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2012年10月23日 (火)

沢田研二 「影絵」

from『チャコールグレイの肖像』、1976

Tyakoruglay

1. ジョセフィーヌのために
2. 夜の河を渡る前に
3. 何を失くしてもかまわない
4. コバルトの季節の中で
5. 桃いろの旅行者
6. 片腕の賭博師
7. ヘヴィーだね
8. ロ・メロメロ
9. 影絵
10. あのままだよ

-------------------

秋ですね~。
6月から始まったジュリーのツアーも、長かった夏を越えていよいよ最終コーナーへ。

何と言ってもジュリーファンとしては、11月頭にツアーが終わって、そこから2ケ月ほど待つだけですぐにお正月コンサートがやってくる!というスケジュールが嬉しいんですよね。
その代わり、ブログの方は忙しくなるなぁ~。11月はまずファイナルのレポートを書いて、それから”セットリストを振り返る”コーナーを12月頭までに終わらせ、間髪入れずにお正月コンサートに向けて”恒例・全然当たらないセットリスト予想”シリーズへと突入したら、あっという間に年末・・・の予定です。
その間、ピーとタローのLIVE『Chirlhood Friend』があったりしますし。

つまり、純粋な意味での自由お題の記事を書く機会が、今年はもうほとんど残っていないということで・・・リクエストもえらい溜まってしまって、申し訳ないことですが、今日は自由課題での更新。

多くのジュリーファンのみなさまも同様かと思いますが、秋になると無性に聴きたくなるアルバムが『チャコール・グレイの肖像』です。
「コバルトの季節の中で」が収録されているから、というそれだけではない・・・季節が変わり、これから訪れる寒い冬に向かってゆったりと流れる時間。そんな空気にピッタリの、何処か切なく寂しげな”青年ジュリー”の魅力がたっぷり詰まった1枚ですね。

お題は、このアルバムから選びました。

間違いなく名曲・・・でも立ち位置が地味なのか、ジュリーファンの間でなかなか話題に上る機会も少ないような・・・そんなナンバー。
こういう曲を採り上げてこそ、ヒヨッコ新規ファンのつたないブログとしても一縷の価値を示すことができるかもしれませんので、頑張って書こうと思います。
「影絵」、伝授です!

実はこの曲のお題、半分リクエストを頂いていたようなものでして、いつもピンポイントでジュリーにまつわる色々なことを教えてくださる先輩が「大好き」と仰っていたナンバー。
また偶然にも、いつもお邪魔している先輩ブロガーさんのaiju様が、先日藤城清治さんの”影絵”について書いていらして・・・僕もちょうど「次は”影絵”の記事を仕上げようかな」と考えていた矢先だったものですから、これはもう今すぐ書いておくしかない!と、勝手な思いながら絶好のタイミングを授かったようにも感じています。

さて、個人的には『チャコール・グレイの肖像』というアルバムは、ジュリーの全作品の中で最もバンド演奏のテンションが高い作品だと考えています。
まぁ、ジュリーのアルバムで、演奏が凄い!という作品はそれこそ数多くあって・・・例えば。

・圧倒的なアンサンブルの完成度を誇り、いかにも”プロフェッショナル”な雰囲気の『JULIEⅡ』。
・粗削りな中にも、決して安全策を選ばないロックな志がイカしている『BAD TUNING』(の、LIVEテイク5曲)。
・最先端の渋い洋楽エッセンスを踏まえつつも、技量で本家を凌駕してしまった『S/T/R/I/P/P/E/R』。
・バンドブームに浮かれる時代に、”本物”という楔を打ち込んだ『彼は眠れない』。
・ジュリーのコンセプトへの奇跡的な融合と、演奏者の魂の気高さを示した『3月8日の雲』。

これらいずれもが、ジュリーのヴォーカルや楽曲の良さばかりでなく、演奏の素晴らしさに酔わせてくれる大名盤なのですが・・・「演奏で選ぶナンバー・ワンは?」と問われれば、僕は迷った末に『チャコール・グレイの肖像』を挙げるでしょう。

(演奏のみならず、各楽器トラックのイコライジング処理やミックス・バランスも抜きん出て好き、という要素も大きいかもしれませんが・・・)

