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2012年3月

2012年3月28日 (水)

沢田研二 「F.A.P.P」

from『3月8日の雲』、2012.3.11

38


1. 3月8日の雲
2. 恨まないよ
3. F.A.P.P
4. カガヤケイノチ

-----------------------

すっかりお待たせしてしまいました・・・。

先週の土曜日からずっと、この曲の記事で悩み続けていました。その間、みなさまから頂いていたコメントへのお返事すらできず、迷走を続けてしまいました。

何度書いても納得がいかず、纏め上げたものを読み返しても自分の言いたいことが分からず、主旨がハッキリせず・・・イチからやり直し。
そんなことを繰り返しながら、これはもう本当に書けないかもしれない、とあきらめかけた時・・・。

「あ~あ・・・」
といった感じで呻き、ちょっと曲について考えるのをやめてしまって・・・何故だかふと、単純に福島のことを考え始めました。
学生時代の個人的な想い出を辿ったり、今住んでいる人達のことを考えたりしているうちに

「あれっ?そういえば僕は一度だって、こうしてシンプルに、少しでも福島のことを考えようとしていたっけ・・・」

と、気づかされました。
ジュリーの曲のことは考えた。詞の意味も考えた。コードもメロディーも採譜した。数えきれないほど何度も聴いたし、自分でも歌ってみた。
でも僕は・・・純粋に福島のことを、自分なりにでも考えようとしたか?

何と、全然考えてなかった・・・。

僕は、誤魔化そうとしていたんだな、と思いました。
ずっと気にかけていたことを、ハッキリと書かずオブラートに包んで、それで済まそうとしていました。
その、楽曲考察とは別の僕の思いを書かなければ、結局この曲への僕の思いを伝えたことにはならないんだ・・・福島のことを考え出したら、そんなふうに思えてきました。

そして再度、イチから書き始めたら・・・不思議なことにスラスラと、驚くほど素直に文章が走り出しました。
それが、今回更新したこの記事です。
バ~ッと書いてバ~ッと仕上げで更新してしまいましたから、誤字脱字のチェックはこれからです。どうかその点はご容赦くださいね・・・。

☆    ☆    ☆

僕は福島県に、親戚などの身寄りがおりません。

敢えて言うと、弟の嫁さんの親御さんが、元々福島の出身だったとのこと。

あと、バンド仲間の友人でタブラ奏者の佐藤哲也君が、福島の出身。北国から一旗揚げに(?)上京してきた彼と、同じように南国鹿児島から上京してきた僕とはお互いが20歳の時に出逢っています。長年の付き合いですから、気心は知れています。
僕のよく知る彼は日頃タフな男だけに、昨年の震災後の心労が、逆にハッキリ目に見えるようでした。
彼は父親を亡くして、残された母親を東京に呼び寄せ一緒に暮らすことを提案したのですが、お母さんはやはり住み慣れた福島の地を離れがたく、生家の伊達市で暮らしていく道を選択したそうです。
その後彼は、自分なりに色々と勉強したり情報収集をしたりしながら、機会を見つけては、普通に一人息子を連れてお母さんの様子を見に、福島に度々遊びに行っています。
本当に福島を応援する、というのは彼のような行動のことなのかなぁ・・・と、僕はここ数日でそんなふうに考えたりします。

そしてもう一人。ジュリーがきっかけで出逢った大好きな先輩が、福島にいらっしゃいます。
僕が勝手に思っているだけかもしれないけれど、僕のことも、その先輩はいつも気にかけてくださっていました。
時々僕のことを「オトート」とか「若者」とか呼んでくださいました。
特に「オトート」と呼ばれた時は、なんだかくすぐったくも、とても嬉しかったものです。まぁ、僕が甘ったれな性分だからなのでしょうね・・・。

お気づきの方ももしかしたらいらっしゃるかもしれませんが、今回のジュリーの新譜『3月8日の雲』収録曲の考察を始めてから、実は僕は記事中で、たったひとりのかた・・・その先輩に、振り向いて頂きたい、戻って頂きたい、反応して頂きたい、と躍起になっていた部分が多々あるのです。
この言葉を読んで頂きたい、ここの文章の言外の意を汲み取って頂きたい、などとそんなことばかり考えて書いていましたから、過去2曲の記事は、今読み返すとなんだかチグハグな文になっているように自分で感じます。
ハッキリ書いてはいませんでしたから・・・コソコソとオブラートに包むようにして書いていたことを自分で分かっていますから・・・そう感じるのでしょう。

何故もっと、ストレートに行けなかったかなぁ・・・。
僕は愚かで、とんだ自信過剰でした。無力で、無知でした。

その先輩が、大変なご心労の中にありながらも、最後の最後に
「私のことは気にせず、DYさんはDYさんの思うままの記事を書いてください」
と連絡してくださった優しさが、ほんの昨日のことのように忘れられません。

でも、先輩がその連絡をくださってから先は、僕にとってはあれよあれよというか・・・「ちょっと待って下さい!」と叫ぶ間もなく、事が進んでしまいました。
そしてとうとう、先輩が執筆していたブログのうちひとつは、いつの間にかリンクが外され、アドレスを知らない僕は拝見することもできなくなってしまいました。

あんなに優しい人が、心を鬼にして発信し始めたことを、僕はやっぱり真剣に受け止めざるを得ません。
だとすれば・・・もう書かない方がいいのか、この曲の記事は・・・。
何度もそう思いました。

今日のお題、「F.
A.P.P」のことです。

はじめに書いたように、そんな悩みに明け暮れた数日間の末、ようやく心は決まり、僕は直球の記事を書くことにしました。
先輩への気遣いをコソコソと小出しにしてみたりとか、そういう小細工
は一切ナシにします。
僕はこれから、この今回の記事で、「F.
A.P.P」という楽曲を絶賛します。名曲だと断言します。

「F.
A.P.P」は、間違いなく問題作ではあります。
僕の周りの多くの先輩の間にも、賛否両論あります。気持ちが退いてしまってまともに聞けない、と仰るかたもいます。
それはねぇ・・・やっぱりテーマがテーマだから。
この曲を好きなかたも、どうも語りにくそうにしています。

このテーマそれ自体を語るのが怖い?
うん・・・確かにそれも、あるにはある。

僕はこのアルバムを聴いて、いよいよ全曲の記事を書くんだなぁ、と考えた時、まずはその点に思いを巡らせたものでした。
「原発」とか書くだけで、何か変な人に検索されて因縁をつけられるんじゃないだろうか、とか、色々な考え方の方々がそれぞれの意見をくださる中で、結局僕自身が色々な主張に押し潰されるような事態に発展してしまうのではないか、とか、そういったことをね・・・大げさに考えました。
このテーマはちょっと怖いなぁ、と。

ところが、すぐにそんな「怖さ」はどうでも良くなりました。
思想?政治?
原発について書くとどんな内容でも荒れる?
それがどうした。

どうなろうとそれはジュリー・ナンバーにとっての本質とは関係ないし、広い視野に立てば本当に些細なこと。
僕はそんなことより、このアルバムを、「F.
A.P.P」についての僕の解釈を、世にたったひとりのかたに伝えられないまま去られてしまうことの方が、何百倍も何千倍も怖くなってきました。

思いあぐねている間に僕のブログもほんの数日ですが更新が途絶え、様々な方からご心配や激励のメッセージを頂きました。
その中で・・・今回初めてメッセージを頂いたある先輩は、こう仰っていました。
「この曲最大の不幸は、ジュリーの歌声で届けられる前に、新聞記事によって聴く側に先入観が生まれてしまったことです」

また、いつもお世話になっている先輩は、こう仰ってくださいました。
「音楽作品としては日本で異例かもしれませんが、これだけのことが起こったら、どこの国でもそれに関して”作品”が作られるのは当たり前です。そんな”作品”ひとつ持てず、それに対する賛否が出ない国だったら、かえって情けないです」

いずれの先輩も、僕がどういうことで行き詰まり凹んでいるかを理解してくださった上での激励です。感謝の言葉もありません。

僕は間違ったことを書くかもしれない。自分に都合よく考えているのかもしれない。
一般の人々から見て
「ジュリーが好きだからそんなふうに考えるんでしょ?」
と言われてしまえば、それまで。

ただ、もうこうなったら、素直に、ストレートに書くしかないと思いました。
僕は、この曲のテーマに関しては無知もいいところです。自分なりに勉強はしているつもりだけれど、実際に当事者となった方々の、万分の一もその概要は見えていないと思います。
僕が見て、考えて、掴みとっているとハッキリ言えるのは、ジュリーの歌だけ。そこで僕がどんなふうに考えたかを、今日は書いてみたいと思います。

ジュリーだから何でもオッケ~・・・僕がそんなタイプでないことは、福島の先輩も知っていらっしゃる。
何故僕がそんなにこの曲を支持するのか、理由を考えあぐねていらっしゃるかもしれない。

「発信することは、それがどんな立場での発信であろうと、立場の違う人を傷つけるリスクを常に持っている」
・・・これは、毎日新聞の記事が話題になった時に、ある別の先輩が仰っていたこと。
今思えば僕にとってそのお言葉は、まさに予言でした。
どういう巡り合わせなのか分からないけれど、ほとんど最悪のタイミングで、僕は「F.
A.P.P」の記事を書くことになった。何故こんな時にこの曲に順番が回ってくるのか・・・と正直恨めしく思います。
僕が今、どんな立場でどういう筋道でこの曲を語ろうと・・・例え文中でこの曲を肯定しようと否定しようと、ただ「F.A.P.P」という曲を語るだけで、僕はひとりの先輩のことを傷つけてしまうのです。
曲について語る、というたったそれだけ行為で。

そして、それはそのまま、書いている僕自身も傷つくということでもあります。

・・・いやいや、僕がそれで傷つく、凹むというのは、まぁどうでもいいことです。
本人的にはどうでもよくはないのだけれど、所詮は身勝手な思い込みですからね。ジュリーの楽曲とは関係ない。

そう、大事なのは楽曲の解釈なんです。
僕はまだ全然、その部分を誰にも伝えていません。それをせずして、何も始まりませんよね。
これから書くことは、あくまでも個人的な見解と考察です。間違った考えかもしれませんが、自分に偽りなく、福島の先輩が最後にくださったお言葉に従って、「思うままに」書いてみます。
あ、でも、「私のことは気にせず」なんてお願いは、聞くのは無理ですから。そこだけ、ごめんなさい・・・。

その先輩は、今はもう僕のこのブログは読んでいらっしゃらないと思うんです。
僕が「F.
A.P.P」という曲を記事で絶賛するのを読むのは辛いから・・・最後にあんな優しい言葉を残して、区切りをつけられたのでしょう。
そういうかたなのです。

でも、いつかこの記事が書かれているのを目になさる日があったとしたら、先輩は目を逸らすかな・・・。
それとも「相っ変わらず、文、長ぇ~な!」と苦笑いしながら普通に読んでくださるでしょうか。

今日は、あくまで個人的考察ながらも、文字通り「伝授」の気構えで書かせて頂きます。
よろしくお願いいたします。「F.
A.P.P」、伝授です!

「F.
A.P.P」のジュリーの詞についての僕の考察で、まず2点だけ先に書き、筋道だてて立証したい重要なフレーズがあります。
それは

・「死の街」
・「校舎」

この2つです。
歌詞については・・・正にこの2つのフレーズのことを書くために、僕は今回の記事に向かっているのかもしれません。

これから書く考察を「そうじゃない」と多くのみなさまに言われてしまえば、僕はもう本当に黙るしかない・・・。
でも、僕はこの曲に関しては珍しく、自分の考察に自信があります。自分が真剣にジュリーファンでなければ行き着けなかった考えだとも、思っています。

まずはこの「死の街」「校舎」というフレーズ2点についての考察によって、ジュリーの歌詞全体像に迫ってみましょう。

まず、「死の街」について。
この「死の街」という言葉は、昨年大きな社会問題になった言葉です。
みなさまもその件については覚えていらっしゃるとは思いますが、簡単に説明いたしますと・・・。

事の起こりは・・・本来、被災地地元の支えとなるべき経済産業相という重要なポストにあった鉢呂吉雄氏が、東京電力福島第一原発周辺の地域を「死の街」と表現したことが明るみとなったことから始まります。
後に、鉢呂氏側にもそれなりの正当性があったことなども採り上げられましたが、とにかくその不謹慎な表現に対し、福島の方々始め、世間は激しく怒りました。
(註:人々の怒りの理由については、「恨まないよ」の記事へのコメントにて別の意見も頂いていますが、やはり僕はその表現のあまりのデリカシーの無さに怒った人が多かったのだ、と考えます。現に、その「死の街」という言葉そのもので傷ついているかたが多くいらっしゃるのです)
「死の街」発言は大変な社会問題となり、職に留まり福島の方々と接する、ということなど到底不可能な状況となった鉢呂氏は、辞任に追い込まれます(もちろん鉢呂氏にもそれなりの事情があり、後にそれも指摘されていますが、結局「死の街」発言が氏の辞任の直接要因となったことは間違いありません)。

さて、みなさまもご存知の、この一連の問題・・・それをジュリーがまったく知らないでいた、とみなさまお思いですか?
知っているに決まっていますね。
とすれば、「死の街」などという言葉がどれほど福島の方々を傷つけ、悲しませたかを、ジュリーは当然分かっているということになります。

その上でジュリーが「F.
A.P.P」の歌詞に登場させた「死の街」というフレーズが、「かけがえのない大事なふるさと」のフレーズと対極の表現として使われていることは、自明の理。
「死の街だと?違う、死ぬものか。大事なふるさとだ」
そう歌うために、ジュリーは敢えて「ふるさと」の対極として一番「キツイ」言葉を選んだのではないでしょうか。
僕が以前「言葉がキツイ」といったのは、そういう意味なんです。

そうでない、とすれば
「ジュリーは福島の方々をわざと傷つけるために、意地悪で”死の街”などと歌ったのだ」
というバカげた結論に至るしかありません。そんなはずがないでしょう?

