。一体それまでどれだけ優しく弾いていたんだ!と驚くほどの変貌。
ここから全楽器がガ~ン!とフォルテで噛んでくるわけですが、直前、「いくぞ!」とばかりに必殺の「きゅきゅ~ん!」というフィルが炸裂していますね。
(その直後に演奏が一瞬途切れる箇所で、下山さんが「オッケ~!」とばかりに「ぎゅ~ん!」と言ってオイシイところを持ってってますが)
2番Aメロでの4弦~6弦のダウン・ピッキングも武骨でカッコイイです。この辺りはバラードはバラードでもハード・ロック寄りのアレンジ手法です。
これはベースレスを補う意味もありますが、おそらく柴山さんの好みなのでしょう。
センターにミックスされたリード・ギター・・・こちらについては考察の関係上、後の泰輝さんの演奏と併せてたっぷり語ります。
ここではひとまず、このリード・ギターの音色設定そのものが直球であることだけ、まず書いておきましょう。ロックでエレキと言えばまず基本この音、という音色。
最後のサビのリフレインで、4分音符の1拍ずつで重厚なフレーズを繰り出す箇所がありますが、本当にシンプルな音色設定だからこそ説得力があるんですよね・・・。自身の曲作りに合致した、柴山さんのセンスです。
一方、下山さんの左サイドのギターも基本はバッキングなのですが、音の表情はクルクルと変化します。2番Aメロはアルペジオですしね。
何と言ってもこの曲の下山さんのギターは、ほんのちょっとした箇所で細やかな単音を繰り出してくるのが大きなポイント。これがまた素晴らしい演奏なんですよ!
ヘッドフォンで左サイドから時折聴こえてくる単音のフレージング。僕は購入何度目かの鑑賞時、下山さんの音を注意して聴いていて
「この感覚は、つい最近生で体感したことがある!」
と思いました。そして何度も繰り返し聴くうち、それが先の老虎ツアーでの「淋しい雨」で下山さんが華麗に魅せてくれた演奏であることに気づきました。
うぅ・・・最早懐かしい・・・DVD観よ。
この曲の下山さんの単音で僕が最も感動したのは、「放射能に罪無し、人間こそ罪あり」と歌われる2番Aメロ(歌詞としても重要な箇所ですね)の直前、1’40”くらいのフレーズです。低いところでせり上がる、渋い音色・・・このたった4音(ニュアンス的には3音)の音階移動が素晴らしくも独特!
すぐ後にアルペジオを弾くことになりますから、下山さんとしてはフィル・イン的にサラリと挿し込んだ、という感じなのでしょう。聴く側は、「えっ、これ和音と合ってるの?」という感触に一瞬ゾクリとしますが、いやいやキチンと合ってるんですよこれが・・・。
この音階は、コードに合わせて適当に弾いただけでは出てきません(普通は、「次節のアルペジオを少しだけ早めに始めてみました」という感じのフィル・フレーズになるでしょう)。かと言って、論理的に考え組み立てようとしてもなかなか出てこないと思います。理屈から考えて捻り出した音階なら、この場合はもっとあざとくなるんじゃないかなぁ。
とすればこれはもう天賦の霊気・・・もとい、才気としか。
これが下山さんなんだ、と思います。これこそがルースターズ時代、超メジャーな某ライバルバンドをしてその才能を怖れられたという、下山さんのギターなのでしょう。
ホント、もの凄く細かいトコなので、なかなか伝え辛いのがもどかしい。
まぁ、下山さん本人としては涼しげに「あ、ここんとこ結構うまくいったな。できれば気づいて欲しいな」くらいの感覚でしかないのかもしれませんが・・・。
他にも、2’58”に登場する一瞬の経過音や、エンディング近くの5’06”で、柴山さんが作曲段階から構想していたであろう”テーマ”(泰輝さんの項で詳しく語ります)を追いかけるようにして挟み込まれるフレーズ等々・・・目立たないようですが、今回の新譜の中で僕が選ぶベスト・オブ・サポート・プレイは、「Fridays Voice」での下山さんのこのトラックです。
続いて泰輝さんのキーボード・・・こちらがまた正に直球、うなるストレートです。