そして・・・もう数年前になりますか、『チャコール・グレイの肖像』をBGM用に持参して出かけたある日のこと、僕がこのアルバムから受ける不思議な感覚に初めて気がついたことがありました。
その日は仕事での移動が10箇所弱あって、移動距離こそ短いけれどせわしない1日でした。僕はその短い移動時間に、『チャコール・グレイの肖像』収録曲を1曲ずつ取り出して聴き、用事を終えるとまた移動中に1曲・・・という感じで聴いていったのです。
すると、単にこのアルバムの演奏が素晴らしいというだけでなく、演奏の意味合いが、曲によって大きく二通りのインパクトをもって僕に迫ってくることが分かりました。

その二通りを、乱暴な言い方ながら説明してみると

・既存の洋楽ロックを下地とした俯瞰的、かつジュリーのヴォーカルに従順で包みこむような演奏
・ジュリー・ナンバー・オリジナルとも言うべき主観的、かつジュリーのヴォーカルに戦いを挑んでいるような演奏

といった感覚でしょうか。
それがどういう違いによるものかは僕自身うまく整理できていません。おおまかに言い換えると、ハッキリした洋楽の元ネタを演奏に感じる曲は、その最先端のアレンジ・センスをうまくジュリーのヴォーカルに溶け込ませ歌に取り込もうとしているのに対し、演奏元ネタの特定しにくい曲は、ジュリーのヴォーカルが天才的にも最初から演奏に溶けきろうとするのを拒絶するような感じで、ジュリーにある意味ケンカを売ろうとしている・・・その危うさが逆に不思議な一体感を作っている、という印象を受けるわけですが・・・う~ん、伝わるかなぁ。

前者として躊躇なく挙げられるのは「夜の河を渡る前に」「片腕の賭博師」。
「あのままだよ」も、過激なアレンジの割にはジュリー・ヴォーカルへの対峙は優しく包みこむようなイメージがあります。
後者が「桃いろの旅行者」、そして本日のお題である「影絵」。この2曲の演奏トラックの攻撃性は凄いです。
どちらとも言えず微妙なのが「ヘヴィーだね」「ロ・メロメロ」という、ジュリー作詞・作曲による2曲なんですけど、それはまたそれぞれをお題曲として採り上げた際に改めて考察を述べることにします。

いずれにしても『チャコールグレイの肖像』が、収録全ての楽曲で当時最高峰のロック・サウンドを楽しめるアルバムであることは間違いないところです。
こんな邦楽ロック・アルバムが存在していたことを、長い間ずっと知らずにいたとはね・・・。

それでは、”ジュリー・ナンバー・オリジナル”な独創性と、”ジュリーにケンカを売る”ほどの攻撃性をも兼ね備えた名演、「影絵」のサウンドを詳しく分析していくことにしましょう。

僕は、このアルバムを購入し熱心に繰り返し聴くようになってから後しばらくの間も、「影絵」の演奏時間が6分半を超えていることにまったく気がついておらず、ある日PC上で表示されたファイルのトータル・タイムをたまたま見て「ええっ?この曲ってそんなに長かったのか!」と驚いたものです。
(レコードはどうか分かりませんが、少なくとも僕の持っているリマスター盤CDには、歌詞カード含め何処にも各曲の演奏時間の表記が無いのです)
せいぜい4分台だと思って聴いていました。演奏の緊張感があまりにも凄くて圧倒され、長さを感じる余裕が無かったのかなぁ・・・。

その”凄まじい緊張感”漲る演奏・・・各楽器の演奏トラックをすべて書き出してみますと

(左サイド→右サイド)
・リード・ギター
・キーボード(オルガン系)
・ドラムス
・ベース
・サイド・ギター
・キーボード(エレクトリック・ピアノ系)