ここまでは、よろしいでしょうか。

それでは、第二点。
「子供はみんな校舎の中育つ」。
この、歌詞中の「校舎」とは何であるか、何処の校舎のことであるか、どういうふうに他部の歌詞と繋がっていくか、ということについてです。

この歌詞部のすぐ後に「死の街」のフレーズが続きます。

そこで、先述の鉢呂氏が「死の街」と表現した場所は何処であったかをまず思い出してみましょう。
新聞によるとそれは、「東京電力福島第一原発周辺地域」とされています。
そこに暮らしていた方々が、強制的に我が家から引き離されざるを得なかった・・・そんな場所のことです。
原発周辺地域に暮らしていた人達は「大事なふるさと」を離れ、どんな暮らし、どんな場所へと生活を変えたのでしょうか。

避難なさった方々が居を落ち着けた幾多の場所の中で、ジュリーが必ずや思いを寄せているに違いない、一例の町があります。

ここでみなさま、お手元のジュリーの6月からのツアー『3月8日の雲~カガヤケイノチ』のインフォメーションをご覧になってください。
ツアー前半のスケジュール・・・その中に
「おやっ?この場所での公演は初めてじゃないかな・・・」
という場所が、ひっそりと記載されていますね。

パストラルかぞ

僕はインフォメーションを見てすぐに「あっ!」と思いました。
いやいや、それは僕がことのほか想像力に長けている、とかそういうことではありませんよ。
実は、個人的に「かぞ」という地名に馴染みがあったのです。


(註:いつもお世話になっている先輩方から、早速のご指摘を頂きました。『パストラルかぞ』での公演は、少なくとも2008年に1度開催されていたようです。何でもその際には、「近隣の人は普通に”かぞ”って読めるけど、馴染みのない人が普通に読んだら”かず”だよねぇ・・・」なんてお話で、盛り上がっていらしたそうな・・・)

・・・さて今日はここで、こんなことにならなければブログなどにはまったく書く気のなかった、昨年の僕の少しばかりの体験について語らなければなりません。
少しの間、おつきあいくださいね。

僕は昨年のある日まで、「加須」(かぞ)という地名の読み方すら知りませんでした。
初夏・・・今思えばそれは、いよいよ老虎ツアーの全容が明らかとなった頃だったのかな。僕は当時、被災されたジュリーファンの先輩方から逆に励まされるようにして、とにかく可能な限り多くのジュリー・ナンバーを採り上げてブログを書く、ということに懸命に取り組んでいた頃でしたか・・・。

ある日、勤務先のパートのお姉さまからのつてで、加須に避難していらした福島県双葉郡双葉町のみなさんから、SOSを受け取ったのでした。
それは
「冬の寒い中、その時の暮らしのままの状態で避難してきてしまったため、夏服の用意がまったく無く、これからの暑い季節を憂慮している」
というものでした。
詳しく聞くと、双葉町のみなさんは、加須の旧騎西高校校舎で避難生活を送っていらっしゃる、とのことでした。
騎西高校は数年前に廃校となり、校舎がドラマ撮影に使用されるなどしてそのまま残されていたところに、双葉町のみなさんがやって来られたのです。

幸い、ささやかながらお役に立てることがありました。
僕の勤務先では、以前創刊した雑誌の販売促進用としてロゴ入りTシャツを大量に制作したことがあり、そのTシャツの在庫が手つかず新品状態で、まだいくらか残っていたのです。
僕らはその在庫すべてを、騎西高校校舎に暮らす双葉町のみなさんに送らせて頂く運びとなりました。
その中で、大変な分不相応ながら・・・僕は社を代表し、双葉町のみなさんに宛てた手紙を書く、という大役を担うことになったのです。

こういうことは、ジュリーファンの宿命でもあるかもしれません・・・もしジュリーと出逢っていなければ、僕だってそんな手紙は、何をどう書いていいものか分からず・・・ビビって、尻込みしたでしょう。
実際、他の社員はそんな感じでしたし。
ただ、ジュリーファンはこういう時、素直に自分の気持ちを、それこそ”邪気無く”そのまま書く、というよく考えれば当たり前のことを、何となく身につけてしまっているのですね。

正直に、心をこめて綴りました。
今度のことに、すべての人が胸を痛めていること。
誰もが、何かできることはないかと日々考えていること。
己の無力を思い知る日々の中で、今回のようなご縁を頂いたことが、どれほど自分達にとって感激の出逢いだったかということ。

ただ・・・最後の締めくくりに書いてしまった1行が、僕を今、強い自責の念に駆りたてています。
「双葉町のみなさんが無事にこの夏を乗り越え、1日も早く故郷に帰還できることを祈っています」
・・・僕はそう書いてしまったのです。

現実には。
夏が過ぎ冬が過ぎ、あれから1年が経ち、春が来ようとしています。しかし僕が最後に書いてしまった1行は・・・未だもって叶えられていません。

話を「F.
A.P.P」に戻しましょう。
ジュリーの歌う「校舎」は、「我が家」の対極として使われたフレーズであると僕は確信しています。
だって・・・ジュリーが決めているんですよね?どの町にツアーの公演に行く、というのは。
何も知らないまま
「”パストラルかぞ”から公演依頼があったから、どんなトコだか知らないけど一度行ってみようか」
・・・そんなことで公演を決めてしまうような軽薄なジュリーではありません。それはファンならば誰しもが分かることですよね。

今回のツアーで加須に行く、というのは当然ジュリーに思うところがあってのことでしょうし、ジュリーが加須公演で、今その地元に住む人達の中で特に観に来て欲しいと思っているのが誰なのか・・・言うまでもないことです。

そう、少し冷静に考えれば、ジュリーファンならば誰しも分かると僕は思うんですよ・・・。
「F.
A.P.P」の詞というのはね。

しかし・・・政治だ、思想だ、団体だ・・・そういうことに関連づけて考えているうちは、この曲は逆に分からないんじゃないかな。
暴言ですか?

原発周辺に暮らしていて、強制的に避難を余儀なくされてしまった方々は、「あと10キロ我が家が原発から離れていれば・・・」と、どうしてもそう考えてしまうそうです。
想像するに・・・無事に故郷に残って生活できている人や、避難区域の見直しによって我が家へ帰還できることになった故郷の同志達を、羨ましくも心強く頼りに思うのでしょう。
それが福島への、故郷への誇りというものではないでしょうか。

「それにしては、”バイバイ原発”だなんて安直にそのまんま言っちゃって、ジュリー、ちょっと身も蓋もないんじゃない?」
そんなファンの声も、今回は多いように感じられます。
何故そんなストレートな表現になったのか・・・僕はその点もしっかり考えましたよ。

これまでに執筆した2曲「3月8日の雲」「恨まないよ」とは違い、「F.
A.P.P」はそのテーマを原発事故に絞っています。
ジュリーはその上で、この歌をどんな人達に捧げたようとしたのか。どんな人達に共鳴し、代弁しようとしたのか。
それはやっぱり、一番しんどい目に逢ってしまわれた方々、ということだと僕は思うのです。
原発事故で多くの方が苦しみ、哀しみの中にいるけれど、ジュリーが焦点を絞って目を向けたのは、馴染みある土地での日々の普通の暮らしを奪われた人達・・・つまり「原発事故で強制的に我が家を離れなければならなかった人達」だったのではないでしょうか。

加須公演が開催されるという時点で、ジュリーはそこに双葉町のみなさんが暮らしていることを知っている。
例えば双葉町のみなさんが「F.
A.P.P」の詞を読めば、まず「校舎」というのは騎西高校のことだ、と普通に感じるでしょうし、「我が家へ帰れない」の歌詞部では、自分の子供達をふるさとで育てられない無念さが、こみ上げてくるでしょう。

たとえ大多数のリスナーに誤解されようとも。
「バイバイ原発」なんて言って、ただの広告塔ではないのかと揶揄されようとも。
ジュリーはたった一握りの苦しんでいる人達のために、「こんな気持ちだよね」と共感し合える詞を書いたのだと僕は考えます。

僕だって最初は「え~っ?!」と思った「F.
A.P.P」の歌詞。
初めてこの曲を聴いた時には、「この表現はないんじゃあない?」
と、退いてしまった・・・僕も確かにそうだったんです。
甘かったです。
繰り返し聴いて、ジュリーに惚れ直しました。まずはメロディーを採譜して、高い「ラ」の音を出してる!という発見に始まって・・・とうとう最後には、この歌詞の魅力に辿り着きました。
ジュリーは「F.
A.P.P」という曲で、自らの思想を主張したのではありません。
政治だとか思想だとか特定の団体だとか・・・そんなこととはまったく別の次元で考え、この詞は書かれています。

校舎の中で暮らす子供達が今何を考えているのか、想像してみました。
幼い子らには、難しいことは分からない・・・ただシンプルに「僕の家を返せ!原発のバカヤロー!」だと思うんですよ。
では、そんな子供達に、親はどう接するのか。
苛立ったり、怒ったり、悲しんだりしている顔を見せるわけにはいかないですよね。
心の奥底では「こんなにしたのは誰だ」「何を護るのだ国は」と憤懣やるかたない中で、傍にいる家族や同郷の仲間の前では、笑顔で生きていくしかないのです。
腹に、色んな思いをグッと押さえ込んでね。
それが次曲「カガヤケイノチ」での「寡黙に」という表現に繋がっていくのではないでしょうか。

寡黙に笑顔でいることは・・・結局そうするしかないんだ、と分かっていても、辛いことでしょう。
大人だから我慢しているけど、時には子供のようにシンプルに「原発のバカヤロー!」と叫びたくなる時があるでしょう。
だからジュリーは、彼等の腹に押さえこまれている気持ちを代弁したのです。ごくごく僅かな人数の人達の、不条理に我慢しなければならない思いを、社会に吐き出したのです。
だから、3番の「当然♪」は、1番、2番の明瞭な発音とは違うのでしょうね。

双葉町の人達は
「現場で決死の復旧作業をしている人もいるんだ。『東京電力』でひとくくりにして責め立ててはいけない」
と、そう自らにグッと言い聞かせていると思います。
それが”腹に押さえ込んだ声”のひとつであるならば。
「押さえている気持ちを解き放って、乱暴にそう言ってしまいたい時があるよね」と、ジュリーは「当然♪」というフレーズの「Z」の発音を「D」に変えて・・・敢えてそう歌っているのだと僕は考えます。

今さらなんですが、「福島」って「幸福」の「福」に「島」って書くんですよね・・・。
僕は今まで、単なる漢字二文字を無機質に認識していただけでした。
でも改めて・・・ジュリーってこういう語感には敏感な人なんですよねぇ。「福島」からすぐに「福」「島」と連想したのでしょう。
福島は「HAPPINESS LAND」だと、僕はジュリーに教わりました。

「福島」=「HAPPINESS LAND」というのは、ジュリーが今回のツアーで最も気合を入れて伝えたいフレーズになるでしょう。
それは、気持ちだけでなく、技術的なことでもね。

さぁ、ここからは楽しい伝授だ。
僕は「F.
A.P.P」の詞についてここまで重々しく語ってきたけれど、この曲が重い曲だとは、実は思っていません。
ゴキゲンなメロディーと、卓越した転調構成、ポップなアレンジ、そして最高のヴォーカルが届けてくれる、楽しい音楽だと思っています。

楽しい曲調だからこそ、この詞なんだ、とも思っています。このジュリーの詞がヘヴィーな曲に載っていたら、逆にわざとらしい。
その場合は、ひょっとしたら僕でも完全に退いてしまっていたかな・・・。
詞と曲どちらが先なのかは分かりませんが(譜割りとメロから推測すれば、曲先で間違いないとは思いますが、断言はできません)、詞先ならば柴山さんの意気たるや凄まじいものですし、曲先とすればジュリーの嗅覚、センスはやっぱり凄い。
「BYE BYE 原発」という言葉数が、「ド#・ド#・ド#~レ#・ファ~♪」のたった5音節に載っている、切れ味。
この部分だけに関して言うと、絶対に曲先だと思うなぁ。ジュリーが冴えているんだと思いますよ。

それでは・・・先程の「福島=HAPPINESS LAND」の話の続きから、まずはジュリーのヴォーカルについて語っていきましょう。

♪ BYE BYE A.P.P  BYE BYE 原発
  A                     C#

  哀しみは ひとりひとりで違うよ 当然
  F#m   B7        D        E       A      E

  BYE BYE A.P.P  BYE BYE 原発
  A                     C#

  HAPPINESS LAND  へこたれないで 福島 ♪
  F#m            B7            D           E       F  A


(註:サビ部の最後のコードの纏め方には曲中2種類の使い分けがあって、一旦「F」をはさんでから「A」に着地するというカッコ良さが僕が個人的に気に入っていることから、ここでは2番サビ部を採り上げました)

ジュリーが「F.
A.P.P」で最も気合を入れて伝えたかったフレーズ・・・「HAPPINESS LAND♪」の頭の「は♪」の部分は、ここ数年、いや数十年なのかな・・・ジュリーがレコーディング作品で避けてきたほどの高音・・・高い「ラ」の音なんです。

ジュリーの高音と言えば・・・例えば先日放映された老虎ツアー。僕はテレビを観ながら検証したんですが、やはり「ラヴ・ラヴ・ラヴ」はオリジナル音源よりもキーを下げて演奏されているんですね。
さすがに高過ぎる、ということです。
ただ、下げたと言ってもそれはイ長調に留まっていて、転調後のサビには「ソ#」という男声としてはかなり大変な最高音(「恨まないよ」の最高音と同一)が登場します。
武道館の「ラヴ・ラヴ・ラヴ」でのジュリーのヴォーカルは、改めて聴いてみると瑞々しい少年のような声だったんですねぇ。最高音の「ソ#」もス~ッと出ていました。

今回のアルバム『3月8日の雲』では、「F.
A.P.P」と「カガヤケイノチ」で、そんな「ソ#」よりも半音高い「ラ」の音を解禁したジュリー・ヴォーカル。
そうまでして伝えたい言葉があったからだ、と僕は思っています。気持ちを入れて、体力限界のところで表現したい・・・そんなジュリーの志を感じます。

この曲のサビは
「BYE BYE A.P.P  BYE BYE 原発♪」
という詞が、間を置いて2度登場しますよね。
先に表記した通り、実はここはコード進行も2度とも同じなのです。載っているメロディーだけが違えてあるという仕組みです。
1度目よりも2度目の方が音階が格段に跳ね上がっているのは、聴けばすぐに分かりますよね。