音色設定は、ド真ん中ズバリ!のピアノとド真ん中ズバリ!のストリングス。泰輝さんは完全に正攻法の音色を採用し、このバラードに挑んでいます。
ストリングスの方はさほど前面に押し出す感じではなく、縁の下の力持ちに徹しています。イントロ途中でピアノに噛んでくる箇所が一番目立つでしょうか。
そう、この曲はまずピアノとストリングスの音のみ、という泰輝さんの独壇場からスタートするのです。
ちなみにこの2トラックは別録りというだけではなく、さしもの泰輝さんも手が3本無いと同時演奏が不可能なアンサンブルです。ですからイントロに限っては、LIVEではピアノのみの演奏となるでしょう。
この曲のピアノはとても重要です。楽曲全体でも主役級の活躍と言えます。
中でも最も重要で、聴き手にとって強く印象に残るのが
「シド#レ#ファ#ソ#~、ファ#ファ#ファ#ミレ#ミ~、ド#ド#ド#シラミ~♪」
という、曲の”テーマ”とも言うべきフレーズです。
これは曲中で、イントロ、間奏、エンディングの3度に渡って登場します。僕はこのフレーズを、ある程度まで柴山さんが作曲段階で練っていた音階だと考えています。
フレーズ後、最後の最後に優しく手を置くように演奏される「シ・ラ・ド#・ミ」という輪郭のボンヤリした和音構成も、柴山さんの「1弦開放、2弦2フレット、3弦2フレット、5弦2フレット」というフォームから導き出されたものかもしれません。
では、何故僕がそう考えるのか。
3度登場する”テーマ”のうち、まず間奏部を注意して聴いてみてください。この間奏部では、泰輝さんのピアノに柴山さんのリード・ギターがユニゾンするアレンジとなっているのです。
僕は常々、柴山さんのリード・ギターのフレージングについて、ストイックな求道者のイメージを持っています。
今回の「Fridays Voice」のような直球のバラードであれば、作曲段階で単音フレーズをも充分練っていたと考えられます。そしていざ鉄人バンドでアレンジの仕上げという時、そのフレーズを泰輝さんに託すことになった・・・特にイントロについてはピアノ1本で演奏した方が良い、という結論です。
さて問題の間奏。
1番の力強いサビが終わり曲がいったん静けさを取り戻す、という流れを考えると、イントロとは微妙に変化を持たせたいところです。ギターはバッキングに徹しピアノのフレーズを変える、或いはピアノとは別のギター・フレーズを考案する、など選択支もあったのでしょうが・・・柴山さんが選んだのは、ピアノとのユニゾンでした。
ここで思い当たるのは、これまで書いてきた「Pray~神の与え賜いし」「Uncle Donald」にも採り入れられている、ユニゾン・アレンジの手法です。
「Uncle Donald」の記事で書いたように、それを僕は「寄り添う」「共にある」というジュリーの歌詞に呼応した鉄人バンドの新譜全体に及ぶアレンジ・コンセプトではないか、と考えています。
「Pray~神の与え賜いし」では、GRACE姉さんのスネアと柴山さんのバッキング・ギター。
「Uncle Donald」では、下山さんのリード・ギターと泰輝さんのオルガン。
そして「Fridays Voice」では、泰輝さんのピアノと柴山さんのリード・ギターです。
ここまでユニゾン・アレンジのアイデアが重なると、これはもう鉄人バンドの統一された意志があってのこととしか思えないではありませんか。
柴山さんは間奏で泰輝さんのピアノに合わせ、自ら練りこんでいた”テーマ”を演奏します。
と・・・ここで、鍵盤楽器と弦楽器の特性の違いから、思いもよらぬ(いや、最初から計算されていたのかもしれませんが)素晴らしい効果が生まれました。
ピアノとギターのユニゾンということを踏まえた上で、みなさま改めて間奏部を聴いてみて下さい。
フレーズの途中、ピアノよりもギターの方が演奏されている音数が多いことにお気づきになるかと思います。
紐解きますと・・・ピアノが
「ファ#ファ#ファ#ミレ#ミ~♪」
と弾くところで、ギターが
「ファ#ファ#ファ#ソ#ファ#ミレ#ミ~♪」
と演奏されている箇所があります。