となっています。

いずれも素晴らしい演奏ですが、まずは左サイドのリード・ギターから注目してみましょう。
リフによるバッキングと、情熱的でありながら陰鬱な魅力をもほとばしらせる単音の切り替えが見事。まるでジュリーの作曲世界とヴォーカル・ニュアンスをそのままギターという楽器に乗り移らせたかのような、渾身のワン・トラックになっていますね。
あまりにもジュリーの作曲した世界観に近い表現、ということも含めて、このギターは井上バンドの速水さんの演奏だろうと僕は思うのですがどうでしょうか。
何故そう言えるのかというと、以前「
外は吹雪」の記事に頂いたコメントで、「外は吹雪」のリード・ギターが速水さんのプレイだということを先輩に教わったからです。
「影絵」のリード・ギターには、「外は吹雪」に見られる特徴的な奏法やフレージングが随所に登場しますから、同一のプレイヤーによる演奏と考えるのが自然。「外は吹雪」が速水さんなら「影絵」も速水さんだろう、と推測できるのです。
ひんやりとした季節感をさらに盛り上げるギター、正にプロの技ですね・・・。

ギター・トラックはもうひとつあって、右サイドに振られたこちらはサイド・ギターの役割。演奏は主にコード・カッティングですが、イントロに顕著なように、「7th」の音を強調して弾いているのが目立ちます。
「影絵」はホ短調ですから、「7th」とは「レ」の音のことです。この音が強く押し出されるだけで、曲に不穏な空気が漂います。まるでジュリーのヴォーカルに一部の楽観的ニュアンスをも許さないような・・・そこまでとなるとこれは井上堯之さんの演奏ではないでしょうか。編曲のクレジットが堯之さんですから、演奏にも参加していると考えるのが自然かと・・・。

続いてドラムス、こちらはキック(バス・ドラム)の細かい跳ね方に特徴があります。
最近の流行音楽には”隙間の魅力”というものが無く、たとえ同じようなドラム・プレイだったとしても、その素晴らしさが全体の音圧に埋もれてしまうことがあり得ます。
その点、70年代後半のロック・サウンドとして僕の好みにピタリの『チャコール・グレイの肖像』の演奏には”隙間の魅力”が溢れ、ドラムスの細かいキックや、アレンジとしてのハイハットの出番が鮮明に聴き取れるのが嬉しい・・・ただ、僕の耳では演奏者を特定できないのが残念です。キックの特徴から、「影絵」と「ヘヴィーだね」が同一のプレイヤーであることは辛うじて分かりますが。

ベーシストも特定できないなぁ。
でも、これも以前先輩に『夜の河を渡る前に』のベースが後藤次利さんの演奏だと教えて頂いたので、それを基準に考えると「影絵」は後藤さんとは別の人かと感じられます。フレーズの暴れ方が、1点集中型と言うか、角々きっちり型と言うか・・・。
『太陽にほえろ!』の「スコッチ刑事のテーマ」の感じかな。とすれば佐々木隆典さん・・・?

そのベースの骨子フレーズとなっているのは
「ミ、レミ、ミ、ミ、レミ♪」
というリフ。
そのリフに、時折アンサンブルとして重なるように噛みこみながらも、ヴォーカルの狭間狭間では一転、リード・ギターに負けないほどの自由度を持って飛び回る・・・それが右サイドのエレクトリック・ピアノ系のキーボード渾身のトラックです。
これは大野さんだと僕は推測しています。これまた『太陽にほえろ!』のフリーウェイズ時代(ドック刑事登場期)の大野さんの演奏に、音色、フレーズとも酷似していますから。少し時代は後になるんですけどね。
ちなみに僕は一時期この”フリーウェイズ”と”オールウェイズ”を混同しておりまして、「そうかぁ・・・ジュリーと『太陽にほえろ!』、どちらも井上バンドから建さんや柴山さん達に引き継がれたんだなぁ」などと、とんでもない勘違いをしていました・・・(恥)。

キーボードはもう1トラック。左サイドのオルガンです。
これは先程触れた”隙間の魅力”をほどよく引き締める、ごくごく薄い味付けで全体のトラックに覆いかぶさるように演奏されています。
正に曲の総仕上げ的な役割、隠れた職人技。その特徴から僕は、このトラックだけは、ジュリーのヴォーカル・テイク完成後に最後のアレンジ作業としてつけ加えられたテイクではないか、と考えていますがいかがでしょうか。

これらすべての演奏テイクが、歌詞にマッチした何やら不穏な空気、暖かみを断ち切るような攻撃性でもって、ジュリーのヴォーカルに勝負を挑んでいるように僕には感じられます。