この素晴らしいメロディーに、「バイバイ原発」なんて、ある意味突拍子もない歌詞が載っている・・・しかし、これが驚くほど見事に詞曲でマッチしています。
近年のジュリー作詞のナンバーというのは、別の人が作曲したメロディーとの乖離が目立ちました。
それはそれで味があり、僕としてはとても好きなのですが・・・今回の新譜に関しては、詞曲の乖離や、「何だこれ・・・」というアクロバット的な不思議ちゃんフレーズは全くありません。
唯一、最初聴いた際に引っかかったのがズバリこの「F
.A.P.P」での、「当然♪」というフレーズ。いきなり唐突に「当然♪」と来るのが気になりましたが・・・これは先述したように、3番での発音ありきで使われているわけですから、今となっては大納得。
今回のアルバムのコンセプトが、ジュリーの優れた作詞能力を引き出したとすれば、何とも皮肉な話なんですけど・・・。

一方、柴山さんの作曲の素晴らしさも語らないわけにはいきません。
僕はこの曲が、これまで柴山さんが手がけたジュリー・ナンバー中、最高傑作だと思っているのですから。

今回のアルバムは故意か偶然か、ヴォーカル、歌詞を度外視し曲想だけとってみても、なかなか興味深い並びの収録になっています。
まず、収録曲順にどんどんメロディー音域が高くなる。また、収録曲順にどんどん和音展開が複雑になり、難解な構成になります。
一方アレンジは、ハードからポップへと、順を追って柔らかくなっていきます。難解な曲になるほど味付けがポップになるというのは、鉄人バンドのセンスの良さですね。

これすなわち、ヘヴィーなものが好きな人は前半2曲が好きで、ハートウォームなものが好きな人が後半2曲が好き。
演奏に耳の行きやすい人は前半2曲に惹かれ、構成に耳が行きやすい人は後半2曲に惹かれる。
そんな状況がハッキリ起こってくる作品なのかもしれません。僕はどちらも全部好きなわけですが、敢えてどちらかと言うと後者なのかな。

ある先輩が、このアルバムの4曲を「起承転結」に例えました。
当然3曲目の「F.
A.P.P」は「転」。歌詞の段階でもうすでに「転」ですけど、柴山さん渾身の曲想についてもやはり、そう言えるんですね。
ハードな2曲を受けての、明快なポップ・チューンです。
そう、「F.
A.P.P」は僕の大好きな”パワー・ポップ”というジャンルに近いナンバーだと思っています。

”パワーポップ”はオルタナ系のバンドと類して評されることが多いけど、僕の好きなバンドやアーティストは、ちょっとその観点とは違います。
一番好きなのは”ファストボール”というバンド。ちょっと1曲紹介しますと

http://www.youtube.com/watch?v=HhjHICy5tW0

「You're An Ocean」。Aメロのコード進行に、「F.A.P.P」のサビと同じ展開があります。

明快で、ちょっと哀愁のあるメロディーを、元気良いビートでバンド・サウンドへと昇華する。これがパワー・ポップの醍醐味。
「F.
A.P.P」にも、同じエッセンスがありますね。

とにかく柴山さんの作曲、というかコード感は凄い。「やわらかな後悔」よりも、斬新度では「F.A.P.P」の方が上ですね。
キーはホ長調→嬰ヘ長調→嬰ニ短調→イ長調と移行していきますが、転調部で「D」のコードが突飛な起点になっているのが、いかにもギタリストらしい展開です。
例えば

♪ かけがえのない大事なふるさと ♪
  B          D           F#            G#  C#

この箇所などは、普通に鍵盤の理論で考えると反則スレスレの進行。どの部分がどの調である、と特定できません。この1行全体が、調から調への長いブリッジ部になっています。
また、ここと似た箇所で

♪ こんなにしたのは誰だ ♪
  D         A              B   C#

よく似ているメロディーなんですが、先程の箇所とは最後の「C#」の果たす役割がまったく異なっています。
「ふるさと♪」の「C#」は、嬰ヘ長調のドミナントであり、「誰だ♪」の「C#」は、すでにサビのイ長調のメロディーに同化しています。「BYE BYE 原発♪」で登場する「C#」と同じニュアンスなのです。
この、サビ直前の一度「D」(レ・ファ#ラ)を起点に使用してから「A」(ラ・ド#・ミ)→「B」(シ・レ#・ファ#)→「C#」(ド#・ファ・ソ#)のそれぞれ1音ずつの上昇を経て、躍動的なサビへと流れるコード進行、メロディーはゾクゾクするほど美しい。
これは

♪ 大人はいつも 子等を想  い ♪
  E        B         D        B   C#

というAメロの「想い♪」の部分でのコード進行・・・その残像をサビ直前に再度提示する、という意味合いもあります。
「さっきはグッと押さえこんだけど、今度はバ~ン!と行っちゃうよ!」という効果があるのです。

実は・・・Bメロからの流れは特にそうなんですけど、僕は「F.
A.P.P」のコード進行とメロディー、そしてドンピシャの伊豆田さんのコーラスなどの要素から、エレクトリック・ライト・オーケストラのリーダー、ジェフ・リンの作曲手法を想起してしまいます。
ジュリー・ナンバーを聴いてジェフ・リンの手法を思い浮かべるのは「確信」「心の宇宙(ソラ)」「エメラルド・アイズ」に次いで4曲目。意外と多いですね。

http://www.youtube.com/watch?v=flYPAWwQqmE

「Bluebird」。32秒あたりからのBメロに、「F.A.P.P」Bメロと同じ展開のコード進行が登場します。

「F.A.P.P」では、伊豆田さんのコーラスが本当にE.L.O.よろしく、といった感じで柴山さんのコード感をくっきりと浮かび上がらせています。
究極にポップなコーラス・・・これもまた「F.
A.P.P」の大きな魅力のひとつだと思います。

ではいよいよ、鉄人バンドの演奏考察に移ります。
いつものように、CD音源の演奏トラックをすべて書き出してみましょう。

・エレキ・ギター(バッキング、たぶん下山さん)
・エレキ・ギター(リード・ギター、ギタリストの判別がつきません!)
・ドラムス(GRACE姉さん)
・ピアノ(泰輝さん)
・アコースティック・ギター(元気の良いストローク、これまたギタリスト判別がつきません・・・)
・エレキ・ギター(バッキング、たぶん柴山さん)

ということで、さて困りました。
4つあるギター・トラックのうち、2本のバッキング・エレキギターは立ち位置通りに(ミックス配置通りに)左が下山さん、右が柴山さんで間違いないと思われますが・・・残る2トラックの判別がつきません。

もしミキシングがステージでのギタリストの立ち位置に沿っているならば、ボトルネック奏法を含むリード・ギターが下山さんで、コード・ストロークで弾きまくっているアコギが柴山さんということになりますが・・・。
イメージだけで言うと、逆ですよね。これは柴山さんの曲ですし、自らリード・ギターのフレーズを考案し演奏した、というのが普通の考え方でしょう。

でも・・・この曲のリード・ギターの手クセが、僕には何となく「エメラルド・アイズ」のそれっぽく聴こえるんですよ。曲調のせいでそう思うのかな・・・。
あと、エンディングの一番最後の最後、ブルブル震えるような音でリードギターの余韻が残っていますよね?あの音が、下山さん特有のビフラートを思わせるんです。
柴山さんはどちらかと言うとエフェクトのサスティンで音を朗々と伸ばし、一方の下山さんは、ビフラートの指圧で粘って音を伸ばす・・・僕にはそんな印象があるものですから。
ギターのトラックは柴山さんと下山さんで2トラックずつの演奏なのでしょうから、どちらかがリード・ギターでどちらかがアコースティック・ギターなのだとは思います。

ただ、レコーディング・テイクをどちらが演奏しているかどうかに関わらず、LIVEでは柴山さんがリード・ギターを弾くと僕は予想します。

というわけで、それでは恒例のコーナー・・・鉄人バンドの演奏の見所を、LIVEでの配置予想と併せて解説してみましょう。

柴山さん・・・エレキギター
僕は今回のツアーで「緑色のKiss Kiss Kiss」が歌われる可能性が高いと考えています。実現すれば、「緑色~」では下山さんのスライド、そしてこの「F.
A.P.P」では柴山さんのスライドと、鉄人バンド両ギタリストのボトルネック奏法競演が見られる、ということになりそうです(2曲とも下山さんだったら、ごめんなさい)。
弾き終わった後のボトルネックの行方にも注目ですね。柴山さんはこの曲ではコーラスも頑張るでしょうから、スタンドマイクに近い位置での演奏になるでしょうし、やっぱりマイクの手前にスッ、と引っかけるのかな?
最後のサビ直前、「当然♪」の「Z」が「D」に化ける箇所に絡みつくようにして噛み込んでくるリード・ギターが、LIVEでは特にカッコイイ演奏部になると思っています。

下山さん・・・エレキギター
個人的には、こういうアップテンポのエイト・ビートでこそガッシャンガッシャンと弾き倒すアコギを観たいなぁ、とも思いますが、おそらくLIVEではエレキギターでのバッキングを担当、と予想します。
というのも、柴山さんがコーラスで忙しい箇所については、下山さんが入れ替わって単音リードを弾く場面も若干部あるのでは、と考えるからです。この曲で下山さんがコーラスをとる姿は思い浮かばないので・・・。
もし僕の予想が外れ、下山さんが全編リード・ギターで柴山さんがバッキングに回るパターンだった場合は、エンディングのビフラート、そしてやはりボトルネックの行方に注目ですよ~。

泰輝さん・・・ピアノ、オルガン
今回のこの曲のLIVEで、泰輝さんはCD音源には入っていないオルガンの音を新たに加えてくる、という・・・これは我ながら大胆な予想です。
伊豆田さんのコーラスに負うところの大きいエレクトリック・ポップの雰囲気を、泰輝さんのオルガンで表現できるのではないか、と僕は思っているのです。
ピアノについては、イントロの「E(トニック)」→「Eadd9」→「Esus4」→「E(トニック)」という、究極にポップな和音での小節頭の突き放しに注目。
トニック、add9、sus4のコード展開は、爽快な楽曲では王道中の王道で、キーは異なりますが、ジュリー・ナンバーでは「ビロードの風」のイントロなどが同一の進行です。
そんな王道進行をこの曲のアレンジで一手に引き受けているのが、泰輝さんのピアノなのです。
(ちなみに、コードの組み合わせが「sus4」→「トニック」→「add9」→「トニック」の順序に入れ替われば、「G.S. I Love You」のイントロなどが例として挙げられます)

GRACE姉さん・・・ドラムス
音源のドラミングで僕が一番惹かれるのは、1番のサビ部最後に炸裂する、タムのオカズのフレーズですが、ここはLIVEではその日その日のノリに合わせてフレーズを変えてくる箇所だと思うので、生で聴けるかどうかは自信がありません。
サビでキックの手数(いや足数か)が増える見せ場は、LIVEでも同じだと思いますが・・・。
あとは何と言ってもコーラスです。
Bメロの追っかけは柴山さん担当と予想しますが、その他ひっきりなしに重なるブ厚いコーラス・ワークで、女声のGRACE姉さんの果たす役割は大きいでしょう。
そうそう、余談ですけど・・・先日の老虎ツアー・ファイナルのNHK放送を観て、「シーサイド・バウンド」の「ひゃあ~~~っ!」がGRACE姉さんだったのには驚きましたよ~。
本当に、大活躍の紅一点だったんですねぇ・・・。

さて、最後に。
今の福島の人達の暮らしというものを、僕はまだ自分の目で見ていません。
でも・・・先述した友人の佐藤君の話などからしても、ごく普通に、当たり前に、穏やかに暮らしていらっしゃるんですね。
ただ、本来かからなくて良いはずの心の負担が、極度にかかっている・・・そこを何とかしよう、という時期に今は来ているのだ・・・そういうことなんじゃないか、と思うわけです。

以前「Beloved」の記事で書いたことがありますが、南国鹿児島育ちの僕は、未知なる東北の涼やかな山並みに憧れ、大学入学で上京してすぐに東北新幹線の車内販売のアルバイトを始めました。
あの頃は『やまびこ』と『あおば』だけだったなぁ。
仙台駅が中継ステーションになっていて、よく社員食堂のまかないで、ご飯と味噌汁、そして初めて食べる美味しい漬物にありつきました。

車内の売店は、チーフが東北所属の社員さん、売り子が上野所属のアルバイトという関係。僕は最初、チーフの方言バリバリかつ短い言葉での指示が聞き取れずに怒られ、苦労しました。
チーフのおじさま方は、無口な人が多かったように記憶していますが、次第に、打ち解けていきました。
仙台駅でポツポツと話をしたりして、あぁ、これが東北のテンポなのかなぁ、と思ったものでした。

ただ・・・当時の記憶ながら、仙台駅や盛岡駅はよく知っているんですけど、福島駅、郡山駅というのは、勤務乗車の車内から眺めるだけだったんです。降り立ったことはありません。

一度、福島を見てみなきゃ、と思っています。
僕が行ったって、何ができる、とかいうわけではないのですが・・・フラリと歩き回ってね、ラーメンが食べてみたいんです。
別に、有名な喜多方系でなくてもいいんです。
かつて車窓から見た、ああいう雰囲気の土地は、有名でなくとも美味しいラーメン屋さんがひっそりと何軒もあるような気がする。サービスで、最高に美味しい漬物がほんの少しついてくる・・・そんなお店があるんじゃないかなぁ、と。

僕なりの、福島に寄せる思いです。
「ラーメンかよ!」って言われるでしょうけど・・・。僕は真面目にそんなことを考えています。

ジュリーが福島に思いを寄せた「F.
A.P.P」は、シンプルにとても素敵な曲だと僕は思います。
確かに被災者の方々にとってはシンドイ・・・そういう側面は必ずあると思う。でも、爽快なメロディーも含めて、大名曲だと思ってます。
僕はこの曲が好きだ・・・それは、揺るがない。

でもね・・・本当に書きたい、伝えたいのは、次の曲なんですよ。
今回の更新だけで「F.
A.P.P」の記事は完結しません。もちろんそれは「3月8日の雲」「恨まないよ」にも言えること。
もちろんここまでの3曲があってこそ、乗り越えてこそ、のラスト1曲、というふうにも言えると思います。
拙ブログとしても、執筆が辛いほどの3曲を乗り越えた後で・・・僕はやっと、ジュリーが「シングルはこの曲だよ」とオフィシャルサイトに追記した大名曲について書ける、という歓びに浸ることになります。

次回は、「カガヤケイノチ」です!