これは、泰輝さんが「ファ#ミレ#」と弾く間に、柴山さんが速弾きで「ファ#ソ#ファ#ミレ#」と演奏しているという仕組みになっていて、この微妙なズレにより、”テーマ”のフレーズがまるでヴォーカルのダブル・トラックのような不思議な効果を得ていて、僕は何度も何度も聴き惚れています。
この柴山さんの演奏は、”速弾き”とは言っても超絶プレイではなく、ハンマリング・オンとプリング・オフという基本中の基本テクニックを組み合わせたものです。
これはもうギタリストであれば誰しも手クセのようになっているテクニックで、「E→B→C#m」の進行に載せて「ファ#ミレ#」と弾こうとすると、フレット移動の利便性もあって、思わず指が勇み足してしまうという・・・。弦を指で強く叩く時に出る音と、強く離す時に出る音を繋げる感じで音階に組み入れているのですね。
もしこれがリード・ギターだけのフレーズなら、音数の多い上記音階がそのままそういうものとして聴き手に認識されることになるのですが、ここではピアノとのユニゾン。しかもイントロでピアノ1本の同じ音階を一度聴かせている、という構成もあって、その効果は絶大です。
本当に何てことないテクニックなのに、採り入れ方によってこうまで刺激的なものなのか・・・と僕などはただただ感心するばかり。
泰輝さんの弾くピアノの”テーマ”は、エンディングにもう一度繰り返されます。
ここでの柴山さんは、泰輝さんの音数にピタリと合わせた完全なユニゾンでリード・ギターを弾きます。
何故間奏とは違いキチンと合わせたのか・・・それは柴山さんが、先述したピアノの隙間で”テーマ”の旋律を追いかけるようにして演奏される下山さんの素晴らしい単音を最大限生かすために、自分は一歩退いたのではないでしょうか。
柴山さんのリード・ギター・トラックは、せ~の!で録ったベーシック・トラックをリプレイしながらの後録りでしょうから、全体の音を聴きながら最適なアレンジを選んだ、ということなのだと思います。さすがはバンマスです!
GRACE姉さんの演奏については、上記でドラムスとタンバリンを分けて書きましたが・・・これは、この曲でのタンバリンの採用を強調したかったためで、ドラムス、タンバリンは合わせて同一のトラックのように思います。
ハッキリ断言できないのですが・・・タンバリンが最初に登場するのは、先程柴山さんのバッキング・トラックでも触れた1番Bメロ部。そこでよ~く聴くと、オカズの箇所でほんの1打だけタンバリンの音が消えているように聴こえる部分があります。
タンバリンのパートが消える瞬間も、もし後録りの別トラックならばもう1打叩いた方が据わりが良いだろう、というところで終わっているのです。ということはおそらく、ハイハット付近にタンバリンをセッティングしての一発演奏じゃないかなぁ、と。
LIVE本番でもこのドラムス・アレンジが再現されるとすれば、GRACE姉さんのセッティングに注目して観なければ・・・。
それにしても、ハードロック寄りのバラード・ナンバーのこの最初のフォルテ部での8分音符の重要なテンポの刻みを、ありがちなオープン・ハイハットではなくタンバリンに託したGRACE姉さんの意図・・・「民衆」のひしめく「手」と、重なり合う「声」の躍動をイメージしてしまうのは、僕の深読みでしょうか。
この曲でのドラムスの目玉は・・・これはもうみなさまお気づきでしょう。4’35”あたりで豪快に炸裂するフィルですね。
これは本当に凄い。曲を盛り上げる、というだけでなくキチンと歌詞に呼応しているのが素晴らしいのです。
それまで「We Are Fridays Voice♪」と繰り返していたのを、「Fridays、Fridays Voice♪」と「私たちの声が聞こえるか?」という思いでジュリーが変化させた箇所に応えての「ここぞ!」というフィルになっていますから、歌詞との連動性を意識しての演奏であることは間違いなさそうです。
あと、続く4’45”あたりから始まる、スネアの裏打ちを次々に繰り出すフィルもカッコイイですよ!