そこで、ジュリーのヴォーカルですよ。
歌の世界に入り込み、情念、怨讐に溺れる寸前にありながら、表現者としての誇り、美しさを失わないヴォーカルの凄みは、タイガースの「美しき愛の掟」に始まり、最新作「3月8日の雲」「恨まないよ」にも脈々と受け継がれています。その間に流れた40年以上の時間を考えるだけでも、ジュリーが奇跡の歌い手であることを思い知らされます。
つくづく、その歴史のほんの一部しか体験できていない自分が、仕方のないこととは言え、悔しいんですよね・・・。僕がジュリーを語る時の暑苦しさ、濃さは、たぶんその辺りの思いが作用しているんじゃないかなぁ。

「影絵」のエンディングは長尺のバンド演奏・・・歌メロの出番は終わり、普通のアイドル歌手のレコーディングであればその時点で歌入れ作業はお役御免、マイクを離れてヴォーカル・トラック終了となるべきところ、ジュリーはバンドの高揚に合わせて息を吐いたり、小さくシャウトしたり・・・最後の最後まで歌の主人公の呻きを表現しているのが確かに聴き取れます。本当に素晴らしい!
演奏者との容赦のない戦闘モードは、とことんジュリー・ヴォーカルの本質を引き出すのでしょうね(これは以前、「誓いの明日」の記事でジュリーとピーの間に流れる緊迫感について書かせて頂いた、あの感覚と似ています)。
堯之さんのアレンジは、そこまで見越しているかのようです。

最後に・・・松本隆さんの詞について。
「影」とは、aiju様の御記事中で知った藤城さんの『光と影88展』という展示タイトルに象徴されるように、「光」と対のフレーズなのですね。
しかしこの歌の主人公は、「光」を認識する力を失ってしまっているようです。目に映る色は、黒、また黒・・・。”お前”の身を包むタートルネックも、”あの日”の記憶の中の受話器の色も、すべて黒。
黒を認識するためには光も見えているはずなのに、黒だけを見、そして「黒」だからという理由で、自分の見るものを拒絶し続けます。
「光」と「影」は”相対する真逆の物質”として捉えられ、その象徴として「影絵」というフレーズが登場するのです。

♪ 黒は哀しい    終り知らせるはかない色だ
  Em     Bm  B♭m Am                       Bm    B7

  黒は淋しい      まるで影絵の俺とお前 ♪
  Em     Bm  B♭m  Am                    Em

松本さんの作詞作品と言えば、前作『いくつかの場面』収録の「燃えつきた二人」がまた”別れ”の物語です。
リリース年が近いことに加え、個人的に『いくつかの場面』と『チャコールグレイの肖像』をほぼ同時に初めて聴いたせいだと思いますが、僕は「影絵」の詞を「燃えつきた二人」のその後の物語として捉えてしまいます。毎度お馴染みの深読みですけどね・・・。

「燃えつきた二人」では、同じ志を持つ若い男女(どうしてもアルバム『いくつかの場面』収録曲からは学生運動の雰囲気を感じてしまうので、ここでもそういった立場の男女、として僕は解釈しています)の別れがありました。
愛情か、生活か、それとも思想か・・・僕の想像では、とにかく何か行き詰まった末に女性を残し遠い場所へと去る、男からの身勝手な決別です。

「影絵」ではそんな二人が年を重ね、いつ再会したのかは分からないけれど、歳月と共にお互いに心に響き合うものを喪った状態に陥っています。
「さらばきらめく青春よ」という、感傷や郷愁の余地も最早まったくない、完全な「決別」が描かれている・・・とまぁ、これは僕の拡大解釈。

一方的に”終わり”を決めつけ、相手を傷つけておきながら自らがそれ以上に傷つき、無表情に景色を見つめている・・・そんなテーマの鬱屈した詞を2作品続けてジュリーに提供した松本さんの意図は・・・?
単に時代の反映だったのでしょうか。それとも松本さんから見た”翳りある青年”としてのジュリー像が詞に投影されたのでしょうか・・・。


さてさて、次回更新のお題は・・・未定です(汗)!