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2012年3月20日 (火)

沢田研二 「恨まないよ」

from『3月8日の雲』、2012.3.11

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1. 3月8日の雲
2. 恨まないよ
3. F.A.P.P
4. カガヤケイノチ

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密林さんから、ようやく発送メールが来ました。
これで週末には、YOKO君も『3月8日の雲』を聴けるでしょう。早く語り合いたいものです。彼独特の感想が今から楽しみです。

揺るぎないのは、『3月8日の雲』というアルバムは、4曲の中でリスナーそれぞれの好みがありながらも、その4曲をたて続けに聴かねば意味がない、ということ。
誰しもが、4曲全曲に何らかの化学反応を起こす・・・そんなアルバム。
どの曲も違った形で胸を打ち、4曲全体でひとつのコンセプトが完成します。1曲だけ抜け落ちることなど、あり得ない。
4曲という少ない収録曲数がこれほどまで効いている作品はそうそう無いでしょう。それはまるで、クラシック作品の楽章構成のように感じられます。

化学反応と言えば・・・僕が初めてアルバムを聴いた際に「素晴らしい曲だと理解しているのに、耳を塞ぎたくなった」という何とも激しく不思議な反応を体験させてもらった曲・・・。
今日は、アルバム2曲目「恨まないよ」がお題です。

伝授・・・と言うにはあまりにも切ない、この曲ばかりは。
記事構想を練る段階から、辛い思いと戦いました。自分に嫌気がさすこともありました。
しかし、思いのほか筆が進み早めに更新できたのは、やはり真剣に曲と対峙したからでしょう。気力というのは大事ですね・・・。

さて、あくまで男性から見て、というお話になりますが・・・女性というのは「弱さ」「脆さ」の象徴であったりします。
だから男性は、女性を護ろうと思ったり、場合によっては避けたり・・・と、おそらく女性の側からすれば「一体何やってんの?」というような迷走を見せることがあります。
僕が今対峙し、自分の迷走を自覚しなければならないほどに崇拝し、畏怖し、或いは拒絶と紙一重のところで気持ちが行き来している、あまりにも「女性」的な曲・・・それが、『3月8日の雲』2曲目収録のラウド・ロック・バラード「恨まないよ」ということになります。

アルバム『3月8日の雲』を聴き終えてまず考えたのは
「自分はこの作品全曲の考察記事を書こうと公言してしまっているのか・・・」
という、戦慄、困惑の感情でした。
全曲について考察する、それを文章として書く、ということにこれほどまでに大きいプレッシャーを感じたのは、初めてのことです。
「プレッシャーとは、その人の持つ器に対してかかるものだ」とは、将棋棋士のトップ中のトップとして今なお君臨する羽生善治さんの言葉ですが、やはり『3月8日の雲』のコンセプトに正面から向き合うには、僕では器が足りていないのでしょうね。
正直僕の器では、特に「恨まないよ」については「なんとか立ち向かう」のが精一杯となっている状態です。

僕にとって、圧倒的に「女性」の弱さを感じさせる曲。
男子たる自分が「護る」という気持ちで高揚するのか「避ける」という気持ちに従い退散するのか・・・迷い躊躇う曲。

作曲が、女性のGRACE姉さんです。
その時点で単純に「辛かっただろうなぁ」と考えてしまう。聴き手たる自分の余計な思い込みが作曲クレジットの時点で勝手に加味されるわけです(そんな人は僕だけかもしれませんが)。

ジュリーの歌詞で一番辛いのは何と言っても冒頭の2行で、この箇所についてはさすがに最初に耳にした時
「そこまで言ってしまうのか、ジュリー!」
と、怖くなってしまったほどでした・・・。

みんな      流され  
      E♭m  E♭m7    E♭m6

君がひとり   残さ  れ
      A♭m7   B♭7    E♭m

この箇所については本当に辛いことを書くけれど・・・ごめんなさい。
僕はこの冒頭の歌詞をジュリーの声とメロディーで耳にした瞬間、昨年3月13日にテレビで観た、行方の分からない母親を探し求める幼い少女の映像が、突然頭に甦ってきたのです。

身体が無意識に忘れようとしていたのでしょうね・・・この1年間、自分の中で封印していたと言ってもよいシーンが、「恨まないよ」によって鮮明に引き起こされてしまいました。そして、離れてくれない・・・。
聴くたびにあの映像が頭をよぎり、胸がつぶれそうになり、涙が出ます。これは、曲を聴き慣れてきた今でも変わらないことです。

あの日、その映像を観た時、隣にいたカミさんは小さな悲鳴を上げてテレビから目を背けました。
一方僕は・・・「何を撮ってるんだ!」と、テレビに向かって怒った・・・。
しかし、僕のような者が勝手に怒って、それが何になったというのでしょうか。
単なる卑屈な心の裏返しではないのか、それは。

僕らは遠く離れた場所で、こたつに入ってそのシーンを観ていたに過ぎないのだ・・・。

客観的に見れば、そういう絵になります。
この「恨まないよ」の記事の下書きを始めてすぐに、「ホテル・ルワンダ」の話を先輩のブログで拝見しました。
僕は、本当に折れそうになりました・・・。
これは、あの日の僕のことだ、と。

地獄それ以上
B           G♭

この世界 終わるのを見たんだ
  E                             B♭7

こんな感情を突きつけられて・・・僕などに、一体何が分かると言うのでしょう。
今自分が書こうとしていることは何なのか。
書いて何になるというのか。
わざわざ書いて、それで傷つく人が増えるだけなのではなかろうか・・・と。

迷い・・・苦しみ・・・。
そして、だからこそ、僕はジュリーの歌を聴く。

心を乱しながらも、こうしてどうにかこうにかこうして執筆できているのは、この「恨まないよ」が、聴き手の迷いを断ち切るほどに、真に大名曲だからです。

この曲の素晴らしさの根本は、まずGRACE姉さんや、幼い少女や・・・世に女性の存在ありきであった、と僕は個人的に思っています。
「女性的な曲」なんていう感想を抱くのは、ジュリーナンバーでは初めてのことなんですけどね・・・。

さぁ、そこでジュリーのヴォーカルです。
「恨まないよ」のヴォーカルは凄い。本当に凄まじい。
「慟哭」という表現がズバリなのですが、かといって大げさに泣き叫ぶような歌唱があったり、感極まってメロディーを大げさに震わせたり、という表現はありません。
どちらかと言うとジュリーは、淡々とメロディーを歌っているのです。
驚くべきことです。この胸をしめつけられるような悲痛な歌声が、淡々と歌っている・・・?「そんな筈は!」と何度も聴いてみて・・・それでもその印象は崩れない。
ジュリーの低音は理知的ですらあり、高音は勇壮ですらあります。決して、悲しみを押しつけようとはしていません。
だからこそ滲み出るのは、ジュリーの本気。

これは、本物の気魄だ・・・本物の歌だ。

そう思います。
ジュリーのヴォーカル・テイクを聴いて一番打ちのめされたのは、ひょっとしたら作曲したGRACE姉さんだったかもしれませんね。

ここで、「恨まないよ」という曲をタイトルと作曲クレジットだけを頼りに、リリース前に書いた記事内で僕がどんなふうにこの楽曲内容を予想していたかを、振り返ってみますと・・・。

雰囲気的には「バタフライ・ムーン」や「海に還るべき・だろう」のような、可愛らしいリズム、メロディーとアレンジをイメージします。ジュリーの詞も恨み節ではなく、カラッとしたものでしょう。

なんと、見事なまでに真逆!
大ハズレもいいところで・・・恥ずかしくなるほどです。

考えてみれば僕はまず、GRACE姉さんについての考えが途方もなく浅かった・・・。
彼女のような繊細な詩人の魂を持つ女性が、あの1年間を踏まえて1曲作る、となった際に「楽しい裏打ちのレゲエ・リズムのドラムを叩きたい」なんていうだけの曲を作るはずがないではありませんか!

「恨まないよ」のメロディー、和音進行は、70年代後半から80年代のハード・ロック、或いはヘヴィー・メタルにおける、重量感のあるバラードでよく見られるパターンです。僕自身はそれらの洋楽を好んで聴いてはいませんでしたが、同じバンドでギターを弾いていた友人の佐藤哲也君によく聴かせてもらっていたその手の楽曲を、すぐに思い起こしました。

徹底してハードな、変ホ短調バラードです。
これはGRACE姉さんにとっての直球だったのでしょう。
ハード・ロック系のバラードはポップス系以上に短調が好まれます。「重さ」が求められますからね。
GRACE姉さんにとって、2011年の出来事を受けて作る曲としてこれ以上の曲想は無かったのでは、と考えられます。

メロディーを聴いたジュリーに、感ずるところは大きかったはず。

ジュリーも渾身の直球で、詞を返しました。あまりにも重く、美しく、あまりにも聴く者の心をさらされる名曲の誕生です。

ジュリーのヴォーカルについては、メロディー最高音の高い「ソ#」=「ラ♭」の登場に触れないわけにはいきません。
前回記事の繰り返しになりますが、近年のジュリー・ナンバーは高い「ファ#」や「ソ」を最高音として設定して歌われていたようなのです。
それがこの新譜でいきなりの引き上げ・・・これはジュリーの覚悟、気持ちであると僕は受け取りました。
このアルバムだけは、自分の限界ギリギリの力を尽くして伝えたい作品だったのだと思うのです。それが「恨まないよ」の最高音「ソ#」(=「ラ♭」)、そして「F.
A.P.P」「カガヤケイノチ」でのさらに高い「ラ」の音での、強烈なヴォーカルに表れているのです。

♪ きっときっと 立ち直れるはずさ
        E♭m      D♭

  恨まないよ 海 よ ♪
     B       B♭7   E♭m

この強烈過ぎるサビ部2回し目の「立ち直れるはずさ♪」の「れ♪」が最高音です。
高い・・・!
凄いのは、この最高音部は曲中で3度するのですが、ジュリーのヴォーカルのせり上がり方が、1度目より2度目、2度目より3度目の方が「パ~ン!」とジャストで最高音に到達するのです。
特に3度目の抜けの素晴らしさ。普通にサラッと声が出ているように聴こえますけど、一般男性にとってはそう簡単に歌える高さではないのですよ・・・。おそらく声が出ず歌えない人の方が多いでしょう。
ジュリーの場合単に「歌える」だけでなく、このド迫力、この存在感ですからね。本当に素晴らしいヴォーカルです。

ちなみにこの曲のサビは、1回し目が6小節で叩き斬られ、すぐに2回し目に移行します(普通ならば8小節)。この変則的な小節数は、「めぐり逢う日のために」の譜割りに通じるところがあります。
これはGRACE姉さんのアイデアだったのでしょうか・・・。僕には、鉄人バンドの面々がスタジオリハで
「ここで、すぐ次に行くところがいいよね」
と、サビの小節数について語り合っている光景が浮かんできますね~。

ということで、GRACE姉さんを中心とする鉄人バンドのアレンジ、演奏にも目を向けてみましょう。
ここでもGRACE姉さんの「寄り添って欲しい」「包んで欲しい」という渇望を推察することができます。。

メロディーについては70~80年代的な「恨まないよ」ですが、アレンジについては、80年代から90年代にかけての様々な洋楽の要素が入り組んでいます。これらは、演奏者としてのGRACE姉さんがタイムリーで吸収し、身体に馴染ませてきたサウンドでしょう。
ここで前回記事同様、ヴォーカル以外のすべての演奏トラックを書きあげてみます。例によって、柴山さんと下山さんの役割が逆である可能性もありますが、僕なりに判別してみました。

おおよそ左サイドから右サイドへの順で列記します。

・エレキ・ギター(重厚な歪み系エフェクト、たぶん下山さん)
・エレキ・ギター(LOSER時代を彷彿させるいぶし銀の単音バッキング、下山さん)
・オルガン(泰輝さん)
・ベース(電子鍵盤による疑似音、泰輝さん)
・ドラムス(GRACE姉さん)
・エレキ・ギター(サスティン深めのリードギター、たぶん柴山さん)
・エレキ・ギター(コーラス・エフェクトが効いた裏リード的フレーズ。たぶん柴
山さん)
・エレキ・ギター(重厚な歪み系エフェクト。たぶん柴山さん)

エレキギターのトラックは、何と5つ。
このことだけとっても、前作『涙色の空』とはアレンジに対する鉄人バンドのベクトルがまったく違っていることが分かります。

さらに、楽器構成の列記段階で気がつく重要事項が、二つあります。
今回のアルバム『3月8日の雲』収録曲のうち、唯一アコースティック・ギターを使用していない曲であること。
この曲はあくまでハードな路線で纏め上げたい、という理由によるものでしょう。

そしてもうひとつ・・・2006年『俺たち最高』以来、ベースレス体制の新譜リリースが続いてきたジュリーのソロ作品に、初めて泰輝さんによるベース音が登場したこと。

ベース音の導入は、ちょっとした事件ですね。
電子鍵盤の進歩により、プレイヤー感覚を持たない聴き手からするど、エレキベースなのか鍵盤なのか判別すらできないほどに、現代の音楽には「疑似ベース」が溢れています。ただ、「生」の感覚を追求する者にとってそれは邪道とされ、おそらくジュリーも同様のスタンスに立っていたものと僕は考えていました。
それが、ここへきて突然の、疑似ベース採用。何があったのでしょう?