そして、ジュリーのヴォーカル。
「Deep Love」のような慟哭はありません。サビも力強く高らかに歌います。
しかしAメロでの、語尾を「フッ」と抜くようなヴォーカルには張りつめた緊張感があり、悲しみが込められているようにも感じます。無残に姿を崩した建造物の悲しみでしょうか。
「Fridays Voice」は『Pray』収録曲の中で、抜きん出て音域の広い曲です。
最高音は、「さぁ♪」とジュリーが力強く呼びかける箇所で登場し、これは高い「ファ#」の音。「Uncle Donald」の最高音と同じです。
それで音域が抜きん出て広い、ということは・・・そう、おそらくこれも聴いた感触だけでみなさま既にお気づきかと思いますが、この曲のAメロって、メチャクチャ低音域なんですよ!
1番で言いますと
「うめいた」「しはいを」「わらう」
太字で記した箇所が、低い「ソ#」の音になっています。これが曲の最低音。
僕などは、低い「ラ」の音すらなかなか発声できないというのに、さらにその半音下まで・・・。
思いを絞り出すようにして歌われる、ジュリーの低音。今のジュリーのヴォーカルの魅力が、このAメロの低音域ではバッチリ発揮されていると思います。
この曲はAメロからBメロへの流れが特に美しいのですが、音域だけをとってみると、まるでそれぞれ別の曲を合体させているかのような高低の開きがあります(ジュリーのヴォーカルが滑らかなので、それがとても自然に聴こえます)。
これは、作曲者の柴山さん自身がかなりの広音域の声の持ち主であることも物語っていますね。
最後に。
ジュリーの創作姿勢については100パーセント支持する僕自身と言えど、ジュリーの社会的な物事の考え方には、とてもよく似たところもあればまるで違うところもあります。
ただ、ジュリーが自らの思いを託し新曲に取り組んだ”当たり前の”志と、2年続けて難しいテーマを担うことになった柴山さんの名曲にも最大の敬意を表したく、今回の新譜『Pray』の楽曲考察記事については、毎週金曜日の更新とすることを当初から目標と定めていました。
なんとか達成できそうな感じになってきました。
残すは1曲「Deep Love」。
この曲が一番、書きたいことを纏めるのに時間がかかりそうなのですが・・・引き続き全力で頑張ります!
昨年からの新譜の記事は特に、毎度毎度の大長文におつき合い頂くこととなり、申し訳ありません・・・。
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追記にて恐縮です。
この記事は本日の更新に備え、昨夜の時点でほぼ書き上げておりましたが、今朝ほどとても悲しいニュースが・・・。
僕にとっては『池中玄太80キロ』のアッコ姉さん・・・このブログでも、いわゆる「少年時代の憧れの存在」としてはただおひとり過去にお名前を挙げたことのある女優さん、坂口良子さんが突然亡くなってしまいました。
タイガース世代の先輩方にとっては『前略おふくろ様』でしょうか。
また、市川昆監督の映画・金田一耕助シリーズでのコミカルでキュートな役どころや、エド・マクベインの87分署シリーズを日本で刑事ドラマ化した『裸の街』で、主演の古谷一行さんの奥さん役を熱演されていたのも、僕には強く印象に残っています。
再婚なさって、これから第2の人生を末永くお幸せに、と応援していたのに・・・あまりに早い旅立ちに、驚き悲しむばかりです。
心よりご冥福をお祈り申しあげます。
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