前回記事・大宮レポの締めくくりで、執筆予定と宣言していたピーの新譜がまだ我が家には届いていないんですよ~。
おっかし~なぁ・・・ピーのファンサイトのみなさまは、だいたい日曜日の段階で受けとっていらっしゃるようなのに・・・。
予約注文は解禁日に速攻で済ませたんですけど、その際に何かヘマやっちゃったのかなぁ。いかにも僕のセンスの無さがヘマに繋がりそうなオーダー・システムなんですけどね(汗汗)。
今週いっぱいは待ってみようと思いますが、とにかく実際に曲を聴いてみないことには、すぐに考察記事が書き上げられるかどうかはまったく分かりません・・・。

ジュリー・ナンバーについて書くか、ピーの新曲について書くか、それは次の記事がupされてからのお楽しみ・・・ということでどうかひとつ。
それでは、(たぶん)来週またお会いしましょう!

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瀬戸口雅資のジュリー一撃伝授!」カテゴリの記事

コメント

DY様

当時中学三年生だった私が、初めて買ったLPレコードが『チャコールグレイの肖像』でした。ジャケット帯に書かれていた「オリジナル・アルバム」という意味も分からず、シングル曲とは違う何か難しい曲ばかりだなあと思いながら聴いていました。特にこの「影絵」は。でも何故かバンドの演奏に温かみを感じ、とても心地よいレコードだなあとも感じました。

このアルバムに参加されているハネケン(羽田健太郎)さんは当時、大変人気のピアニストだったようで、「ヒット曲を出すんだったらハネケンを呼んで来い」とまで言われた伝説があります。そんなことは知る筈もなく、ジュリーのツアーに参加されていたハネケンさんのピアノを生で聴いて、かっこいいなぁーと思いました。翌年、「勝手にしやがれ」で伝説は本当になってしまいました。

アルバム発売直後にラジオ番組出演した際、『チャコールグレイの肖像』のために作られ曲は30曲以上あったと話していました。もったいない…

私が気に入ったのは、アルバムジャケットのデザインと「ジョセフーヌのために」でした。
本当に今の季節にぴったりのアルバムですね。

投稿: BAT OUT OF HELL LOVE | 2012年10月23日 (火) 11時59分

BAT OUT OF HELL LOVE様

早速のコメント、ありがとうございます!

そうそう、このアルバムはジャケットも素晴らしいですよね。僕はCDしか持っていないので、LPレコードならばなおさら…と想像しました。

羽田さんのピアノには「溜め」の魅力がありますね。以前「サムライ」のアルバムヴァージョンが羽田さんの演奏だと先輩から教わり、なるほど…と思ったものです。

「ジョセフィーヌのために」は僕も大好きです。
アルバム中最もジュリーの常識にとらわれないコード進行が際立つ名曲…いつか記事で採り上げ、徹底的に分析したいと考えています!

投稿: DYNAMITE | 2012年10月23日 (火) 13時00分

本当は、ジュリーにアルバムをだしてほしいのです。CDも楽曲作りをほかの人に
まかせてみてはどうだろう?とおもうことがある。ジュリーは、自分の言葉で歌いたいようですが。むづかしいことですよね。

投稿: hiromi | 2012年10月23日 (火) 17時14分

DYさん、お邪魔します。
DYさんが「影絵」の詞を「燃えつきた二人」のその後の物語として捉える見方は、松本さんが、はっぴいえんどのメンバーとしてプロデビューした年の時代背景を考えると、正しい推理だと思います。でも、個人的には、松本さんの意図とジュリーの詞の解釈に大きな隔たりがあるように感じます。松本さんも、ジュリーも歌詞というより“詩”と呼んでも過言ではない作品を書くので、どちらも大好きなのですが…。おそらく、松本さんにとって、影というものは“相対する真逆の物質”ではなく、むしろ“背中合わせで存在する物質”なのだと思います。影絵は、光が灯ると一瞬で消えてしまうもの。だからこそ、松本さんは♪黒は哀しい♪というフレーズのあとに♪終り知らせる はかない色だ♪と続けたり♪揺れる薄手のタートル・ネック♪と続けたのだと思われます。私の深読みではありますが、松本さんは、この詞を儚く切ない世界として歌ってほしかったんじゃないかなぁ…。でも、ジュリーにとっては“影”という言葉そのものが、深い闇を感じさせるようです(後年、ジュリーが作詞した『影―ルーマニアン・ナイト』の歌詞からも、そのような要素がうかがえます)。私にとって、これは、コラボレーションの難しさを感じさせる作品です。