僕の推測は、GRACE姉さんがアレンジ段階でベースの導入を切望したのでは・・・というものです。
ベースとは本来、ドラムスと一心同体のリズム・セクション。ジュリーの詞を汲み取ったGRACE姉さんは、ベース音が恋しくてたまらなくなったのではないでしょうか。
そして打診を受けたジュリーもGRACE姉さんの気持ちを重視し「やってみたら」と優しく言ったのではないかと思います。かくして、、疑似ベース・サウンドを採り入れたジュリー・ナンバーが、2012年に例外的にリリースされることになりました。
このアルバムでなければ、このコンセプトでなければ、実現しなかったことかもしれませんね。

さぁそれでは・・・前回記事同様、この曲での鉄人バンドの演奏の見所を、LIVEでの担当楽器配置予想と併せて解説してみましょう!
(もし、柴山さんと下山さんが逆だったらすみません~)

柴山さん・・・エレキギター
間奏リードギターに注目。サスティンが強く、ワンコード(E♭m)に載せて自在に、感情的な揺さぶりを思わせるフレーズ・・・これは柴山さんの演奏でしょう。
また、「あなたへの愛」のリードギターを思わせる、コーラス×ディストーションの緊張感ある音色の単音も、柴山さんが担当するでしょう。特に「みんなのぶんも♪」から始まる「救い」の歌声、メロディーに絡む箇所では、柴山さんの入魂度も増すはずです。

下山さん・・・エレキギター
何と言ってもAメロからBメロにかけて炸裂する、残響音を複雑に利用した単音バッキング。僕が20歳の時に初めて生で聴いた下山さんのギターの音、印象に残ったのが正にこの音でした。泉谷しげるさんを聴く方は、「春夏秋冬」のLOSER時代のヴァージョンでのギターを思い起こしたのではないでしょうか。
下山さんがこの刀をジュリー・ナンバーで抜くことは珍しく、僕がまず想起するのは『1999 正月コンサート』で、オリジナル音源のイメージを一新した「Courage」の演奏です。GRACE姉さん好みの音でもあるでしょうから、この奏法の採用についてはGRACE姉さんから下山さんへのリクエストがあったのかもしれません。
僕にとっては郷愁が同居するギター・サウンド。生で聴くのが今から本当に楽しみです。

泰輝さん・・・オルガン、ベース
幸い今回のアルバム収録曲では、泰輝さん作曲の「3月8日の雲」以外の3曲については、キーボード・アレンジの自由度が高いのです。
先に列記した各トラックで、この曲に限っては泰輝さんの演奏が1トラックで済ませられた可能性もあると僕は思っています。オルガンが登場する箇所と、ベースが登場する箇所がハッキリ分けられているからです。
当然、LIVEでも泰輝さんはベースを弾くことになります。これまでは過去のナンバーの音色再現という役割に留まっていたシンセ・ベースが、いよいよ今年は新曲で披露される・・・そのバンド・アンサンブルへ及ぼす影響に注目してみたいです。

GRACE姉さん・・・ドラムス
聴き所としてイチオシしたいのは、サビ部のオープン・ハイハットです。
ここではハイハットのペダルは全開にされ、通常は重ね合されている二重のシンバルが大きく開いて遠く離れてしまっているため、ジャストのアタックよりもコンマ数秒遅れて「シャ~、シャ~、シャ~」と重厚に擦れ合います。
サビのシンバル音をCDでお聴きになれば、その「遅れる」感じはさほど苦労せずとも、みなさまにもお分かり頂けるはずです。
こういったパターンの「アトノリ」はロック・ミュージック独特のものです。ベース音と重厚なギターに寄り添われ熱演するGRACE姉さんの、この曲に込めた思いを是非感じとりたいと思っています。

ところで「恨まないよ」では、アレンジのみならずミックスについてもひとつ工夫があります。
1番AメロとBメロまでのヴォーカル以外の演奏トラック全体にエフェクトがかけられ、音が圧縮されたような雰囲気を出しているのです。
これは、アフター・ネオ・モッズから進化したパワー・ポップ系のバンドがよく使う手で、エフェクトが解除された瞬間に「バ~ン!」という迫力の効果を狙っています。「恨まないよ」で言うと

♪ もっともっと   立ち直るまでは ♪
               E♭m           D♭

のサビに入った瞬間に、音量がバン!と上がりますよね。もちろんベースや2本のギター・トラックが噛み込んでくる、というのもあるんですけど、一番効果的なのは、その瞬間にトラック・エフェクトが解除されている、ということなのです。

ある先輩がね、この曲を聴いて『明日は晴れる』収録の「100倍の愛しさ」に似ている、と仰ったんです。
なるほど、と感心しました。僕は思い当たることができずにいましたからね。
2曲の共通点は、和音の構成音のうち1音だけをクリシェ進行させるギター。或いは、自らを責め悔恨の感情を晒した歌詞です。
しかし実は・・・「100倍の愛しさ」にも「恨まないよ」と同様のエフェクト効果が採用されているのです。受ける印象を似通わせている要素としては、これがとても大きいんです。

ちなみにこのエフェクト効果を一番語りやすいジュリー・ナンバーは、『CROQUEMADAME & HOTCAKES』収録の「カリスマ」です。あの曲はジュリーのヴォーカル・テイクにまでトラック・エフェクトがかかっていますから。
「ベイベ~♪」からいきなりガ~ン!と来るでしょ?分かりやすいですよね。

最後に。
初めて聴いた時には、名曲だから故の拒否反応という不思議な体験をした「恨まないよ」ですが、ジュリーの歌詞に「時間の経過」があったことが、僕をすんなり引き戻してくれました。
「あの日境に蘇った海」への思いが、時が経つの示唆しています。

考えてみれば、「3月8日の雲」にもそれがありました。
あの曲は、「あの日から1年経った」という歌なんですよね。1年後の3月11日の空が穏やかであったことを、ジュリーは曲中で予言している・・・。

時は経ち、人々の心は少しずつ変わっていく。
ただ、忘れられない。忘れようはずがない、というのが前半2曲の役割でしょう。
そして一方の後半2曲は「これからどう生きていくか」という、1年経った3月11日(リリース日)より先のことをメッセージに込めている・・・僕はそう解釈しています。

僕が『3月8日の雲』というアルバムの作曲クレジットを考えた時・・・これまでの作風から一転、新たな刀を抜いたのが泰輝さんの「3月8日の雲」とすれば、残る3曲・・・GRACE姉さんの「恨まないよ」、柴山さんの「F.
A.P.P」、下山さんの「カガヤケイノチ」は、それぞれがジュリーのためにこれまで提供してきた作品中、最高傑作が3つ並んだ、と僕は思っています。
GRACE姉さんは重厚かつ女性らしいメロディーで、柴山さんと下山さんは目まぐるしい転調による見事な楽曲構成で真価を発揮しました。

いよいよ次回は、柴山さんの作品です。
究極のポップ・チューン。美しいメロディーと、卓越した転調理論を擁するこれまた大名曲。
しかしその一方で、やはり歌詞を考えると・・・問題作とも言えるでしょう。
ですからこの曲も、僕のような平凡な者にとっては真っ向から向き合って語ることが怖い。
特に、最初に歌詞カードを読みながら聴いた時「ジュリー、その表現は・・・!」と感じた箇所があったりして、僕はずいぶん悩みました。

しかし、僕もだてにジュリーにどっぷり遣って数年目を迎えてはおりません。
そういう時は、真剣に考えるのです。ジュリーは何故そうしたか、ということを。
ジュリーファンでいることは、考えることの繰り返し。ジュリーは必ず、ファンが考える余地を残してくれている。主張を押しつけたりせず、「考えてみ」と言ってくれる。
考えに考え、そして・・・「F.A.P.P」がどんな人に捧げられているかを、僕なりに推察するに至りました。

ヒントは、ツアーのインフォメーションにありました。

昨年の初夏、偶然のご縁から、僕もほんの少しだけ関わりを持たせて頂いた、小さな町。
ふるさとを他に持つ町。

次回記事では、そんな話をさせて頂きますね・・・。

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2012年3月16日 (金)

沢田研二 「3月8日の雲」

from『3月8日の雲』、2012.3.11

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1. 3月8日の雲
2. 恨まないよ
3. F.A.P.P
4. カガヤケイノチ

----------------------

戦慄の大名盤。
あまりに素晴らしい作品への大きな感動にも関わらず、賛辞の言葉が見つからない、或いは言いあぐねて、呆然と立ち尽くすことしかできない・・・そんな人達が、僕の知るだけでもたくさんいらっしゃいます。

2012年3月11日リリース『3月8日の雲』。
身震いするようなアルバム(と、敢えて呼びますね)が、新曲を待ちわびたジュリーファンの元に届けられました。

思えば、僕がジュリーに堕ちて以来、”火傷するくらいに激しいジュリー”というのはタイムリーで経験したことがなかった・・・。ジュリーにそういう資質があることは、分かっていたのだけれど。
こんな形でそれを味わうことになるとは・・・。
ジュリーはいつだって本気だったと思うけれど、今回の「本気」は桁違いです。

「激しい」というのは語弊があるのかなぁ。「魂が直接響く」とか、色々と言い方はできるんだけど、もうね、ストレートに・・・いつもだったら「そんなチープな言い方は避けよう」と思う言葉が、この新譜にだけはピタリとくる・・・つまり
「気持ちが入っている」
という、それに尽きると思うんですよね。


それは、ジュリーだけじゃなくて、鉄人バンドにも。
震災、原発事故で統一されたコンセプトが話題になっていて、どうしてもその点が特化して語られることになるであろう4曲。しかし忘れてはならないのは、この4曲の純粋な楽曲としてのレベルの高さです。そこはまず強調しておきたい。
鉄人バンドのメンバーそれぞれの作曲能力の高さが、今回完全に証明されました。これはもう「個人的に好き」とか、「ジュリーの歌だから好き」という範疇を超えたと言って良い・・・そしてそんな素晴らしい楽曲に、当然ジュリーが詞を乗せ、歌ったというのが、とにかく最高なのです。

「本気」とか「全力」とか評するとね・・・言葉がすごく安っぽいようですけど、『3月8日の雲』というアルバムは、真にそういう作品です。
鉄人バンドの演奏やアレンジ、そしてもちろんジュリーの作詞もそうです。
しかし抜きん出て凄まじいのは、何と言ってもヴォーカルなんです。

今回、歌のメロディーを採譜確認して、本当にびっくりしました。「恨まないよ」の最高音は、高い方の「ソ#」(=「ラ♭」)。そして「F.
A.P.P」「カガヤケイノチ」の最高音は、高い「ラ」の音です。
『歌門来福』ご参加のみなさま、生で体感した「スマイル・フォー・ミー」の最高音、エンディングの「ふぉ~、み~♪」を思い起こしてください。あれが、高い「ソ」の音でした。
(註:タイガースのオリジナル音源では「ソ#」が最高音ですが、『歌門来福』での演奏ではそれが半音下の「ソ」になっていました)
ジュリー、高い音歌ってるなぁ、ちょっと苦しそうだけど、頑張って出してるなぁ・・・そう思って聴いていましたよね?
そんな「ソ」の音よりも高い「ソ#」(=「ラ♭」)や「ラ」が、今回のアルバム収録の4曲中3曲で登場するのです。しかも、凄まじいド迫力のヴォーカルで・・・。

僕の経験で言うと、男性はとにかく30代後半から40代にかけて、ガクッと高音が出なくなってくるものなのです。
昔出ていた音が出せない・・・若い頃には平気で歌えていたメロディーが、年齢とともに歌えなくなってきます。

もちろんジュリーはプロの歌手。高音域のエキスパートです。
でも、そんなジュリーですら『ZU ZU SONGS』で
「昔はAなんて普通に出てたんだけどなぁ・・・」
といった感じのボヤキMCを残しています。
これは逆に言うと、「今はもう、Aの音を出すのが困難になった」ということなんですよね。その「A」というのが、高い「ラ」の音のことなのです。
それが何と、20年近くも前の話。
近年のジュリーの新譜を遡っていくと、どうやら最高音は高い「ファ#」から「ソ」の辺りを目安にキー設定がなされているようです。地声で高い「ラ」の音なんて・・・一体いつまで遡れば見つかるのか・・・。

時は流れて2012年。
64歳を迎えようかというジュリーが、何と新譜で、高い「ソ#」「ラ」の登場するメロディーを豪快に歌いきりました。

何故、そんな高い声が出せたのでしょうか。

答はひとつ。
それが、ジュリーの気持ちだからです。

自分の限界ギリギリのところまで踏み込まないと伝えられない・・・ジュリーはそう覚悟して歌っているとしか考えられません。
僕が「本気」と言うのは、そういう意味でもあります。

『3月8日の雲』・・・この、安易に「名盤」などとは口にしてはいけないような厳粛な雰囲気を持つ作品が、いかに当たり前に名盤であるかということ・・・「いいよね」「凄いよね」と皆で語り合えるアルバムだということを、僕はこれから4回の記事に渡って書いていきたいと考えています。
本当は、この『3月8日の雲』というアルバムについて、あれこれ言葉を並べ立てて楽曲考察する、評論する、ということは邪道かもしれません。リスナーそれぞれがどんなふうに感じたか、それが全てだと思います。
しかしそれも、聴いてこそ、なのです。

実は僕は『PLEASURE PLEASURE』や『涙色の空』を聴いた時には、「このCDを広く世に知って欲しい」というふうには考えませんでした。
ファンが大事に聴いていればいいんだ・・・そう考えていました。
今回は違います。ジュリーファン以外の人に、もっともっと多くの人に聴いて欲しい、という思いが止みません。何度も繰り返し聴く度に、その思いが強くなっていきます。
『ジュリー祭り』や老虎再来ツアーが話題になり、その都度、「沢田研二」の名を覚えている人が「あぁ、ジュリーは今こういうことをやっているんだな」と思ったでしょう。しかし、そういう人達がジュリーの新譜のことまで知っているかというと、そうではありません。
今、ジュリーがどんな歌を新しくリリースして歌っているのか・・・今回ばかりはそれを知って欲しい。

もちろんその思いの根底には、アルバムのテーマのことも当然ありますよ。でも、僕が聴いて欲しいのはまず、今のジュリーの歌声。
僕はこの『3月8日の空』というアルバムを、少なくともリード・ヴォーカルについては、ジュリーのキャリア史上最高の傑作だと考えています。
ジュリーも若い頃とはずいぶん声質が変わりましたが、今のジュリーの声というのは、このアルバムのためにあったのだ・・・そんなふうに思ってしまうほどなのです。

何10枚ものアルバムをリリースしてきた歌手が、64歳を迎える年にして出した、ヴォーカリストとしての最高傑作。
そんな奇跡が今普通に起こっていることを、広く知って欲しいと思います。

幸い拙ブログは有難いことに、ジュリーの楽曲タイトル、アルバムタイトルでの検索ではかなりヒットしやすい状況になっています。
何処かでジュリーの噂を聞いて、少しでも興味を惹かれた人が検索でこの場所を訪れてくださった時に、「ふ~ん、どんなものだか一度聴いてみようかな」と思って頂ければ・・・。

折しも、音楽劇『お嬢さんお手上げだ』の公演が始まっていますね。
観劇なさったお客さんで普段ジュリーのCDを聴かない方々が、売店で目にしたこのアルバムを購入されることを願っています。

そして・・・そういった人達とは別に、ジュリーファンでありながら・・・このCDを手にしながら、辛い思いが先に立って実際に歌を聴けないでいる方もいらっしゃいます。
それは決してお一人だけのことではない、と僕は考えています。

それもそのはず・・・このアルバムの曲達に真剣に対峙しようとするのには、途方も無いエネルギーが必要です。少なくとも3曲目までは、正面から向き合うには相当な覚悟がいります。
僕ですら、「凄い、大傑作だ!」とすぐに理解しながらも、初めてこのアルバムを聴いた際には「うっ・・・!」と耳を塞ぎたくなるような瞬間があったのです。素晴らしい曲が故に、聴くのが辛い・・・そんな体験はまったく初めてのことです。
ですから、震災や原発事故で傷ついた方々が、簡単に対峙できる内容ではないという側面も、確かにあると思うのです。

でも・・・そんな方々がいつか、心平穏にこのアルバムを聴いて、僕の記事を読んでくださる時が来る。
大丈夫、このアルバムは2、3年経てば忘れられるような、そんな一時的な作品ではありません。10年先、20年先にも大きな輝きを持って世に残っている1枚です。
たとえ読んで頂ける日が、遠い遠い先のことでも構わない。僕はその日のためにも今、『3月8日の雲』の全曲考察記事をこの場所に残しておこうと思います。

あぁ、やはり前置きが長くなっています・・・。
まずは1曲目のタイトルチューン、「3月8日の雲」。
発売前から楽しみにしていた、泰輝さん(今さら「大山さん」とは書き辛くて・・・改名なさったこの先も「泰輝さん」と表記させて頂きたいと思います)の作曲作品です。
伝授!