追伸:ちなみに、松本隆さんは、藤井尚之さんのソロデビューアルバム、翌年のセカンドアルバムで、全ての楽曲の作詞を手がけています。

投稿: 74年生まれ | 2012年10月23日 (火) 21時50分

DY様 こんばんは。

「チャコールグレイの肖像」は作曲家としてのジュリーのチャレンジであり、自分の歌うべき歌を自分の体から溢れる音で表現したいという欲求が創らせたアルバムだと思います。
大衆的なヒットを求められる立場と自らが希求する音楽と折り合いをつけながらも決してポピュリズムに媚びない音作りが出来たのは、ジュリー自身の意志の強さとともにバンドやスタッフに恵まれていたからでしょう。

「影絵」はきれいなパステルカラーの光に彩られた物ではなく陰影の深いモノトーンの世界。
闇が本当に闇だった時代の情景の既視感。
明るすぎる今の都会の夜は魑魅魍魎さえ住めないと誰かが言ってたっけ。
「ジュセフィーヌのために」
プロの作曲家では絶対ありえないコード使いが劇萌えです。近いうちに伝授よろしく!

投稿: nekomodoki | 2012年10月23日 (火) 23時08分

hiromi様

ありがとうございます!

僕も、本格的にジュリー堕ちしたちょうどその年から、フルアルバムのリリースが無いことを残念に思ってはいますが…マキシシングルとはいえ新曲が毎年届けられるだけで幸せなのだ、と考えることにしています。特に今年の新譜には本当に感銘を受けましたし…。

でも、タイガース再結成の暁には、是非アルバムを作って欲しいなぁ…。

74年生まれ様

ありがとうございます!

なるほど…作詞者と作曲者の乖離ですね。言われてみますと「影絵」にはそんな面も感じられます。この曲は譜割などから詞が先だと考えられますし…その意味で、曲先の「燃えつきた二人」とはイメージも異なりますね。なるほど…。

ジュリーの「影」というフレーズに対する解釈、確かに「ルーマニアンナイト」を吟味すると分かり良いですね!
いやぁ、僕はそこまで考察が至りませんでした…。勉強させて頂きました!

すみません、一度切ります~。

投稿: DYNAMITE | 2012年10月24日 (水) 12時33分

DY様 御伝授
 有り難うございます!

 ジャケット写真と楽曲名のUPに、懐かしさが募りました。でも『影絵』だけは、どうしても思い出せず…物置の奥から、LPレコードを引っ張り出すことに…。
 レコード針の“跡と傷”で、当時の私は長い曲を意図的にカットし、覚え易い曲ばかり聴いていたことを思い出しました(笑)。
 今回、記事の文言から、この楽曲の良さがビンビンと伝わります。
 そして、あの頃のことも蘇って・・・時系列が前後しますが、地元を離れ大阪に出た頃、ツアー・合宿中、短パン姿で笑顔のジュリー(*野球をやった後? 上半身裸で日焼けをしてました) とツーショットを撮ってきた友が、参加できなかった私に、焼き増しの写真をくれたっけ。
 お正月、フェステバルホール…白い羽根のインディアン・ジュリーが所狭しと走り回り、激しくロックを歌う姿は神々しくもあり…『JULIE Ⅵ〜ある青春』そして『いくつかの場面』から、沢田研二☆全作曲『チャコールグレイの肖像』へ・・・ジュリーがこんなにも素晴らしいアルバムを発表していたのに、音楽雑誌等では相応に扱われず、残念な想いも残ってます。
 しかし、ジュリーは着実に、確実に、実力をつけ…その都度毎、常に最上の楽曲作りとライヴステージを心掛けてくださる…それこそが、ジュリーを誇れる一番の要因となっています。
 正に「日々新面目」。
 老いて尚も、真摯に歌と向き合う姿勢を保ち続けているジュリーに、改めて感謝です。

 名曲『影絵』…思い出せて良かったです。

投稿: えいこはん | 2012年10月24日 (水) 22時58分

ジュリーは奇跡の歌い手のくだりが共感です。マッサラなども凄いんではないかと、あげればきりがありません。

投稿: kei | 2012年10月24日 (水) 23時22分

nekomodoki様

ありがとうございます!
お返事遅れました

このアルバムで集中して作曲に打ち込んんだジュリー、一気に大人っぽく(というのも変ですが)なったとファンは感じたのかなぁ、と想像します。
大衆性に媚びない音は、ジュリーの意志の強さとバンド、スタッフに恵まれていたから…まったく仰る通りです!
ギンギンのジュリーしか知らずに聴いた『いつくかの場面』とこのアルバムの2枚は、後追いファンにとっては衝撃的でしたよ…。

「ジョセフィーヌのために」、人気高いですね!
これは是非近いうちに書かねばなりませんね~。

細切れのお返事になってすみません~。

投稿: DYNAMITE | 2012年10月26日 (金) 08時42分

大好きな曲のご伝授、ありがとうございます!
「影絵」が「燃えつきた二人」のアフターストーリーという解釈、興味深く読ませていただきました。同じ松本隆さんの詞ですから、松本さんの中ではそういうつもりがあったかもしれないですね。

私の中では、「影絵」と対になる曲は「ある青春」です。
もちろん作詞者は違うので、私が勝手に対にしているだけなのですが。この2曲、<別れ、そして青春の終焉>というテーマ、光と影の捉え方も共通しているように思います。
◆光=青春のただ中(二人の関係がうまくいっている)
◆影=ひとつの青春の終焉(破局)

しかし、歌の主人公のスタンスは決定的に違う。
「ある青春」の<僕>は、明るくきらめいていた青春の甘い日々を切なく回想して、あの愛の日に戻りたがっている。
♪太陽が明るく燃えてる時は 影などあること忘れるように…いま彼の心を占めているのは、<影の存在を忘れていた、青春時代>であり、
♪翳りを知らぬ青春の 終わりがもう来たのか?…わかっちゃいるけど疑問形で、できることなら終わらせたくない。
ぶっちゃけ未練タラタラで、<心も体も青いまま>なのはまだ過去形になりきってない感じです。 

一方、「影絵」の<俺>は、もっと冷徹に現実を直視している大人です。
<僕>は、<きれいな空が見えた二人の朝>を思い出しているけれど、
<俺>は、<黙りこむのが辛い二人の深い夜>に見据えている。
♪黒は淋しい まるで影絵の俺とお前…いま彼が強く意識しているのは、光きらめく青春の日々よりも、目の前の影の存在であり、
愛は死んでしまい、心の溝は深く、別れが回避しようもない訣別であると悟っている。
♪さらば きらめく青春よ…前者の疑問形に対して、きっぱり言い切り、断定形。
そこには身を切るような哀惜の情はあっても、未練もセンチメンタリズムも入りこむ余地はない。

そこで私が感嘆するのは、共通する主題、しかし主人公のスタンスは決定的に違うこの2曲の歌唱にみる、ジュリーの成長ぶりです。
各曲のアルバム収録時において、
「ある青春」のジュリーは、自身が<心も青いままだった 体も青いままだった>時代の名残りを纏って、この楽曲の情緒を余すことなく歌いあげている。
「影絵」のジュリーは、もはやそういう自らの<青さ>に訣別し、自己革新的な一段と深い表現力と精神性を獲得しているように感じます。
その間、1年余り――20代後半の青年ジュリーが成長するのに十分な月日の長さだった、というだけでなく、この間にあった”謹慎事件”がその成長に少なくはない影響をもたらしたのでは、というのが私の勝手な憶測です。

演奏に関しては、DYNAMITE様がおっしゃるとおり、実に惚れ惚れする名演ですね!
ジュリーと個々のプレーヤー陣の見事な「競同作業」。各パートの詳細なご伝授、とっても楽しく嬉しく読ませていただきました。
ありがとうございました。(たいへん長々とすみませんm(__)m)

投稿: ちこ | 2012年10月26日 (金) 09時43分

えいこはん様

ありがとうございます!