・・・と言いながら、話はいきなり逸れるわけですが(汗)。
みなさま、無事にもうこの新譜をお聴きになられたでしょうか。特に、密林さん予約組の大勢の方々・・・。
多くのみなさまにとって、実際この手にする、という作業からして大変な苦労を伴った新譜でしたね~。
お察し申し上げます。

僕も、密林さん予約組でした。
それ以外のルートで購入なさった先輩方の感想が、早くも10日からあちこちで拝見できました。
みなさま、明らかにいつもとは違う「凄い作品が届けられた」という思いが伝わってきて。
とにかく期待が膨らむばかり・・・。

まぁ、当初密林さんでは「到着が1日遅れの12日になる」という話があったらしく、僕が発売日の11日に聴けないでいるのを某所で嘆いておりましたら、同じ密林さん予約組の某組長(いや、決して密林予約組組長、という組長ではありませんよ。別の組の組長です)から
「男の子でしょ!1日くらい待ちなさい!」
と怒られたりしました。
(この話、2日後にはその組長自身が「送られてこないよ~!」と泣き叫んでいらした、というオチがつくことになります)

しかし・・・12日朝になっても密林さんからは発送メールすら来ない。
これはヤバイ!と思いました。
僕も仕事柄、少ないロッドで制作した商品が予想外の注文を頂けた場合の流通の混乱というものには敏感です。密林さんは最大手なだけに、そうした際の対応の迷走もスケールが違います。
これは下手をすると、緊急の重版が出来上がるまで発送されないパターンなのではなかろうか・・・。
不安が募ってきました。

12日のお昼には、たまたま仕事で移動があり、池袋から電車に乗ろうとしていた僕の足は勝手に動いて、パルコ別館のタワーレコードさんへ・・・(汗汗)。
平日の昼間、お客さんもまばらな店内で、滅多に行かないJ-POPコーナーに直行。え~と、「さ」だ、「さ」・・・「さかもと」・・・「さざん」・・・おっ、佐野元春の見たことないCDがあるぞ・・・え~、「さむえる」「さりゅー」「さわ・・・」。あった、沢田研二!

は?
何、この不自然な空間。

昨日まではそこに数枚のCDがありましたよ、というスペースが、虚ろに広がっています。
『PLEASURE PLEASURE』『涙色の空』・・・そして『ロイヤル・ストレート・フラッシュ』が3枚揃い。しかし、肝心なモノが無い!
何と、売り切れです・・・。

勤務中で、もうすぐにでも電車に乗って移動しなければなりません。サンシャイン通りのHMVさんまで足を延ばす時間は、とても残っていない・・・。
ダメ元で、駅西口のメトロポリタンプラザ内のHMVさんへと駆け上がりました。このお店は数年前に大幅にフロア縮小していて、まったく期待していなかったのですが・・・。
何と、平台で並んでいました~!
並んでいた、といっても残されていたのはたったの2枚でした。明らかに、数枚がすでに売れて無くなっているのです!
僕は掴み上げるようにして1枚を確保し、購入しました。

そして、電車に飛び乗りポータブルで聴いた1曲目が、「3月8日の雲」というわけです。
カッコイイ、ロック・ナンバーでした。

ここで、CDリリース情報が明らかになった際に自分が執筆した、楽曲予想記事を振り返ってみますと・・・僕は「3月8日の雲」という曲をこんなふうに予想しています。

抒情味あふれるバラードではないでしょうか

全然違~う!
予想の段階で僕の中にイメージされていたのは、「涙色の空」や「無事でありますよう」といった感じの、ピアノ伴奏がメインとなった穏やかなバラードでした。
予想は大外れです。
意表を突かれましたね・・・泰輝さんは今回のアルバムに臨んで、「尖ったロック」という刀を抜いて作曲してきたのです。
哀しみと共に、「怒り」をも表現したかったのでしょう。

短調のハードな和音展開・・・60年代後半に覚醒した洋楽ハードロックで王道とされる「Em→G→A→B7」の進行が踏襲されています。
「3月8日の雲」ではそれがト短調となって、「Gm→B♭→C→D7」という進行が軸になり、クールに展開。
鍵盤では「レ・ソ・シ♭」→「レ・ファ・シ♭」→「ミ・ソ・ド」→「ファ#・ラ・ド・レ」と弾くと雰囲気が出ます。

最初から大音量でガ~ッ!と攻めるのではなく、まるで「何か来る!」という生々しい予感を表現するように、まずはアコースティック・ギター(左右2トラック!)がリフを奏でます。
多くのジュリーファンのみなさまが「あれっ?これは何処かで聴いたような・・・」と感じたかもしれません。
僕もすぐに思い起こした曲。

耒タルベキ素敵」・・・?

しかしやってきたのは「素敵」では無かった。

♪ 誰かの想像を超えてた罰か
     Gm     B♭       C      D7

  平穏まじめに暮らしてたのに ♪
     Gm    B♭       C      D7

早口で畳みかけるようなこのメロディー部含め、Aメロはすべて、同じコード進行による循環です。
淡々と、しかし鬼気迫る緊張感を持って繰り返されるコード・リフ。

1曲目にしていきなりの、大きく踏み込んだナンバーです。
これは果たして、電車の移動時などに聴いていて良いアルバムなのか・・・そんな思いがよぎってしまうほどの、突き刺さるジュリーのヴォーカルが脳に響いてきました。

ジュリーのヴォーカル、違う・・・これまで聴いてきたどのジュリー・ナンバーとも違う。
すぐにそう感じたのは、僕だけではないはず。

ヴォーカルで特記しておきたい箇所は(他の収録曲も含めて)多々あります。

まずは、歌詞部以外でのジュリーの表現。
例えば

♪ やり切れんです そよ風に疼きます ♪
  F       E♭                C7      D7    D7+9

この直前に、ジュリーの呻くような息遣いがかすかに聴こえています。
曲のあちらこちらに散りばめられたこのような呻き、嗚咽、叫び・・・たとえメロ部、歌詞部でなくともジュリーの発声すべてに必然性があり、それは曲の大切な構成要素となっているのではないでしょうか。
僕は6月からのツアーでのこの曲の歌唱では、CD音源通りのジュリーの呻きや叫びが再現されるのでは・・・と考えています。

それにしても、今挙げた箇所・・・「そよ風に疼く」とは何と胸に突き刺さる歌詞でしょうか。
ジュリーが「風」をこんなふうに辛い対象として表現したのは初めてでは?
アルバム『3月8日の雲』を聴き、最初に「うっ!」と僕が怯んでしまった歌詞は、まずその部分でした。。

話をジュリーのヴォーカル表現に戻しまして。
とにかく、泰輝さん作曲の時点ではおそらく普通に美しくなだらかに繋がっていたであろうメロディーを、ジュリーは歌詞に応じて言葉を切る・・・いや、もっと激しく「途切れ途切れになる」と言った方が良いですね・・・とにかく迫真の「苦しみ」を表すヴォーカル・スタイルで、ジュリーが変換しているのです。
一番凄いのは、ブレイク部。

♪ 後悔ばかりです 優しさをもっともう
     B♭                  F

  解ってくれますか 深い闇を ♪
    Cm                      B♭ F

この部分は変ロ長調に平行移調しているのですが、とても長調には聴こえません。
歯ぎしりするように、息切れして今にも倒れこんでいくように、ジュリーが絶え絶えに言葉を叩き斬っているからです。

そして。
がなり倒すような怒声。シャウトで崩すのではなくメロディーをそのまま歌っているのに、語尾が怒りに震えている凄まじい箇所があります。

♪ 情けないです こんな目にあうなんて ♪
  F       E♭             C7           D7      D7+9

この、最後の語尾「て」のロングトーンが凄まじい・・・。
情けなさ、悔しさ、憤り。それらをすべて丸ごとぶつけてくるような、聴く者をたじろがせてしまうほどの迫力。

「言葉を失くす」・・・最初にこのアルバムを聴いた多くの先輩方が一様にそう仰るのは、歌詞によるものだけではない・・・これらに象徴される、ジュリーのヴォーカルの踏み込みの強さに圧倒されたからではないでしょうか。

では、鉄人バンドのアレンジ、演奏についてはどうでしょうか。
これがまた・・・凄い。曲の良さもそうですが、このアルバムの彼等のアレンジと演奏もジュリーのヴォーカル同様、これまでの作品とは何か違う。そう感じませんか?
その「何か」を紐解いてみなければ・・・。

まず、ヴォーカル以外のレコーディング・トラックを書きだしてみましょう。おおよそ、左サイドから右サイドへと聴こえている順に列記します。

・アコースティック・ギター(たぶん下山さん)
・オルガン(泰輝さん)
・ドラムス(GRACE姉さん)
・ピアノ(泰輝さん)
・エレキ・ギター(たぶん柴山さん)
・アコースティック・ギター(たぶん柴山さん)

僕がこのアルバムを通して聴いて驚いたことのひとつに、鉄人バンドの演奏トラックが『涙色の空』よりもずっと多くなっている(一人二役の割合が多い)ことが挙げられます。
『涙色の空』で押しすすめられた、可能な限り余計な音を排除し、ジュリー+鉄人バンドのLIVEでのリアルな再現に近い音作りをしていくという方針・・・僕はこの先、それがずっと引き継がれるだろうと予想していました。
しかし今回の『3月8日の雲』では、各メンバーが積極的にオーヴァーダブ(後から重ね録りをする)に取り組んでいるようなのです。
これは一体、どういうことでしょうか。

僕の推測は、こうです。
新譜制作の話が具体化し、まずは鉄人バンドの4人が曲を仕上げる。簡単な演奏とメロディーのデモ音源がジュリーの手に渡り、ジュリーが詞を載せる。
そして、ジュリーの仮歌・・・その詞を踏まえて各メンバーが改めてアレンジを練る。
つまり、鉄人バンドそれぞれの自作曲のアレンジ段階で、ジュリーの詞を解釈する、という過程が間に入ったのではないでしょうか。
どうすれば、ジュリーの詞をより表現できるか。もしくは、ジュリーの詞に各メンバーがどういう思いを持ったか・・・そういう要素がアレンジに盛り込まれたと思うのです。

例えば、今回のお題とは別の曲の話になってしまいますが、GRACE姉さん作曲の「恨まないよ」。
僕は、「まさか!」と耳を疑いました。
2006年リリースの『俺たち最高』以降、どんなにスカスカになろうとも、ジュリー・ソロの新譜について「疑似ベース」を導入することは毅然として避けられてきました。今は、シンセサイザーで簡単にベースの代役を果たせる時代ですが、それは(おそらくジュリーの意思でしょう)頑なに拒まれてきました。

ところが今回、「恨まないよ」のサビで、泰輝さんがシンセベースを弾いているのです!
GRACE姉さんはジュリーの詞を踏まえて、本来ドラムに寄り添い一心同体となるべきベースの音が、どうしても恋しくなったのではないでしょうか。そしてそれを打診されたジュリーも、優しく「やってみたら」と言ったのでは・・・。
まぁ、このお話は次回記事でまた詳しく・・・ね。

『3月8日の雲』の鉄人バンドが何か違う!と感じるのは、このアレンジの作り込みによるところが大きいと僕は思います。
そして当然、ジュリーの詞にそれぞれが思うところがあったはずですから、演奏も渾身のテイクになります。
何度も4人で打ち合わせて、それぞれが何度も自宅リハを重ねて、レコーディングされたのでしょう。あの短期間に仕上げられたとはとても思えない、入魂の音です。何故それが為し得たかと言えば・・・これもまた気持ち、気魄でしょう。
ジュリーと共にある鉄人バンドの「本気」も、怖いほどの迫力でこのアルバムに大きな力を添えています。

しかし・・・オーヴァーダブのテイクが多くあるというのはそのまま、ギタリストの判別が難しい、ということでもあり、悩ましいですねぇ・・・。
一応僕は4曲の考察記事すべてで、自分なりに柴山さんのテイクと下山さんのテイクを推測して書いていこうと考えていますが、実際には二人の役割がまるっきり逆、という可能性もあります。
そんな中でこの「3月8日の雲」は、比較的自信あり!かな。

せっかくですから今回は、各メンバーそれぞれの演奏の見せ場を、6月から始まるツアーでの担当楽器予想と併せる感じで書いてみたいと思います。
もし柴山さんと下山さんが逆だったら、ごめんなさいね。

柴山さん・・・エレキギター
1番のラスト間際で叫ぶように切り込んでくるカッティング・リード・・・この間奏部が単音のギターソロではなく、ギリギリと重く切り刻むカッティングであることは、鉄人バンドの歌詞解釈の為せるアレンジ・アイデアだと考えられます。
柴山さんはLIVEでこの変則カッティングを、身体ばかりでなく表情を激しく歪めながら弾きまくるのではないでしょうか。
また、最後のサビ部では一転、ジュリーのヴォーカルにガンガン絡む単音リード・ギター。ここでも凄まじい演奏と表情が見られるはずです。

下山さん・・・アコースティック・ギター
LIVEでは、イントロからしばらく(1番終了まで)は、下山さんのアコギ独壇場となるでしょう。
Aメロ「D7」の部分での、細かい単音挿入や「D7+9」への瞬時のフォーム移行に注目です。
他パートの音が厚く噛んでくる2番以降は、とにかく全体の音に負けじと、首を大きく縦に振り乱しながらの渾身のストロークが見られるでしょう。

泰輝さん・・・オルガン、ピアノ
1番直後の柴山さんのカッティング・リード部は、3回し目で泰輝さんのオルガン・ソロも合わせて炸裂するという、大きなうねりを持つ箇所です。
そしてリフレインに戻って以降は・・・左手ピアノ、右手オルガンという泰輝さん必殺の”神の両手”が大いに期待されます。
エンディングの「折れないよと♪」の辺り、複音で奏でられるピアノは、ビリー・ジョエルの「グッドナイト・サイゴン」を彷彿させます。最後の最後に美しい上昇フレーズが待っている・・・これが泰輝さんの男気と見ました。

GRACE姉さん・・・ドラムス
全編気迫溢れる演奏ですが、何と言っても一番の見せ場は、ジュリーのヴォーカルとGRACE姉さんのドラムスだけが残されるブレイク部。
ピーの”鬼神ロール”とはタイプの異なる、重厚ながら美しくキッチリと3連符リズムにのっとった”鬼姫ロール”を絶対に聴き逃してはなりません!