そうか!レコードだと曲間の溝幅で演奏時間の長さが分かるんですよね。僕も10代の頃は、ビートルズのレコードなどで、溝幅の狭い覚えやすい曲を選んで繰り返し聴いていた時期があったことを思い出しました。

「日々新真面目」とは正にジュリーの姿勢を表したお言葉…遅れてきたファンですが、本当にそう思います!

kei様

ありがとうございます!

「マッサラ」良いですね~。
昨年のお正月コンサートで生で聴くことができ、「セットリストを振り返る」コーナーとして記事に採り上げることも考えましたが、同じアルバムから「來タルベキ素敵」を書いたので、保留としたままになっています。
いつか執筆したいと思います!

すみません、またまた一度切ります~。

投稿: DYNAMITE | 2012年10月26日 (金) 12時36分

DY様へ

 ケータイのサイトで、DY様のブログに辿り着いてから8ヶ月経ちましたが…併し乍ら、過去記事読破には程遠く…相変わらず“牛歩”でリーディングを楽しんでます。
 特に最近、ページ数が多い記事は、分け分けをして(笑)、読んでます。
 元々近視と極度の乱視であるところに老眼も加わって、細かい文字を読むのが辛くなってしまって…。

 でも、DY様の記事を読むのはやめられません。
 本当に勉強になります。何かね、切なくなるほど謙虚でいらっしゃるし、勉強家だし…。
 こういう男性がジュリーのファンでいらしてくださることも…その人のブログに巡り遭ったことも…澤會未入会の私には、ある意味、奇跡的なことでした。
 他にも幾つかジュリ風呂巡りをさせて貰って、仕事を離れた1年前迄とは違った気持ちで、ジュリー愛を育んでいます。
 皆さん物知りで、行動的で、本当に“ためになる”ブログが多く…老後の楽しみ見っけ!!…です。
 ※ パソコンの文字を、この目で読み取るために、首や腰に負担をかける姿勢(*端から見ると笑える姿勢?)をとり続けていたことが祟って、歩くのも辛くなり(*今は、年齢の割には結構歩いてますが) …PCを封印し、2年過ぎました。

 今、ちこ様の素晴らしいコメントを拝読し、フンコーしてます(嬉)。そして、どなた様も凄いです!! 皆様、いろいろと教えて頂き、有り難うございました。

 DY様、どうぞ御身大切になされて、11/3のフォーラム、楽しんできてくださいませ。

投稿: えいこはん | 2012年10月27日 (土) 00時48分

すいません、
大変な書き間違いに気づいてしまいました!!

(×)1年余り→(○)3年余り

肝心なところで大ミス、お恥ずかしいです。すいません。


投稿: ちこ | 2012年10月27日 (土) 08時22分

ちこ様

ありがとうございます!
いつもお世話になってしまっている御礼のつもりで、この記事を書きました。読んで頂けて良かったです~。

文中で僕は「あたたかみを断ち切るような」と表現しましたが…なるほど、同じ「青春」を扱った「ある青春」との比較でその辺りが鮮明になりますね!これは気がつきませんでしたが本当に仰る通りだと思います。
謹慎中、作曲に没頭した時間はジュリーのキャリアで大切な糧となると同時に、歌への思い、自らのスタンスの確かな成長をもたらしたのでしょうね。

70年代のジュリーのアルバムを聴いていると、どんどんヴォーカルが進化していくのが分かります。
僕もこの先、同じテーマを扱った作品比較課題をもっと探してみたいと思います!

えいこはん様

ありがとうございます!

携帯で読んでくださっているのですね。
長文だとページが何分割にもなってしまい、分けて読まれるにしても、お手間をとらせてしまっているのでしょうね…申し訳ないです。

僕も近視で乱視なのです…最近はそれに加え、『TOKIO』『Hello』歌詞カードが読めなくなってきまして…意外とブログ継続最大の試練は気力とかの問題ではなく、その辺りの目の衰えからやってくるのでしょうか。
気をつけなければ…。

オーラスのフォーラムは、ツアーの総括として全体の景色をじっくりと胸に刻むにはうってつけのお席を頂いた、と思っています。
楽しんできます!

投稿: DYNAMITE | 2012年10月27日 (土) 23時22分

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