さて、最後になりましたが・・・。
僕がこの曲に向き合って執筆を始めた時、一番「辛いなぁ・・・」と考えさせられた歌詞について。
一番最後の部分です。

♪ 心ない言葉に 折れちゃいけない君を想うと
    Cm                     B♭       F           E♭

  折れないよと 折れないで ♪
           E♭                   Gm

まずこれは、被災した方々の気持ちを代弁している・・・そう感じられます。最初はそれだけだと思っていました。
しかし、繰り返し聴くうち、これはジュリーが自分自身を奮い立たせている歌詞ではないか・・・そう思えてきました。

被災者の方々の心情の「代弁」と言えば、2度にわたり同一の箇所で登場する「元気な人はいい」「賢い人はいい」というくだりは、まさにそうでしょう。
「元気な人」というのは、被災していない人のこと。
「賢い人」というのはなかなか解釈は難しくて・・・例えば、僕などは全然賢くはないんですけど、「遠く離れた所から、たとえそれがどういう気持ちで発せられたにせよ、あれこれと言葉だけを弄している」・・・そうした人達全般を指すのでは、と思った時・・・もしそうなら、この僕も「3月8日の雲」で歌われている「賢い人」に属することになります。
被災された方々が「元気な人」「賢い人」に向ける、複雑な気持ち。
「あなたたちはいいよね。当事者じゃないから」という、辛辣とも言えるジュリーの歌詞の踏み込み。
まずはそこを考えます。

そして改めて、「心ない言葉」というフレーズを考えてみます。
それは、ジュリー自身にも返ってくるかもしれない・・・そうしたことを承知で、覚悟を決めてこのアルバムを作ったジュリー。
「賢い人」達の中には、悪意を持つ人もひょっとしたらいるかもしれない。それでも「折れちゃいけない」「折れないよ」「折れないで」と、自らを鼓舞する。

何故そこまで・・・?
それは、「君を想うと」です。

「折れちゃいけない君を想うと」・・・この歌詞で使われる「君」が、ジュリーから見た、被災された方々すべてを指していると考えられるわけです。
あくまで個人的な考察ですが・・・いかがでしょうか。

それでは・・・次回のお題は2曲目「恨まないよ」です。
実は収録曲中で一番、考察記事執筆に気力・体力・覚悟を要するのがこの「恨まないよ」なのです。
昨年の3月13日にテレビで観たある映像が、この曲を聴くとまざまざと脳裏に甦ってくる、ということもあるし・・・「怖れ」に似た感情と戦いながらの執筆になりそうです。
もしかすると、23日のNHK放送に力を貰わないと纏め上げられない状態に陥るかもしれません。
そこまで時間がかかったとしても、どうかお許し下さい。必ず書きますので・・・。

凡人の僕にとって「邪気を払う」ことはとても難しいけれど、とにかく全力でこの素晴らしいアルバムの曲達と対峙しようと思っています。

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2012年3月 7日 (水)

沢田研二 「薔薇の門」

from『LOVE~愛とは不幸をおそれないこと』、1978

Love

1. TWO
2. 24時間のバラード
3. アメリカン・バラエティ
4. サンセット広場
5. 想い出をつくるために愛するのではない
6. 赤と黒
7. 雨だれの挽歌
8. 居酒屋
9. 薔薇の門
10. LOVE(抱きしめたい)

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今年のジュリー・ソロ・ツアー『3月8日の雲~カガヤケイノチ』、前半スケジュールの澤会さんへのチケット申し込みも、締め切りが迫っていますね。
みなさまはもう参加会場は決まりましたか?
僕の周りのJ先輩やJ友さんの中には、本当に締切日直前になるまで熟考する方々(最近、ギリギリズと命名された模様です)が結構いらして・・・毎度毎度「万が一間に合わなかったら・・・」と、何故だか我が事のようにハラハラさせられております。

 

僕は今回、びわ湖への遠征を決めました。
先の老虎ツアーでも随分遠征にお金がかかってしまったし、節約の意味もあって、ツアー前半の申し込みは初日渋谷と合わせ2会場だけに絞りました。
いずれも第2希望の記入が必須。まずは無事に希望通り当選することを願っています。

後半にはきっと東北での公演もあるのでしょうね。
前半スケジュールでは、北関東の会場の多さが目立ちます。北関東も、昨年から苦しい思いをしている土地です。そしてジュリーはその中に「さすがジュリー!」という、皆の意表を突いた、しかしジュリーからすれば行くのが当然、という会場を組み込んできましたね。
そのお話はまた、次の機会に。

 

本当はこの前半で、YOKO君(『ジュリー祭り』参加の相方であるバンド仲間)を誘える日程があると良かったのですが・・・お目当ての川口公演が平日だったため、後半スケジュールでの大宮公演実現に期待をかけることになりました。

 

しかし困った・・・。
というのも、毎回のジュリー・夏~秋ツアーに際し、僕のブログはLIVEレポのネタバレ禁止期間を設けており、解禁までは別館のside-Bの方に記事を上げているのです。
それもこれも、YOKO君が「絶対にセットリストを事前に知りたくない」派であるため。
そこに気を遣うとなると、拙ブログのネタバレ禁止期間は最低でも9月まで続くということに・・・。それはいくら何でも長期ネタバレ禁止が過ぎるのではなかろうか。
僕としては、できればびわ湖のレポからは本館に執筆し、ネタバレ解禁にしたいところなのです。
ちょっと彼と相談しないといけませんね・・・7月末からはブログ読んでくれるな、とか。

さて、僕とYOKO君はジュリー・ナンバーの中でもかなりマニアックな曲を好む点では共通していますが、意外や猛烈に好きなアルバム、激烈に好きな曲というのはバラけています。
そんな中で互いに激賞、語り合い出すと止まらなくなる不思議な魅力を持つアルバム『LOVE~愛とは不幸をおそれないこと』から、本日のお題を採り上げたいと思います。
圧倒的に冬が似合うアルバム、ということで・・・3月ながらまだまだ寒い季節のうちに、この名盤から1曲書いておきたいなぁ、と。
(昨日、今日と暖かい日が続きましたが、明日からまた寒い冬の気候に戻ってしまうようですね。せっかくですから、ジュリーの真冬~なアルバムを楽しまれてはいかがでしょう?)

阿久さんの”やり過ぎ度”MAXな歌詞を、大野さんとジュリーがノーガードで正面から迎え撃った名曲。
「薔薇の門」、伝授~!

♪ 恋は嵐   愛は命 そして二人は
  Am   Em  C      B7      Am   Em

  薔薇の   門      薔薇の門 ♪
         Am   B7               Em

一体これはどういう状況の物語なのか。
それがよく分からない、その不可思議な言葉の群れが妙に心を高揚させるという・・・これはアルバム『LOVE~愛とは不幸をおそれないこと』全曲に満ち満ちている魅力。

で、その「不可思議」という点においては、「薔薇の門」が収録曲の中で最も秀でているのではないでしょうか。「不可思議が秀でている」というのも変な言い方ですが、とにかく「ワケわからん、それが素晴らしい!」というのが僕にとっての「薔薇の門」なのです。
サビの歌詞のワケわからなさが、楽曲全編に物々しい影を落としているような。

「恋は嵐♪」

ここはまぁ、分かる・・・と言うかさほど珍しい表現でもなく、「あぁ、激しい恋なんだなぁ」と。
ところが

「愛は命♪」

阿久さん、命ですか。
愛は命・・・?命とは何ぞや・・・分かるような気もしますが、言葉の並びが豪快で、瞬時に咀嚼できません。
これは・・・要は「愛>恋」と並べて「命>嵐」ということかなぁ。「嵐」よりも激しい漢字1文字3音のフレーズとしての「命」でしょうか。

「そして二人は♪」

そして・・・?
何がどうして「そして」なのでしょうか。「薔薇の門」が分からない以上にこの「そして」の耳当たりは、強烈過ぎます。
おそらく、「断言」とか「不変の事実」としてのフレーズでしょう。「ゆえに」とか「だから」という理由づけの意味をも含みつつ、淡々とした時間経過がそこにあります。
結局、この愛(どういう愛だ?)に嵌ったからには、その激しさは嵐であり代償は命であり、行き着くところは「薔薇の門」なのだと。
オマエはもう堕ちている!」的な、クールな必然としての「そして」。そう考えますがいかがでしょうか。

「薔薇の門、薔薇の門♪」

ここが、僕にとって一番の謎であり、興味深い点でもある最大のヤマ場です。
「薔薇の門」を2度念押しして繰り返す威力の凄まじさ。
もしも阿久さんの歌詞が最初からリフレインになっていたとすれば、そのセンス、整合性たるや神技の域だと思いますし、また可能性のひとつとして、阿久さん作詞の段階ではただ単に
「そして二人は薔薇の門」
となっていたのを、大野さんがメロディーの盛り上がりに付随して言葉数を合わせたのではないか、とも考えられます。

アルバム『LOVE~愛とは不幸をおそれないこと』収録曲では、「24時間のバラード」にも謎の歌詞繰り返しパートが登場します。
「24時間のバラード」が阿久さんの計算された豪快なレトリックであるのに対し、「薔薇の門」は大野さんの作曲段階の脚色で後付けのリフレインとなったのではなかったか・・・とても興味を惹かれるところです。

「薔薇の門」というのは、「行き着くトコまで行き着いた情愛の在り処」みたいな意味かとは思います。
しかしまぁやっぱり「薔薇」の響きからでしょうね・・・怪しからんことも普通に想像されるわけで。

考えてみればYOKO君ってのも、何という曲好みの傾向を持つ男なのか・・・。
大好きなジュリー・ナンバーということで話を振るとすかさず「バタフライ革命」や、この「薔薇の門」のタイトルが口を突く男。
あと、アルバム『JULIE WITH THE WILD ONES』の中では「僕達ほとんどいいんじゃあない」が一番好きだと広く公言。しかも好きな理由というのがね・・・。

僕はその点、あまり深く考えないようにしています・・・。

さて、「薔薇の門」はホ短調王道のメロディー。
阿久=大野=ジュリーのトライアングルで固められたアルバムとしても3枚目ということで、「薔薇の門」も、すっかり円熟した大野さん作曲の真骨頂的な作品。実はその進行は、「LOVE(抱きしめたい)」とかなり似通っています。
そんな2曲がアルバムのラストに続けて収録。初めてCDでアルバム通して聴いた時には、こんな曲順の纏め方もあるんだなぁ、と感心させられたものです。

 

アルバム全編そうなのですが、針の穴を通すような正確な演奏が聴かれますね。アルバムの制作期間が短かったのでしょうか・・・そのせいか、いかにも譜面片手にプロが演奏しました、といった感じです。
そうした作品は味気なく感じる場合もあり得ましょうが、このアルバムではそのいかにも歌謡曲的な手法が逆に冬の冷たさ、寂しさを表現しているように聴こえ、ジュリーの歴史の中でも異色の名盤たらしめています(これは、阿久さんが真に歌謡曲の申し子であり、天才作詞家であったことも大きな成功要因かと思います)。

 

従って、楽器構成も王道。
ジュリーのヴォーカル以外のトラック内訳は

 

・ドラムス
・ベース
・ピアノ
・エレキギター(コード・カッティング)
・アコースティックギター(左右2トラックに分けての2度弾き)
・ストリングス
・パーカッション

 

となっています。
それぞれ淡々としながらも上品で隙のない演奏ですが、細かいことながら僕が特に惹かれるのは、要所で渋く絡んでくるパーカッション(おそらくマラカスにエフェクター処理を施したトラック)です。
噛んでくるのはBメロから。

♪ 心もからだも唇も 凍えて冷たくなっている ♪
   Am             Em      D                        G

 

ゾッとするほどの正確さで「しゅしゅっ!」と、小節2拍目の裏拍に16分音符の連打で不気味に鳴ってます。
鬼気迫る冷酷さ、とでも言いましょうか。
歌詞やメロディー、それにジュリーのヴォーカルの影響もあるのでしょうが、甘美を越えて、何か危ない魅力も感じるんですよね・・・。

 

これらのことから僕が「薔薇の門」で頭に浮かべる絵は、冬の郊外。都会は都会ですけど、にぎやかな場所からは少し離れた、人通りの少ない住宅街の夜。
その一角にある洋館で、何やらよくは分からないけれど、怪しい情事が繰り広げられようとしている・・・そんな光景です。
洋館の門前に音もなくすべりこんだ外国車から、二人連れの男
(←おいおい)が降り立ち、館内へと姿を消していく・・・。
で、夜の闇に沈みこむようにして止められたその車のトランクには、人知れずポケット小僧が潜んでいるというわけですよ!(意味わからない人、多いかと思いますごめんなさい)

 

このように、僕が「薔薇の門」はじめ、『LOVE~愛とは不幸をおそれないこと』収録曲の暗い闇の部分に強く惹かれるのは、幼年時代に愛読していた怪しげな書物のエッセンスを感じるからなのかもしれません・・・。

といったところで・・・。
いよいよ11日が迫っています。考えてみれば、去年もまだまだこの頃は寒かったんですよね。
何とかジュリーの新譜『3月8日の雲』全曲の考察記事を、3月が終わるまでにすべて書いておきたいと考えています。
まずはしっかり聴き込むことから・・・多くのみなさまもそのようにお考えかと思います。

その前に、”これぞ真冬なジュリー!”『LOVE~愛とは不幸をおそれないこと』を聴いて、しばし浮き世から離れ、怪しい世界を彷徨ってみるのも良いと思いますよ~。

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2012年3月 2日 (金)

沢田研二 「勝手にしやがれ」

from『思いきり気障な人生』、1977

Omoikirikiza

1. 思いきり気障な人生
2. あなたに今夜はワインをふりかけ
3. 再会
4. さよならをいう気もない
5. ラム酒入りのオレンジ
6. 勝手にしやがれ
7. サムライ
8. ナイフをとれよ
9. 憎みきれないろくでなし
10. ママ……

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澤会さんからのインフォメーションが到着し、いよいよ3月が開けました。
辛い記憶、忘れられない3月・・・しかし今年は、ジュリーファンにとって楽しみの多い3月です。
まずはジュリーのツアー・スケジュール確認、参加会場選びから、3月の楽しみを始めましょうね。

6月23日・渋谷から始まるツアー・タイトルは『3月8日の雲~カガヤケイノチ』。
これは、何人かの先輩が書いていらっしゃる通り、新譜の収録曲4曲すべてがそのままツアー・タイトルという考え方で良いのでしょう。
やはり、新譜の4曲いずれもが、昨年の3月に関係あるメッセージを含んだ作品である可能性が高くなったと思いますが・・・どうでしょうか。

さてさて。
「伝授!」
・・・などとはとても言えない、今回の記事。お題は何と、「勝手にしやがれ」です。

有名な曲ですから下手な解説はできません。しかし後追いの僕がどう書いても、結局は自分の見識の低さを露呈することになります。

ただ、『ジュリー祭り』セットリスト網羅を拙ブログの現実的な大目標とし、毎年10曲前後の執筆ペースでジュリーの70越えに間に合わせる、と公言している以上、少しずつでもそんな有名曲について記事に採り上げていかなければ、『ジュリー祭り』制覇は成りません。

そんな折、3月2日放送(今夜ですな)の『僕らの音楽』にて山下○久さんが、「勝手にしやがれ」のカバーを披露するという情報が・・・。
僕としてはこれまでも、この曲をジュリー以外の人が歌う、ということに違和感バリバリだったりもするのですが、山下さんは幅広い年代の女性に支持されているトップ・アイドルの一人で、ジュリーファンのみなさまも今夜の放送は結構楽しみにしていらっしゃるご様子。
カミさんも彼のことは「カッコイイ」と言っていましたし。

ただ、「勝手にしやがれ」は・・・ジュリーの大ヒット・ナンバーをカバーする身にとってすれば、特に手ごわい1曲になると僕は思いますよ~。

容姿が美しい、振りがカッコイイ、歌が上手い、というそれだけでは全然ダメでしょう。
”男がカッコをつける=強がる”という阿久さんの美学を何処まで咀嚼できるか。しかもこの曲では、愛する人に去られた主人公が、そんな美学と裏腹にやぶれかぶれになっている・・・その「やぶれかぶれ感」が表現できるかどうか。
いわゆる音程やロングトーンなどの技術的な”歌唱力”ではなく、カッコ悪いくらい捨て身になって、なおかつそれが逆にカッコイイ、という”到達力”が大いに問われる楽曲なのではないでしょうか・・・。
その点が本家・ジュリーに迫っていれば、現代でも伝わるものは相当に大きいはず。それだけの威力を持つ曲です。
この歴史的大名曲が再び大きな話題になるように、頑張って欲しいですね・・・。

 

このように、「誰もが知る」超大ヒット・ジュリー・ナンバーは、若いプロ歌手がカバーすることすら難しいのでしょうが、後追いファンの素人がブログ記事を書くというのが本当に難しいです。
ですから、今回僕はいつもとはちょっとアプローチを変えて執筆しますね。
この「勝手にしやがれ」という曲が僕の世代(アラ45ということでお考え頂ければ・・・)の男性にとって、どれほどインパクトがあったのか・・・自分の幼年時代の実体験を踏まえて、そんな話をしてみたいと思います。
よろしくお願い申しあげます!

 

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↑ 今回の参考資料 ドレミ楽譜出版社・刊『沢田研二イン・コンサート』

まず、今回「勝手にしやがれ」の記事を書こうと思い立ったのは、老虎ツアーを体験して、「やっぱりザ・タイガースの”この1曲”と言えば『君だけに愛を』だよなぁ」と実感した、という経緯があって。
じゃあ、ジュリーのソロ・キャリアで”この1曲”と言えばどれだろう、と考えたわけです。
で、偶然に山下さんの話題がありましたので、それにもあやかって、この機に一気に書いてしまおうか、と。

 

ドームの本格ジュリー堕ち以降は、僕もとても多くのジュリーファンの先輩方とお話させて頂いたり、ブログのコメントで色々と教えて頂いたりして、僕の知らないタイムリーな空気というものがおぼろげに見えてきました。
そうしたことを踏まえて考えると、どうやらジュリーの”この1曲”は「時の過ぎゆくままに」が頭ひとつ抜け出ているみたいですね。

 

でもね・・・僕の世代は、『悪魔のようなあいつ』(今日は、久世光彦さんの命日なのですね・・・)にギリギリ間に合っていないんですよねぇ。
よっぽどの環境じゃないと、「時の過ぎゆくままに」のタイムリーな記憶はハッキリとは持ち得ないのです。女性であれば、また違うのかもしれませんが・・・。
従って、「自分がたとえジュリーファンでなくても」という観点に立った時、「ジュリーと言えばこの曲」と尋ねられたら・・・僕の場合は圧倒的に「勝手にしやがれ」ということになります。

 

この曲が爆発的に大ヒットし、皆が口ずさみ、あらゆる人が注目した暮れのレコード大賞を見事受賞した年・・・僕は小学校の5年生でした。
この「5年生」の辺りというのはなかなかジャストな年齢ですよ。日々の生活の中に、ちょっと自我の覚醒みたいな感じが出てきて、それと共に、友人の中には芸能人を本気で好きになるような人も現れます。
思春期が始まる頃なんでしょうか。
これは正しく、多くの先輩方がタイガースのジュリーに恋した年齢、ということがそのまま証明してくれていますよね。

 

まぁ「恋する」まで行かないまでも、芸能人の分別、と言うか好き嫌いの線引きの感情というものは、この頃の男子にはハッキリ出てきます。
例えば、小学校5年生の僕のクラスで圧倒的に人気が高かったのは、まずは山口○恵さんですね。
10歳過ぎかそこらのガキ共が、毎週TVで『赤い』シリーズを夢中で観ていたわけです。キスシーンがあった回の翌日などは、クラスの男子の雰囲気はまるでお通夜のようだったっけ・・・。

 

そんな感情に反比例するように、男子達はその一方で、クラスの女子が熱を上げているような男性アイドルに対しては、異常なまでに厳しく当たります。

「ファンレターの返事が来たって?本人が書いてるわけないだろ、そんなんで喜んでバッカじゃねぇの?」

みたいな、とても酷いことを平気で言うのです・・・いや、すみません、他人事のように誤魔化すのはやめましょう・・・言いました、僕は。郷○ろみさんのファンだったM峯さんに。その節は心無い物言いをしまして申し訳ありませんでした~!

 

まぁとにかく、チャラい男のアイドルなんて眼中に無し、と考え始める年頃だということなんでしょうねぇ。
ところが、ですよ。
「勝手にしやがれ」という豪快な曲を歌いながら、帽子をカッコつけて放り投げるお兄さん(=ジュリー)を悪く言う男子は、全然いなかったのです。
当時の小学生高学年の男子に、ジュリーの「勝手にしやがれ」は大ウケでした。
本当に「流行る」というのは、ああいう雰囲気を言うんだろうなぁ。

 

雰囲気の一例を挙げますと。
当時、男子の間で凄く流行ったのが、言うまでもないかもしれませんが”帽子投げ”でしたね。
例えば、たまたまクラス全員、体操服の格好で休み時間を過ごしていたとします。短パン穿いて、赤白帽かぶってね。で、その教室は3階(小学校って、だいたい年長のクラスが高い階にいますよね)だったとご想像ください。
一人の男子が窓際で何やら考え事をしながらボ~ッと呆けていますというと・・・背後から音もなく忍び寄った悪友が隙を突いて「むんず!」とその男子の帽子を掴み取るやいなや

 

♪ 行ったきりなら幸せになるがい~いい~♪
  G                                    C           Esus4  E7

 

と、必ず歌付きで、窓の外へ帽子を投げてしまうのです!
被害に逢った男子は、階段を駆け下りて、校庭まで帽子をとりに走らなければなりません・・・。
このように、当時の小学校高学年男子が体操服でいる時は、常に帽子を飛ばされないように気をつけていなければならなかったんですよ~。

 

あまりにそんなことが頻繁に起こるので
「窓から帽子を投げないように」
と、全校生徒朝礼か何かで校長先生の注意を受けたこともあったっけなぁ。あんまり効果は無かったけどね!

 

そうして、明らかに流行している、支持されている、という実感とともに迎えたその時の暮れのレコード大賞で、ジュリーの「勝手にしやがれ」が見事受賞を果たした時は、男子達も皆「やった!」となりました。

今でこそ、受賞前には多くのジュリーファンの先輩方が随分ヤキモキして「大丈夫かなぁ」みたいな感じで心配していらしたのだ、と後追い認識していますが、当時の僕ら小学生の感想は、「圧勝」です。ごくごく当たり前の受賞だったのです。
難しいことまで考えていない年頃でしたからね。今年はこの曲が一番に決まってるじゃん、という感覚だったのだと思います。
ただ・・・事情はよく理解はできないけど、ジュリーがひどく感激しているのは伝わってきて、TVを観ながら子供心にウルウルしていましたけどね。

この感覚については、時が経ってから知った逸話があります。
若くして亡くなってしまった、僕らと同世代のトップ・プロレスラー、橋本真也さんの逸話です。
橋本さんの全盛期に発売された特集ビデオがありまして、その作品には試合以外に色々な企画映像が収録されており、その中で、少年時代の橋本選手の思い出について尋ねられた家族の方が
「テレビで、ジュリーがレコード大賞をとったのを見て感動して泣いていた」
というエピソードを披露したのです。
橋本さんも照れ笑いを浮かべながら
「うん、泣いた泣いた!」
と認めていました。それだけ少年期の心に強く残っていたシーン、楽曲だったということなのでしょう。

橋本さんは僕の1つ年上でしたから、当時6年生ですか・・・学校で、同じような”帽子投げ”の体験をきっとしていたと思いますよ。
そして、「勝手にしやがれ」のレコード大賞受賞は、特別熱心なジュリーファンでなくとも、僕らの世代に共通して残っている、鮮やかな記憶なのです。
何と言っても当時のレコード大賞は、子供心にもとても大きな権威があるように感じられていましたしね・・・。

 

そんな記憶によるところなのでしょうか・・・僕にとって「勝手にしやがれ」は、偉大な”歌謡曲”というスタンスです。僕は”歌謡曲”という言葉に悪いイメージは持っていません。作詞・作曲・編曲・演奏・・・それぞれのプロフェッショナルが細部にまで心血を注いで練り上げた楽曲を、歌い手が完璧に表現した時の歌謡曲のエネルギーは、本当に素晴らしいですから。
「勝手にしやがれ」は間違いなくその最高峰の存在でしょう。

 

しかし、改めてこの曲の音源を聴き込むと、「ロック」魂をも感じさせるアレンジであることも分かります。
僕が特にロックを感じるのは、パーカッションとエレキギターです。
パーカッションの楽曲世界に入り込んでの躍動は強烈ですし、右サイドに振られたエレキギターも、ミックス音量こそ絞られていますが、ガンガンにディストーションがかかっています。
『PLEASURE PLEASURE』ツアーの大阪、この曲ではジュリーに目を奪われつつも、至近距離の柴山さんのグイグイと激しいカッティングが耳に飛び込んできていたことを思い出します。その時は、「随分ハードな音だなぁ」とも思ったのですが、実はオリジナル音源に忠実な演奏であり、躍動感であったわけですね・・・。

それにしても・・・いざ熱烈なジュリーファンになって勉強してみると、この曲には本当に多くのエピソードがあり、歴史がありますねぇ。
『夜のヒットスタジオ』を鑑賞するだけでも、色々なことに気がつきます。ジュリーだけでなく、井上バンドのテンションも相当高いですし。
『夜ヒット』でのこの曲、初めの頃は、ジュリーが帽子を投げるシーンも普通にそのまま流れの一部として普通に映っていますよね。それがだんだんと、カメラで帽子を追うようになってきます。
「今撮ってるのはココだよ!」とカメラ側から合図するようになって、ジュリーがそのカメラに向かって投げるようになったのかなぁ、と想像できますが・・・実際はどうだったのでしょうか。

 

あと、様々な先輩ブロガーさんが「勝手にしやがれ」について書かれた記事を拝見するのも、とても楽しいです。僕にとっては知らない話ばかり・・・「ええっ?!」とか「ほおぉ・・・」とか、ただただアングリしながら勉強させて頂いています。

 

少し前には、ちゃちゃ様がこの曲について書いていらっしゃいました。
それによりますと・・・作曲の大野さんの中では、この曲の主人公は、昼間は肉体派の労働に従事する男、ということで。
最初は「えっ?」と驚きましたが、よく考えると「なるほどなぁ」と思えてきます。
例えば、バクチやってるようなイメージ、という”キャラクター”把握という要素もそこにはあると思いますが、やはりこれは
「男が、普段は見せない本性を現す」
という、阿久さんの詞から得た大野さんの解釈が楽曲コンセプトに反映したものなのではないでしょうか。
ジュリーの本性の中にこの曲の主人公のキャラクターは無いように思いますが、ジュリーは忘我の境地で歌うことで、見事にそのコンセプトを表現しきっていますよね。

 

現代の若き男性トップ・アイドルが、果たしてその境地に近づくことができるか・・・お手並み拝見、といったところで。
判断は目利きのお姉さま方にお任せいたします~!


~追記~
YOU TUBEに、こんな「勝手にしやがれ」もありました。
あまりに面白かったので貼っておきます。制作した方、素晴らしい!
猫好き必見!
http://www.youtube.com/watch?v=faOzFDL3VhE

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